六角定頼との対話・前編

「父上。尾張からの客人を連れて参りました」


 商人たちの揉め事が落着した後、義賢よしかたが父の定頼さだよりに信長たちを紹介した。


「おお、そうかぁ」


 奈良からの長旅で疲れているのだろう。定頼はあくびを噛み殺しながらそう言い、ゆったりとした仕草で振り返った。先ほどまで町人たちに見せつけていた威厳はどこかに雲散霧消してしまっている。


「織田信秀殿の奥方と嫡男殿じゃな。やあやあ、よくぞ近江に参られた」 


 定頼は、気の良い隣家の爺さんのようにふにゃりと笑いかけ、歓迎の言葉を口にした。


 近江国主の好意的な態度に安堵した信長と春の方は、定頼に慇懃に頭を下げる。相手は信秀よりもずっと身分が格上の守護大名なので、無礼があってはならない。さすがの信長もいささか緊張していた。


「お初にお目にかかりまする。織田備後守びんごのかみ信秀の一子、三郎信長でござる。こたびは、六角様にお願いの儀があって――」


「まあまあ。そういう話は、場所を変えてしよう。この人混みじゃからな。市場の中に美濃の間者が紛れておるやも知れぬ」


 笑顔の定頼は、ゆったりとしてはいるが否やを言わさぬ強さが込められた口調で信長の言葉を遮る。


 定頼に指摘されておのれ迂闊うかつさに気づいた信長は、「も、申し訳ありませぬ……」と謝った。言葉を発している途中で黙らされるという経験が父の信秀以外にはこれまでほとんど無かったため、少しだけムッとした表情になっている。


「よいよい。気にするな。では、観音寺城へと案内いたそう」


 定頼は軽い感じでそう言うと、くるりと信長たちに背を向けた。




            *   *   *




 繖山きぬがさやまへと登る手前で、信長は、石寺いしでらの市の近くに設けられている練兵場の存在に気づいた。


 六角家の侍たちが、軍馬を巧みに操って場内を縦横無尽に疾駆し、次々と矢を射ている。彼らの矢はことごとくまとを貫き、一本も無駄にしていない。恐るべき騎射の腕前に、信長や従兄弟いとこ信清のぶきよは目を見張った。


「あやつらは皆、我が側近たちじゃ。俺は日置流へきりゅう弓術だけでなく大坪流おおつぼりゅう馬術も極めておるからな。いずれは己の流派を創始してやろうと考え、我が秘伝の技の数々を配下の者たちに日夜叩き込んでおるのだ。

 あの練兵場では、犬追物いぬおうもの(騎馬で犬を追い、弓を射る軍事訓練)もよくやるのだが……あっ! おい、こら! そこのお前! いま一瞬、気を抜いたな⁉ 矢に己の闘気が込められていないのが丸分かりだぞ! 的をただ当てればいいというものではないのだ! もっと精進しょうじんせぬか、たわけ!」


 信長に練兵場の説明をしていた義賢がいきなり怒り出し、少年と言っていい年齢の侍を大声で叱りつけた。


 信長の目には実に見事な騎射に見えたが、自ら流派まで立ち上げようとしているほどの達人からしてみたら、思わず激怒してしまうほど雑な技だったらしい。


(俺も市川いちかわ大介だいすけから弓術を習っているが……良し悪しの違いがほとんど分からぬ。弓馬の技を極限まで鍛え上げた六角家の軍勢とまともに戦ったら、恐ろしいことになりそうだな)


 信長は六角武士の練度の高さに内心舌を巻くしかない。山道をゆく間、母が転ばないように手を繋いでいたが、信長の手のひらはびっしょりと濡れていた。織田軍が六角の弓兵隊に殲滅せんめつされる光景を想像し、嫌な汗が出ていたのである。


「六角とは、なるべく敵対しないほうがよさそうだ……」


 六角父子に聞こえないように信長が小声でそう呟くと、「厄介なのは将兵たちだけではなさそうだぞ、信長。周囲を見てみろ。山全体が、城だ。こんな大規模な山城は見たことがない」と信清が耳打ちしてきた。


 信清が指摘した通り、観音寺城は平井丸や池田丸などといった曲輪くるわ(城内を土塁や石垣、堀で区画した区域)が数多く存在し、山の尾根を利用して作った巨大な土塁もある。山の全てが城郭化されていると言っていいほどの規模を誇っていた。さすがは近江の覇者の牙城。想像を絶する壮大さである。


 さらに、これは後年の話になるが――定頼の跡を継いだ義賢はこの観音寺城をさらに大改修し、信長の安土城に先んじて総石垣の城に生まれ変わらせることになる。六角氏の城郭技術は尾張国の二歩先、三歩先も進んでいた。




「ふぅ~、やれやれ。この年になると、山城を登るのはキツイわい。

 ……織田の奥方殿、長らく病弱であったお体だというのに無理をさせてすまぬのぉ。悪いが、もう少しだけ歩いてくだされ。薬師如来ゆかりの桑實寺くわのみでら昼餉ひるげを食した後、茶でも飲みながらゆっくりと話をしようぞ」


 わざわざ輿こしから降りて徒歩かちで道案内をしてくれている定頼が、山道に慣れぬ春の方を気遣いながらそう言った。


 春の方は「はい、お気遣いありがとうございまする」と呑気に微笑んでいたが、定頼の言葉を耳にした信長と平手政秀はピクリと眉を動かし、顔を見合わせた。


(俺の母上が何年も病弱だったことは、織田家の身内の間では有名な話だが――)


(このような家庭の事情、他国の大名が知っているようなことではありませぬ。六角定頼は、どこまで当家の内情に通じているのやら……)


 定頼は、信長たちが伊勢や近江の領内に入る正確な日時を知っていただけでなく、信秀の正室の健康状態まで把握しているようだ。いくら伊賀・甲賀の忍びたちを数多く雇っているといっても、定頼は何から何まで知りすぎである。この男の眼には千里眼の能力でも備わっているのだろうか?


 こちらの内情を知られすぎているのはあまり気分がよくない……。自分でも気づかぬうちに、信長はわずかに顔を歪めていた。




            *   *   *




 信長たちは、山城の西側にある桑實寺くわのみでらに招き入れられた。


 春の方と信長、政秀、そして六角氏ゆかりの武将・堀場ほりば氏兼うじかねは、定頼・義賢父子と同じ部屋で昼餉をごちそうになった。信清やなど他の同行者は別室で寺の住職にもてなされているようである。


「う~む。食った、食った。……どうじゃ、尾張の方々。ここは眺めがよかろう。瑠璃るり色に輝く淡海おうみ(琵琶湖)が一望できる。一時いっときこの寺でおかくまいしていた前将軍の義晴よしはる公も、たいそう気に入っておられたものよ」


 定頼は、戸が開け放たれた部屋の縁に立ち、茶をずずず……とすすりながらそう言った。一国の太守のくせに、あまり行儀がよくないようである。


 礼儀作法にのっとって茶を飲んでいる信長も、定頼の股の間から垣間見える美しい湖水の輝きをしばし見つめていた。


 これが信長と琵琶湖の出会いだったわけだが、視界の端には、後に自分が天下一の城・安土城を築くことになる山も見えていた。――ただし、今の信長にとっては、名も知らぬ一風景の小さな山に過ぎないのだが……。


「さて、と。本題に入るといたすか。貴殿たちがわしを訪ねてきた目的は知っておる。美濃のまむしを討伐するために、我が六角と手を結びたいのであろう?

 信秀殿は、四男・信勝殿の『うれいを同じうする者は相い親しむ』という意見をり、多賀大社参りにかこつけて奥方殿と信長殿を近江に遣わして儂との接触を図った……。違うかな?」


 腰痛ぎみの定頼はゆったりとした動作で座ると、いきなりそう言った。


 春の方は、「あっ……は、はい」と馬鹿正直に答えながら驚いた表情で定頼を見つめる。


 政秀も動揺の色を隠せなかった。

 あの時、信勝が六角家との同盟を信秀に進言していた部屋の天井裏か床下に定頼の忍びがいて、自分たちの会話を一言一句盗み聞きしていたのか――そう思い、ゾクリとしたのである。


「……定頼様は、我らのことを細大さいだいらさずご存知なのですね。よほどたくさんの忍びを織田の城に潜ませているのでしょう。こそこそと他人の家にねずみどもを放り込むのは、あまり良い趣味には思えませんが」


 織田家のことは何でもお見通しだと言わんばかりの定頼にカチンとなった信長が、我慢できずにそう言い放つと、政秀が「こ、これ。信長様、口をお慎みなされ!」と慌てていさめた。些細ささいなことですぐに怒りを爆発させる義賢が無礼な態度を取った信長に斬りかからないか心配したのである。


 だが、義賢は「ワハハハ! なかなか率直な物言いをする奴め! そういう恐いもの知らずなところは、この俺にそっくりだ!」などと大笑いして、面白がっているようである。この六角の若殿は、自分が気に入った人間にはわりと寛大になる傾向があるらしい。


 信長に嫌味を言われた定頼も、特に気分を害している気配はない。ただし、急に意地悪そうな笑みを浮かべ、


「まっ、そうだな。信秀殿の古渡ふるわたり城には三十匹。信長殿の那古野なごや城にも二十匹ほど、伊賀と甲賀の鼠を忍ばせておる。ああ、そこの平手とやらの屋敷にも五匹おるぞ?」


 などと、さらに驚くようなことをあっけらかんと言い出したのであった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る