熱血神官の訴え
信秀
その
だが、那古野城主である信長の姿は見当たらない。
内藤勝介の部隊が那古野城を出立する前日のこと――。
「何⁉ こたびの
信長は、信秀の使者として那古野城にやって来た
信長は普段は物静かだが、怒りを爆発させると、燃え上がる
そばに控えている一番家老の
こういう時に、
「信長様。
政秀は、静かな口調で、そう言い諭した。
烈火のごとく怒っている信長様にそんなことを言ったら……と秀貞は冷や冷やしている様子である。だが、信長の
信長が父親譲りで短気なのは確かだ。しかし、筋の通った諫言ならば、耳障りなことを言っても、信長は意外と怒らないのである。
案の定、信頼する平手の
「たしかに平手の爺の申す通りじゃ。権六、顔を上げろ。怒鳴って悪かった」
素直な性格の信長は、八つ当たりしてしまったことを勝家にきちんと詫びた。
この少年は、非常に頭の切り替えが早い。自分が間違えていたと気づくと、ほとんど迷うことなくそれを改められる。いつまでも自分の感情や思い込みに囚われることがない。
(信長様とはこれまで親しく言葉を交わす機会が無かったが……。恐ろしい一面はあるものの、どうやら聡明なお方のようだな)
勝家は、信長に対してそんなふうに好印象を抱き、ゆっくりと頭を上げた。
「従軍できぬのは無念だが、世継ぎである俺が父上の命令に逆らうわけにはいかぬ。『この信長、しっかりと留守居の任を果たしまする』と俺が申していたと父上に伝えてくれ」
「ハハッ。必ずやそのようにお伝えいたしまする」
信長と勝家のやり取りを見守っていた政秀は、ニコリと信長に微笑み、それでよいのですと目で語りながら
……だが、実を言うと、政秀の心の内はそれほど穏やかなものではなかった。信長様が思わず声を荒げてしまうのも無理はない、と同情をしていたからである。
(昨年、信長様は初陣で手痛い敗北を経験してしまっている。そのせいで、「信長様は戦下手なのか。あの方が世継ぎでまことに大丈夫なのであろうか」と不安がる家来たちまで現れておる。重臣たちの不安を払拭するためにも、信秀様はなるべく早い内に信長様に二度目の出陣をさせて華々しい手柄を上げさせるべきだと
どうやら信秀様は別の心配をなさっているようだ、と政秀は主君の迷いに思いをはせていた。
信長が今回の美濃攻めに従軍して勝てばいいが、もしもその戦いが負け戦だったらどうなるか……?
ただでさえ最初の戦歴で土がついてしまっているのに、敗戦を重ねたら、信長の武名は完全に地に堕ちてしまう。息子に対して過保護なところがある信秀は、
――絶対に勝てる保障のある戦でなければ、信長は連れていけぬ。
と考えているのかも知れない。
しかし、それではいつまでたっても、信長に汚名返上の好機が訪れることはないだろう。駿河には
(近頃、六角家との同盟を発案した
政秀はそんな
その夜、彼は信秀宛てに「どうか、信長様にも出陣のご許可を」と手紙を書いて古渡城に使者を送ったが、信秀の返答は
* * *
政秀が自邸で信秀への書状をしたためていたその夜。
就寝中だった信長は、真夜中の来訪者に叩き起こされていた。
「うわぁぁぁ‼ 信長様ぁぁぁ‼ 無念でござる‼ 無念でござるぅぅぅ‼」
寝所に
清楚かつ厳かな雰囲気をまとった神主の衣装。
毛筆で書き殴ったような極太の眉毛。
そして片手には薙刀。
ちぐはぐな服装と容貌のこの男は――尾張国では言わずと知れた武闘派神職の
「な、ななな何だ⁉ 季忠か⁉ そ、そなた、いったいどうやってここに入って来た!」
熟睡していたところにいきなり抱きつかれ、しかもその相手が顔面暑苦しい野郎だったら、さすがの信長でも仰天する。声を裏返しながら、「こんな夜中に客を城に入れるとは、門番どもは何をやっているのだ!」と叫んでいた。
ちなみに、夜中の来訪者を止めようとした門番の兵士たちは、季忠が薙刀の一振りで蹴散らしてしまっている。信長の寝所にたどり着くまでにも、
が、ワンワンと泣いている季忠は、それらのことをいっさい説明しない。信長に頬ずりしながら「信長様ぁぁぁ‼ 私は無念ですぅぅぅ‼」とひたすら泣き続けている。信長の麗しい顔は、季忠の脂ぎった顔にこすりつけられ、べっとべとになっていた。
「は……話を聞いてやるから、その頬ずりをやめろ。あ、暑苦しい」
「うわぁぁぁぁぁん‼ 私も美濃攻めに加わりたかったぁぁぁ‼」
「分かった。分かったから顔をはなせ」
「斎藤利政はぁぁぁ‼ 我が父の仇だというのにぃぃぃ‼」
「い、いい加減に……」
「
「暑苦しいと申しておるだろうがッ‼」
ついに堪忍袋の緒が切れた信長は、季忠の顔面を思いきりぶん殴った。拳は顔のど真ん中に入り、季忠は「げぼべばっ⁉」と言いながら吹っ飛ぶ。
どたどたどたーんと豪快に転がり、庭に落っこちたが、季忠はすぐに這い上がってきて信長にまた抱きつこうとした。器用なことに、右の鼻からは鼻血、左の鼻からはどろっとした鼻水を流している。
そんな汚いものを顔にこすりつけられてたまるかと思った信長は、「止まれ!」と叫びながら季忠の顔面を足でおさえつけた。
「落ち着け、季忠。ちゃんと話は聞いてやるから、冷静になって話せ」
「ぼんどうでぶか?(本当ですか)」
じゅるじゅると鼻をすすりながら、季忠はそう問うた。季忠の顔から足をはなした信長は、足の裏についた鼻血と鼻水を季忠の着物の袖で拭きつつ、「ああ、まことだ」と答える。
「あい分かりました。じゅるじゅるじゅる……」
ようやく大人しくなった季忠は、ドスンと座り込んだ。そして、大柿城への援軍に自分も従軍したいと申し出たのに「それはならぬ」と信秀に言われたことを口早に語った。
「我が父・千秋
「そういう話であったか……」
季忠の話を聞いた信長は、表情を曇らせ、この少年にしては珍しく困ったような顔になった。
父の無念を晴らしたいという季忠の孝行心は立派だと思うが、残念ながら信長は力になってやれない。信長本人が父から「出陣はならぬ」と命じられ、不満に思いながらもその指示に大人しく従っているのだ。自分の出陣の件ですらままならぬのに、家臣の出陣の許可を父に乞うことなど信長にはできなかった。
(よくよく考えたら、俺は本気で父上に逆らったことが一度も無いのだ。父の意に反する行いをする、という発想自体がそもそも無かった)
幼い頃から父の薫陶を受けて育った信長にとって、織田信秀こそが絶対の正義だった。信秀の言葉に逆らうことは、この世で最も犯してはならぬ悪なのである。大事な家臣や領民を守るためならば神仏にすら挑みかかる勇気を持っている信長も、父に反抗することだけはできない。自分が信じる絶対的な正義を否定してしまうのが恐ろしかったのだ。
「……季忠よ。そなたの気持ちも分かるが、美濃への従軍は
「な、
季忠に鼻息荒く詰め寄られて、信長は「それは……」としばらく言いよどんだ。何故ですと問われても困る。信長は、信秀ではないのだ。そんなこと分かるはずがない。
だが……情に厚い父ならば、きっと千秋家のためを思って出陣を許さなかったのだろう。そう思案した信長は、想像ではあるが信秀の考えを代弁してみた。
「……千秋家は、
「む……むむぅ~……。信秀様が、そこまで千秋家のことを考えていてくださったとは……」
(たぶんな)
季忠は信長の説明に納得したようで、フーンフーンと荒々しく鳴らしていた鼻息を止めた。
「分かりました……。こたびの従軍は諦めまする。されど、私は熱田神宮の大宮司である一方、織田家の武将でもあります。武将が大事な一戦に加わることができぬのは、
「努力? いったいどんな?」
「嫁をもらいまする‼」
「は?」
「嫁をもらい、子供を授かれば、千秋家の未来は安泰‼ 安心して、大戦で壮絶な戦死を遂げられます‼」
「待て。その前提はおかしい。自分が死ぬことを想定して妻を
「うおぉぉぉーーーッ‼ そうと決まれば、嫁探しじゃぁぁぁ‼ だれぞ私の妻になりたい
季忠は、信長の話を最後まで聞かず、寝所を飛び出して行った。
それからほどなくして、城内のあちこちで侍女たちの「キャーッ⁉」という悲鳴が上がりだした。季忠が「私の嫁になれ‼」と喚きながら若い侍女を追いかけ回しているようである。
「……やれやれ。熱血神官殿は、熱田神宮の神職なだけに、まことに暑苦しい奴じゃ」
あつたとあつくるしいをかけた寒い
信長が止めに入らなくても、侍女たちを束ねているお徳(信長の乳母。池田恒興の母)がそのうち季忠を何とかしてくれるだろう。お徳は、城内の若い侍たちよりも体術に優れている女傑だ。怒らせると、非常に恐い。
案の定、翌朝に信長が目覚めると、庭にはお徳によって木にくくられた季忠の変わり果てた姿があった。
「の、信長様。どうかお助けを……」
「しばらくそこで反省していろ」
※次回の更新は、11月8日(日)夜8時台の予定です。
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