墓前にて
「ここに来るのは久しぶりです。この数年は
「我が娘も寂しがっておったはずじゃ。ごほっ、げほっ……。
「はい。…………
信秀は、主君の
出陣の前に、ある女性に会っておきたいと思ったからだ。
その女――信秀の最初の正室だった
稲姫は、父の達勝に愛育された守護代家の姫君だったが、清須三奉行の一人である信秀のもとに嫁いだ。若い二人は非常に仲睦まじく、織田
しかし、今から十七年ほど前、信秀と稲姫の愛は突然終わりを迎えたのである。達勝が、津島港をおさえて急激に成長しつつあった織田弾正忠家の勢威がこれ以上増すことを嫌い、信秀に戦を仕掛けたのだ。
信秀は主君の達勝に逆らった覚えなどない。
親元に返された稲姫は、夫と戦を始めた父の達勝を恨み、毎日泣き暮らして食を断った。彼女は見る見るうちに
――稲姫が死んだのは、自分たちが身内同士の醜い戦を始めたからだ。
稲姫の死は、達勝と信秀に大きな衝撃を与え、二人はいっきに戦う気力を無くしてしまった。彼女の非業の死から間も無く両者が講和を結んだのは言うまでもない。
それ以後の達勝・信秀主従は二度と反目し合うことなく、協調路線を維持し続けた。老い先短い達勝は、尾張国の未来を元婿である信秀に託そうとまで考えているほどである。
「……弾正忠家ばかりを重用すれば他の家臣たちの不平不満を招くと考え、清須三奉行の一人である
「そんな弱気をおっしゃらずにどうか長生きしてくださいませ、達勝様。美濃の
「うむ……。武家の美しき秩序をこの世に取り戻し、天下
達勝と信秀は、愛する姫の墓参りに来るたびに、必ずと言っていいほど天下静謐への夢について語り合う。稲姫の悲しい末路を思えば、二人は平和な世を切望せずにはいられなかったのである。
彼女のような悲劇を繰り返したくはない。女子供や弱き者が戦の犠牲にならなくてもすむ平和な時代を作りたい――達勝と信秀はそのことばかりを考え、これまで乱世を戦いぬいてきた。
(仁義無き乱世を生き残るために俺が不幸にしてしまった犠牲者は、稲姫だけではない。俺は、かつて友と呼んだ男を
この物語の冒頭でも語られたことだが、信秀は策略を用いて今川氏豊から
お人好しな氏豊は、ぎりぎりまで信秀のことを連歌という同じ趣味を持つ親友だと信じ切っていた。城を奪われ、「私は貴殿のことを信じていたのに!」と涙する氏豊に対して、信秀は「
心の奥底では、友を欺いて城を盗った自分の醜さに吐き気がしていたのである。最後の最後まで信秀に対して友情を訴えて城を追放されてしまった氏豊のほうがずっと人間として美しいと思った。
父と夫が殺し合う運命に嘆き、衰弱死した稲姫。
友情を信じたがゆえに領地を奪われ、
斎藤利政のごとき悪逆非道の武将から見たら、この二人は「乱世を泳ぎきれずに沈んでいった愚かな弱者」に過ぎないだろう。
だが、そんな滅びていった人たちの弱さこそが人間的に美しく、愛おしいものなのではないか、と信秀は時々考えるのである。
本来ならば、自分のような力を持った武士こそが、
しかし、「強さこそが正義」である弱肉強食の乱世がそうはさせてくれない。生き残るために、武士は果て無き戦いを繰り返し、弱き人々を犠牲にしてしまう。見捨ててしまう。守ってやれない……。
信秀は、そんな世がいつまでも続くのは嫌だった。
「俺は、命をかけてでも稲姫のことを守りたいと真剣に願っていました。しかし、彼女は戦に明け暮れる俺のせいで不幸になり、早死にさせてしまった……。
そして、俺は友と呼んだ男のことも、戦国の世を生き抜くための犠牲にしたのです。女々しいことを言うことが許されぬ乱世ゆえ、俺はそのことを後悔しないように己に言い聞かせてきましたが……。
それでも、こう考えてしまうのです。平和な世であったら、守れた命だった。失うことのない友情だった……と。俺は『強きが正義、弱きが悪』という無慈悲な乱世を終わらせ、己が守りたいと思う人を守りきることができる世を作りたい。常々そう願っているのです」
「それが織田信秀の大志というわけじゃな。この儂も心は同じだ。老いたこの身でどこまで力になれるか分からぬが……主君として、かつては義理の父であった者として、そなたが存分に力を出し切って戦えるように尽力しよう。出陣中は尾張国のことは心配するな、国内の守りは儂に任せておけ」
達勝は信秀の肩に手を置きながら、力強い声でそう約束してくれた。信秀の覚悟を聞いて、自身も気力が湧いてきたのだろう。先ほどまでしつこく続いていた
「駿河の今川軍に怪しい動きがあれば、早馬を飛ばして必ずそなたに報せる。斎藤利政が尾張国内の地侍たちに調略の手を伸ばしているようだが、寝返り者が現れぬように目を光らせておこう」
「そのお言葉を聞き、安堵いたしました。息子の信長を留守居として尾張に残していきますので、変事があれば我が嫡男を何とぞお救いくだされ」
「ああ、任せておけ。何も心配いたすな。稲姫が愛した男を裏切るような真似はせぬ。もう二度とな……」
二人はそう語り合うと、墓にもう一度手を合わせ、戦の勝利をあの世の稲姫に祈るのであった。
この時の約束が、主従が交わした最後の会話となった。
そして、達勝の約束は、本人の不本意なかたちで守ることができなくなる運命にあったのである。
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