六角定頼との対話・中編

「な……。せ、拙者の屋敷にも……でござるか……」


 政秀はか細い声で呟き、ゴクリと唾を呑み込む。自分の家に伊賀忍者や甲賀忍者が潜んでいると聞かされたら、背筋が寒くなるのは当然のことである。


(……父上の城に六角の忍びが三十人だと? さすがに多すぎるな。織田家の城一つを監視するだけでそれだけの忍びを雇っていたら、他家に送り込む忍びがいなくなってしまう。実際はその半分か三分の一ほどだろう)


 信長は、悪戯っぽく微笑んでいる定頼をめつけながら、直感でそう見抜いていた。


 定頼は、忍びを使うことに長けた老獪ろうかいな武将である。織田家の城に潜伏させている忍者たちの本当の数を馬鹿みたいにわざわざ暴露するはずがない。


 おそらく、美濃攻めに関する交渉を織田方とする前に、


 ――おぬしたちのことは、何でも筒抜けだぞ。


 と、遠回しの恫喝どうかつで恐がらせ、何があっても織田が六角を裏切らないように仕向けるつもりなのだろう。だから、聞かれてもいないのに、織田家の城に潜ませている忍者の人数を少々誇張しながら口にしたのである。


「さてさて、城内をくまなくねずみ捕りしても、近江から来た鼠はおそらく十匹ぐらいしか見つけ出せぬと思いますが……。忍びにいつも監視されていると思うと、あまり良い気分にはなりませぬな。六角様の忍びに寝首をかかれぬよう、重々気をつけまする」


 ちょっと大げさに言い過ぎでしょう、そんな見え透いた大法螺おおぼらには黙れませんよ――という非難を言外にほのめかして、信長は一笑に付した。


 すると、定頼は「アハハハ。すまぬ、すまぬ。少しばかり脅しすぎたな」と肩を揺すって愉快そうに笑った。やはり、さっきの発言はハッタリだったらしい。


(経験の浅い若造ならば、わしの言葉をあっさり真に受けるだろうと思っていたのだが……。案外、すぐに嘘を看破されてしまったな。藤林ふじばやし長門守ながとのかみが申していた通り、この若者はただ者ではないようだ)


 定頼は、尾張から来た若者に興味と若干の好意を抱きつつあった。この老境にさしかかった英雄は、信長や我が子義賢のように将来性のある若人わこうどが好きなのだ。


「……だがな、信長殿。間者を織田家の城に送り込んでいるのは、きっと儂だけではないぞ? 美濃や駿河から来た忍びを合わせたら、本当に忍びが二十人、三十人と城内にうじゃうじゃとおるやも知れぬ。近隣諸国の有力者の城に忍びを仕込んでおくことは、基本中の基本だからな。他家の武将が送り込んだ忍者が自分の城には一人もいないと考えているとしたら、それはよほどの平和ボケした阿呆じゃと心得ておくがよい」


 さっきまで笑っていた定頼が、少しだけ真面目な顔になり、改まった口調でそう語り出す。この見どころのある若者にちょっとだけ為になる講義をしてやろうと考えたのである。


「敵の間者は、いつでも、どこでも、そなたやそなたの父の秘密を探っておる。もちろん、この儂も織田や斎藤など色んな城の情報を狙っているし、六角を憎む者たちは儂の弱みを必死に探っておることじゃろう。そんな弱みの探り合いの中で、致命的な秘密を敵に握られてしまった者が、真っ先に滅びる……。それが、戦国の世の定めというものじゃ」


 空になった茶碗を手のひらで弄びながらそう言う定頼の瞳は、妖しく輝いている。先ほどまでは好々爺然とニコニコ笑っていたが、今は感情を一切読み取れぬ無の表情になっていた。


 これが、乱世を生き抜いてきた海千山千の老英雄、その真の風貌か――と信長は彼の凄みを感じた。さっきから、のどが渇いて仕方がない。認めたくはないが、謀略家の顔を露わにした定頼に少なからず気圧されてしまっているのだろう。


「弱みの探り合い……ですか」


「そうさ。大将たる者、どんなことでも知っていなければならない。どのような情報が、戦で勝利をつかむ材料になるか分からぬからな」


 定頼はあごを撫でながら、一語一語を噛み締めるように語り続ける。


「知らぬことは、罪じゃ。弱さじゃ。敵の弱点さえ握っていれば、大将は兵の犠牲を最小限にして敵軍を打ち破ることができる。それを怠って敵の情報を探らぬまま戦を起こすのは、味方の兵の命をいたずらに犠牲にする愚行だ。大将失格と言ってよい。……先日三河の小豆坂あずきざか干戈かんかを交えたそなたの父と太原たいげん雪斎せっさいがまさにそれじゃ」


「我が父・信秀と今川軍の雪斎が、過ちを犯したというのですか?」


「左様。両者とも名うての戦巧者だが、小豆坂では双方が同じ失敗をやらかし、痛み分けに終わってしまった。

 三河に潜伏させていた我が忍びからの報告では、織田方と今川方はお互いの軍の位置を把握せぬまま進軍し、小豆坂で鉢合わせしたそうではないか。いくら戦場での遭遇戦がよくあることとはいえ、あれは非常にまずかった。実に惜しい。もしも信秀殿が念入りに索敵を行い、今川軍の位置を把握していたら――織田軍の居場所をつかんでいなかった今川軍を完膚なきまでに叩きのめすことができたであろう。それは、今川方の雪斎にも言えることじゃ」


「なるほど……。たしかに、言われてみればそうです」


 定頼の指摘は、信長にとって目から鱗が落ちる思いであった。

 あの偉大な父にも間違えがある。そして、恐るべき軍師の雪斎も必ずしも完璧というわけではない。一つの油断、読み間違えで、英雄も手痛い目にあうのだ。たった一つの情報をつかみ損ねただけで……。


「たとえ敵勢が大軍でも、敵大将がいる陣地の場所さえつかんでいれば、本陣めがけて乾坤一擲けんこんいってきの突撃をして大将首を狙うことも可能じゃ。

 ……敵の秘するところを知れば知るほど勝利に近づき、知らねば知らぬほど敗死に近づく。それが武士の心得じゃよ、少年」


「いちいちごもっともな仰せ、感服つかまつりました。この信長、六角様のおしえをしかと胸に刻んで生涯忘れませぬ」


 信長は真面目腐った顔で礼を言い、定頼に頭を下げた。ついさっきまで瞳に宿していた定頼に対する闘争心は、いつの間にか消え失せている。

 好悪の感情の振れ幅が大きいこの少年は、有意義な戦の心得を伝授してくれた定頼に素直に感謝し、好意を持ち始めていたのである。わりとすぐに人を好きになってしまう純粋なところは、父ではなく、お人好しな春の方に似たのだろう。


 信長の眼から敵意の炎が失せたことを、定頼も敏感に察したようだった。


(ほほーう。案外、可愛げのある若者だな)


 そう思いながらニタリと微笑む定頼の顔は、元の呑気そうな爺さんに戻っている。


 信長の敵意を打ち消したところで、さっさと美濃攻めの本題に入ればよかったのだが――美貌の若者に好意を持たれたことで、年甲斐も無く少し浮かれてしまったらしい。定頼はちょっとした猥談わいだんに走ってしまった。


「……まあ、あまり情報収集に励みすぎると、余計なことまで耳に入ってしまうこともあるがな。たとえば、大勢いる信秀殿の夫人たちは、全員が逆さ立ちをすることができるらしいのぉ。特に、夜によくやっておるらしい。ぐふふ」


「母上やお徳が逆さ立ちを? それはいったい何故なにゆえ――」


 キョトンとした表情で信長が横に座っている春の方を見ると、彼女は顔をかあっと赤らめて硬直していた。

 まだ父から「織田家に代々伝わる房事ぼうじの秘術」を伝授されていない信長は、意味が分からず、母上は急にどうしてしまったのだろうと思いながら首を傾げるしかない。


 一方、忍びが持ち帰った他家の情報を父の定頼と共有している義賢は、なぜ春の方が赤面しているのか分かっていた。


(父上……。いくら猥談が好きでも、ここでそれを言うなよ……。さっきの「為になる話」が台無しじゃねぇか)


 眉をひそめながら、父を半眼で睨む。好色で横暴な性格の義賢ではあるが、客人の前でしていい話と悪い話の分別ぐらいはできるらしい。


(あ……あれ? もしかして、儂、いらぬことを言っちゃった……?)


 定頼が自分の失態を悟ったのは、呆れきった息子の視線に気づいた後であった……。








※次回の更新は、7月5日(日)午後8時台の予定です。

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