蹴鞠男

 六角ろっかく家の忍び・伊賀崎いがのさき道順どうじゅんから大柿城の危機を知らされた翌日。

 信秀は、清須きよす城に登城した。


 尾張守護の斯波しば義統よしむね武衛ぶえい様)、主君の織田大和守やまとのかみ達勝みちかつ(尾張下半国守護代)に美濃への出陣の許可をもらうためである。


 この物語では何度も説明していることだが、信秀の身分は守護代・織田大和守家の一奉行に過ぎない。尾張の諸侍たちを率いて斎藤家や今川家と戦うことができるのは、国主である武衛様や主君の達勝から陣代じんだい(主君の代わりに領内の武士を統率して敵国と戦う役)の地位を授けられているからだ。つまり、この二人が首を縦に振らなければ、信秀は他国に攻め込むことはできないのである。




「斎藤利政の軍勢が大柿おおがき城(大垣城)に迫りつつあります。なにとぞ、美濃国への出陣をお許しくださいませ」


 清須城内にある守護館。

 下座に座る信秀は、武衛様・義統と主君・達勝に恭しく頭を下げ、そう懇願した。


 広間には、達勝の養子の彦五郎ひこごろう信友のぶとも(ケシカラン殿・織田因幡守いなばのかみ達広みちひろの実子)や大和守家の家宰の坂井さかい大膳だいぜんもいて、反信秀派のこの二人は信秀のことを憎々しげに睨んでいる。


「今川軍との戦いで大きな損害を出したばかりだというのに、今度は美濃と一戦交えるというのか! ケシカラン! ケシカランぞ、信秀! そのような許可、与えられぬわ!」


 信友は膝を扇子でバシバシと乱暴に叩きながら、信秀に吠えかかった。

 彼の実父の達広は四年前の美濃攻めで戦死している。権謀術数の鬼である斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)に再戦を挑んでもまた大敗して将兵を多く失うだけだ、と信友は考えているのである。


「されど、信友様。大柿城には織田播磨守はりまのかみをはじめとする尾張衆の兵が数多立て籠もっています。かの者たちを見捨てるわけにはまいりませぬ。見捨てれば、尾張の国主たる武衛様のご威光に傷がつきまする」


 信秀はチラリと横目で視線を向けながら、信友にそう反論した。主君の養子に対して怒鳴ることはできないので語気を抑えてはいるが、言葉の端々に苛立ちが見え隠れしている。


 この若造は、信秀が采配を振るった戦で実父を失ったゆえ、信秀のことを恨んでいるのだろう。父親が戦死したのは気の毒だと信秀も思う。しかし、そもそもあの戦の敗因の一つは、ケシカラン殿(達広)が軍の統率を乱すような行動を取ったことではないか。「父が死んだのは信秀が無益な戦をしたからだ」といつまでも逆恨みされて、やることなすことに反発をされたら甚だ迷惑だ――。


 そんな信秀の怒りがイラついた雰囲気から伝わったのか、臆病者の信友は「た、たしかに、尾張の兵たちを見捨てることはできぬが……」とすぐに弱気になり、おずおずと引き下がった。


(やれやれ。狂犬のごとく信秀に噛みついていた実父のケシカラン殿と比べたら、ちっとも頼りにならぬひよっこじゃ。守護代様の養子だということ以外には利用価値が無いな……)


 坂井大膳は、情けない信友に内心舌打ちをする。


 だが、この頼りにならぬひよっこが守護代職につけば、大膳が後ろから操って織田大和守家を思うがままに動かすことができるようになるだろう。それまでの辛抱だ、と大膳は己に言い聞かせた。とにかく今は、尾張国の主導権を完全に信秀に握らせないように、織田弾正忠だんじょうのちゅう家の勢力拡大を妨害することが肝要である。


「殿、恐れながら申し上げまする。それがしも、信友様と同じく、信秀殿の美濃出兵には反対です」


 大膳は信友と入れ替わるように口を開くと、この男特有のねちねちとした口調で主君の達勝にそう言上した。


(陰湿な蹴鞠けまり男がまたほざき始めたか)


 信秀はそう思いながら大膳を睨みつける。


 大膳はぶくぶくと太っていて、まるで巨大な蹴鞠のごとく丸々とした体型である。だから、信秀は大膳に「蹴鞠男」という渾名あだなを密かにつけていた。


「ごほっ……ごほっ……。何故なにゆえじゃ。信秀の申す通り、大柿城の将兵を見す見す死なせるわけにはいくまい」


 達勝は咳き込みつつ、大膳にそう問うた。


 高齢の達勝は、ここ数年、冬になると咳が止まらなくなる。こうやって家臣を引見する短い時間すら座っているのが辛いようで、顔色はひどく悪かった。

 本来ならばとっくに守護代職から身を引いて安穏な隠居生活を送っている年齢だが、養子にした信友が反信秀派の大膳に取り込まれてしまっているため、信友に家督を譲るのが心配で仕方ないのである。

 尾張国の未来を良き方向に導けるのは信秀しかいないと達勝は確信しているというのに、清須城内には家宰である大膳の影響を受けて信秀に反感を抱く若い武士たちが増えつつある。これは良くない傾向だ、と達勝は密かに憂慮していた。


 一方、若い武士たちを篭絡ろうらくして清須城内での勢力を広げつつある大膳は、ここのところ調子に乗っている。ここぞとばかりに主君の前で信秀をおとしめようと躍起になり、粘っこく糸を引くような声で信秀批判を続けた。


「信秀殿が武衛様と殿をないがしろにして、尾張の武士団を私物化しているからです。大柿城に援兵を出すにしても、信秀殿のごとき忠と信に欠けた御仁が陣代では甚だ不安でござる。どなたか別の方に陣代の地位をお与えになり、美濃に兵を送るべきかと」


「何をほざくか坂井大膳。俺は常に尾張国のことを考えて行動している。武衛様と我が殿を軽んじたことなど一度も無い。無礼な物言いは許さぬぞ」


 信秀が刺すような目つきで睨み、噛みつく。


 しかし、大膳は信友のごとく威嚇だけで怯むような小心者ではない。心臓に毛が生え、非常にふてぶてしい男なのである。彼はまん丸な巨体を揺すりつつ、「無礼なのは信秀殿のほうでしょう」と冷ややかに応じた。


「七か月前、信秀殿は『美濃国に攻め込む』と触れ回って尾張の諸侍を集め、武衛様と守護代様から出陣の許可を得ていた。それなのに、信秀殿が実際に攻め込んだのは三河国だった。貴殿は主君をあざむき、味方を欺き、気ままに兵を動かしたのです。かくのごとき武将が尾張軍の総大将など務まるとは思えませぬ」


(チッ。何を言い出すかと思えば、そのことか。おおかた予想はしていたが、いつもながら人の痛いところをつつくのが好きな陰険野郎だ)


 坂井大膳というこの陰湿な男は、論戦相手の弱みを的確に突き、他人の神経を逆撫でするような暴言を吐くのが得意である。わざと怒らせて相手の冷静さを奪うのが常套手段だった。


 しかし、長い付き合いなので、信秀も大膳の陰険さは知り抜いている。彼が小豆坂あずきざか合戦の一件について糾弾してくることぐらいは想定済みだった。信秀は「ハッハッハッ。大膳よ、妄言を吐いて俺を貶めようとするのはやめてもらおうか」と笑い飛ばすと、素早く切り返した。


「俺が三河に急遽きゅうきょ攻め込んだのは、織田軍が美濃攻めに向かっている留守を衝いて三河国を奪おうとしていた雪斎せっさいの企みに気づいたからだ。あのまま予定通りに美濃へ出陣していたら、今頃は三河全土が今川軍の領地になっていたことであろう。遠江国の奪還を切望されている武衛様にとっても、それはお望みにならぬ結果だったはずじゃ」


「それは……」


「黙れ、俺の話を聞け。おぬしは今、『今川の陰謀に気づいておきながらそれをあえて放置するべきだった』と俺に言っているのだぞ。尾張国を危機にさらすそのような行為こそ、武衛様と我が殿に対する不忠ではないか。違うか、坂井大膳」


「……ぐ、ぐぬぬ。の……信秀殿の仰せの通りでござる」


 大膳は、性格は恐ろしいほど陰湿だが、しょせんは口先だけで底の浅い愚物である。ここまで見事に反論されてしまうと、さらに反駁はんばくするだけの知恵は持ち合わせていない。大人しく信秀の言い分に頷くしかなかった。


「フン! ろくに戦の指揮を執ったこともない贅肉ぜいにくぶよぶよの蹴鞠男がさかしらに物を申すな!」


「ぜ……贅肉ぶよぶよ⁉ 蹴鞠男ですと⁉ し、守護代家の家宰であるそれがしを侮辱するのは許しませんぞ!」


 他人をねちこく責めるのが天才的な大膳も、自分が悪口雑言にさらされるのには慣れていないらしい。顔を赤黒く染め、声を震わせながら怒った。


「あっはっはっはっ。蹴鞠男とは言い得て妙じゃな。なるほど、丸々とした大膳の体格は蹴鞠そっくりだ」


 腹を抱えて大笑いしたのは、武衛様の斯波義統である。義統も普段から何を考えているのか分からない大膳のことを嫌っているため、この蹴鞠男が自分のお気に入りの信秀に言い負かされたのがよほど嬉しいようだ。


(おのれ、義統の若造め。お飾りの尾張守護のくせに、よくもこの儂を笑ってくれたな……)


 我こそが尾張国の支配者たらんという野心を抱いている大膳には、尾張の国主を敬う心など微塵も無い。内心そう毒づき、信秀共々いつか殺してやるぞと思った。


「信秀よ。蹴鞠男の世迷よまごとなど気にするな。お前は尾張国のためによくやってくれている。美濃への出兵を許可するゆえ、存分に戦ってくるがよい。達勝もそれでよいな?」


「はい。尾張の命運は信秀に託すと拙者はすでに決めておりまする。異存はありません。……ごほっ……ごほっ……」


 大殿の義統と主君の達勝から出陣の許しをあっさりと得た信秀は、大膳のほうをチラリと見てニヤッと笑うと、「ははーッ! 有り難き幸せ!」と大仰に頭を下げた。


 大膳は、そんな信秀の憎たらしい姿を忌々しげに睨むことしかできない。


(尾張守護の義統と我が主君の達勝様は、信秀めに全幅の信頼を寄せている。この二人が健在のうちは、尾張国は信秀の思いのままだ。老いぼれの達勝様が早くくたばってくれたら手っ取り早いのだがなぁ……)








<付録:1548年時点での信秀を取り巻く尾張衆たちの関係図>


そろそろ死期を迎えつつある人物もいますが、現時点での尾張国の人物関係図です。

名前の左側に〇があるのは親信秀派(本人含む)、×があるのは反信秀派です。△印の織田宗伝は今川に内通中です。

また、名前の右側の(  )には信秀との関係、続柄を記しています。



      [上四郡守護代]       [伊勢守家の一族]

      〇織田伊勢守信安(妹の夫)…〇織田与十郎寛近(織田一族最長老)

                    △織田宗伝


 [尾張守護・武衛様]

 〇斯波義統(大殿)


                   

      [下四郡守護代]      [清須三奉行]

      〇織田大和守達勝(殿様)…〇織田備後守信秀(本人)

      ×織田彦五郎信友(若殿) 〇織田藤左衛門寛故(母の実家)


                   [大和守家の家宰]

                   ×坂井大膳(たぶん織田一族ではない)








※次回の更新は、11月1日(日)午後8時台の予定です。

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