聖山の麓の城下町へ

 かくして、蜂須賀はちすか小六ころくとの戦いで負傷した池田いけだ恒興つねおきは、佐目さめ村の明智屋敷にとどまることになった。


「恒興様のことが心配です。お世話をする者が必要だと思うので、この藤吉郎とうきちろうを屋敷に残してくださいませ」


 藤吉郎がそう申し出たため、信長は「デアルカ」とひとこと言って許可した。


 藤吉郎がやけに恒興に対して献身的なのは、この猿顔の少年が恒興の母のお徳にいつも可愛がられているからである。

 お徳は藤吉郎のことを「子猿さん、子猿さん」と呼び、たまに菓子を内緒で恵んでくれていた。他の小者たちが藤吉郎をいじめていると、彼らを叱りつけることもあった。何かと目をかけてくれる彼女への恩返しのつもりで、藤吉郎は息子の恒興に付き添おうと思ったようである。


(俺も、恒興一人を他人の屋敷に残していくのは心配だと思っていたところだった。藤吉郎めは、なかなか気の利く奴じゃ。

 それに、非力なくせに二度も俺の命を救った。あいつは、本当に神の御使いの猿なのやも知れぬ……。一度、大きな手柄をあげる機会を作ってやるとするか)


 信長はそんなことを考えながら、六角ろっかく義賢よしかたの道案内で近江路の旅を続けた。まずは、表向きの目的地である多賀大社に向かわねばならない。


 佐目村から多賀大社までの道のりは、さほど時間はかからず、その日の夕刻には神社に到着することができた。


「夫の信秀の体調が近頃思わしくありません。多賀の神々よ、我ら夫婦と子らに延命長寿のご利益を……。そして、尾張の家臣・領民たちにも多くの幸がありますように」


 春の方と信長が多賀参りを済ませると、一行は多賀大社の神主の館で歓待を受けた。


「我ら六角氏の居城には、明日案内いたそう。なぁに、ここから観音寺かんのんじ城までは歩いて半日もかからぬ。俺たちが着く頃には、我が父・定頼さだよりも城に帰還していることだろう」


「六角定頼様は、いま観音寺城にいらっしゃらないのですか?」


「まあな。父上は数日前まで奈良にいたが、そなたたちが近江に来ると聞き、大急ぎで帰国の途についたのさ。明日は、六角家の大いなる城と城下町を見せてやろう。楽しみにしておけよ、我が義弟・信長。ハハハハハハ」


 義賢は、信長と酒を酌み交わしながら、上機嫌でそう語った。信長のことをすっかり弟分扱いにしている。


(兄……。兄か……)


 信長は、勝手に兄貴づらをしている義賢に苦笑しつつ、本当の兄である信広のぶひろ安房守あわのかみ秀俊ひでとし)のことをふと思い出していた。二人の兄は側室腹のため、正室の子である弟の信長にはどこか遠慮がある。はっきり言って、あまり親しい間柄とは言えない。


(信広兄上と秀俊兄上が同腹の兄だったら、こんなふうに笑って酒を飲み交わすこともできたのだろうか。

 ……いや、同母弟の信勝のぶかつですら、織田家の世継ぎとして別の城にいる俺にあまり会いに来てはくれぬ。武家の嫡男として生まれたからには、他の兄弟とは疎遠になってしまうのが宿命なのだろう。

 六角家の嫡男である義賢殿も、態度ではおくびにも出さないが、俺と似たような孤独を抱えているのやも知れぬ。だから、一回りほど年下の俺のことを「弟」などと呼んで喜んでいるのであろうな)


 義賢の弓術自慢に黙って耳を傾けながら、信長はそんなことを考えるのであった。




            *   *   *




 翌日。東近江、中山道なかせんどう――。


「信長、春殿。あれが、観音寺城がある繖山きぬがさやまじゃ。この一帯の平野ならば、どこからでもあの聖なる山を拝むことができる」


 義賢が、六角家の牙城がじょうたる観音寺城を指差し、自慢げにそう言った。


「まあ……。なんと優美な姿をした山なのでしょう」


 春の方が、湖水(琵琶湖)の方角から吹いてくる夏風で乱れてしまった髪を手でおさえつつ、感嘆の声を上げる。信長も、近江人たちに繖山と呼ばれているその山を眺めた。


 そのなだらかな山の稜線りょうせんは、貴人の頭上に差しかざす衣蓋きぬがさ(絹で作られた長柄の傘)によく似ている。恐らく、あの美しい山の形が名前の由来になっているのだろう。


「聖なる山……。たしかに、あのように美しき山にならば、まことに神がいそうですな」


「『いそう』ではない、繖山は神仏が御座おわす山ぞ。あの山には、観音正寺かんのんしょうじという古刹こさつがあるのだ。推古すいこ女帝の御世みよに、かの聖徳しょうとく太子たいし淡海おうみ(琵琶湖)の水中より現れた人魚の願いを聞き入れ、繖山に千手観音せんじゅかんのんまつる寺を建立したと古くから言い伝えられておる」


「なるほど、実際に神仏の加護がある山でしたか」


「おうよ。それに、あの山の中腹には薬師やくし如来にょらいを祀った桑實寺くわのみでらという寺院もある。天智てんじ帝の皇女の重い病をいやすために、薬師如来が繖山に顕現けんげんしたことがあるそうだ。古来より近江の民たちに聖山として信仰されている場所に、我ら六角家は居を定めておるというわけよ」


「聖なる山に城を……。それは、何故なにゆえでしょうか」


「決まったことよ。民たちが信仰する聖域に君主が城を築き、善政をけば、民衆は君主を神そのものとして崇めることになるではないか」


「……つまり、六角家領の民たちは、神仏と六角定頼様を同一視しているということでしょうか」


 己の権力に神仏を取り込む、という発想を信長は今まで考えたこともなかった。驚きつつ、そう問うてみる。


 父のことを尊崇している義賢は、フフンと自慢げに笑いながら、「まあ、そういうことになるな」と答えた。


「我が父は、神を敬いつつもその力を利用し、人心を得ておる。父上は常々こう仰せだ。……『国を治める者は、聖なる存在であらねばならぬ』とな」


「聖なる……存在……」


 信長はそう呟きながら、農作業の手を止めて繖山を伏し拝んでいる幾人かの農民たちをじっと見つめた。


 彼らは、聖なる山を拝むと同時に、あの山の城に住まう六角定頼を崇拝しているのだろうか。


(俺は、「荒ぶる神・牛頭ごず天王てんのうのごとき強い武将となって、尾張の人々を守りたい」という志を胸に抱いているが……。

 六角定頼は、千の手と千の眼で生あるこの世の全ての者を救う千手観音たらんとしているのだろうか。それが、天下の執権しっけんと呼ばれている男の気概きがいだということか?

 ……いや、実際に会ってみねば、どんな男かまだ分からぬ。ただ単に、将軍様や諸大名を意のままに動かせる実権を握ったおごりから、そんな大それたことを言っているだけだという可能性もある。定頼が武将として真に尊敬すべき男か否か、この目で見定めてやろう)




            *   *   *




 それから数刻後。

 信長一行は、急に降り出した小糠雨こぬかあめに髪や肩を濡らしつつ、繖山の南麓なんろくにある城下町に到着した。京都―美濃間の宿駅として栄える石寺いしでらの市場である。


 市場に足を踏み入れた信長は、石寺の予想以上の賑わいに驚き、


「これはすごい。まるで桑名の十楽じゅうらくの津のようだな」


 と、平手ひらて政秀まさひでにそうこぼした。


「ここは、京と東海の国々を繋ぐ要衝の地ですからな。諸国の産物がどんどんと入ってくるのは当然のことでしょう。それに、近江には湖水(琵琶湖)があります。北陸からは海の幸が船で届けられ、塩もふんだんに手に入る。古来より近江は豊かな土地なのです」


「いや……。十楽の津と似ているのは、他国から流れて来る品物の豊富さだけではないようだ。解放的な雰囲気がそっくりだ。商人たちが実に生き生きと商売をやっている。多少の雨などへっちゃらのようだ」


 殷盛を極める石寺の市場を歩きながら、信長は少し興奮ぎみにそう言い、あたりをキョロキョロと落ち着きなく見回す。父の信秀に似て、銭もうけに異様な興味があるため、何が十楽の津と「そっくり」なのかを見極めようとしているのだろう。田舎者丸出しである。


 政秀は眉をひそめ、「の……信長様。ちょっとは落ち着いてくだされ。義賢様に笑われますぞ」と小声でいさめた。


 だが、その義賢はというと、珍しく気難しそうな顔をしながら前方を睨みつけている。どうやら、市場で喧嘩をしている商人たちを見つけたらしい。


「おい、そこのたな! 何を揉めておるのだ! 六角家の城下町で喧嘩騒ぎを起こすとは何事だ! 市内における乱暴行為は許さんぞ!」


 義賢がそう怒号を上げると、今にも殴り合いを始めそうになっていた太った商人と痩せた商人がビクッと驚き、「わ、若君!」と叫んだ。


「き……聞いてくださいませ、義賢様。この男が私の店に難癖を……」


「違います! この男が悪いのです! 我ら枝村えだむらの商人の商いを邪魔するようなことをしたから……!」


「うっるさいッ‼ いっぺんにしゃべるな‼ 二人まとめてブン殴るぞ‼」


 ついさっき「市内における乱暴行為は許さん」と言っていた義賢が、拳を振り上げて商人二人を脅した。商人たちは「ひ、ひいっ……!」とおびえ、後ずさる。どうにも気性の荒い若殿である。


 さすがに国主の嫡男が城下町で商人を殴り飛ばしたらまずい。他国のことではあるが、止めるべきか否か――信長と政秀はそう悩んだ。しかし、その時、


「待たぬか、義賢。短慮を起こすでない」


 という制止の声が飛んできた。


 遠くまでよく響くが、義賢のようにうるさくもはげしくも無く、夕暮れ時に鳴る寺の鐘のようにスッと胸の奥底に染み入るような声音こわねである。


 驚いた信長たちが振り返ると、六角氏の軍旗を掲げた兵たちが今まさに石寺市に入場しようとしているところであった。奈良からたったいま帰還した六角定頼の軍勢である。


「おおっ、殿様じゃ。定頼様のご帰国じゃ」


 市場にいた民たちは、口々に声をあげ、兵たちの行進を邪魔しないように一斉に道の脇に寄った。


 きらびやかな隊列の先頭では、体躯たいくたくましい白馬が威風堂々と歩を進めている。赤い毛氈もうせん鞍覆くらおおいが目に鮮やかであった。


 鞍覆とは、馬に騎乗しない際に鞍の上からあぶみにかけて覆っておく鞍掛具(つまり、鞍にかけるカバー)のことである。

 中でも赤い毛氈の鞍覆は足利将軍家の専用品とされ、この鞍覆の使用を認められるのは武門の者にとっては大変な名誉だとされた。


 その緋色の鞍覆を見た瞬間、(あれは六角定頼の馬だ)と信長はすぐに察した。噂によると、定頼は自分から申し出てもいないのに、幕府から緋毛氈の鞍覆を使ってもよいと許可されたらしい。


 やがて、貴人が乗っているらしき輿こしが兵たちに守られながら現れ、信長一行の前で止まった。


 その輿から「どっこいせ」と言いながら出て来たのは、義賢と風貌がよく似た浅黒い肌の男である。あの人物こそが、近江の守護にして足利将軍家の後ろ盾の六角定頼だろう。


「そこの商人たちよ、話を聞こう。この石寺の市場は、商いに従事する者たちの聖域――『楽市』じゃ。裁きに不公平があってはならぬ」


 ニコリとそう告げる定頼の顔は、おのれを神仏になぞらえる傲岸不遜な驕人きょうじんという印象は全く無い。そこらへんにいる気さくな老農夫のようであった。








<琵琶湖の名称について>


 滋賀県の「琵琶湖」が今の名称で定着するようになったのは、江戸時代の元禄期以降のことのようです。


 それ以前には、「淡海おうみ」「近淡海ちかつあわうみ」「湖」「湖水」「海」「におの海」などと呼称されていました。なので、戦国期の信長たちは「琵琶湖」とは呼んでいなかったはずです。


 ただ、信長の時代以前にも、この湖に「琵琶」というキーワードが使われている文献はいちおうあるようです。


 天台宗の僧侶・光宗が著した『渓嵐拾葉集けいらんしゅうようしゅう』(鎌倉時代末期~南北朝時代の間に記された仏教書)には、「(近江の湖は)琵琶の形に似たり」という文言があります。


 また、十六世紀初頭には、景徐けいじょ周麟しゅうりん(室町時代の禅僧)が、近江の湖を中国の瀟湘しょうしょう八景(瀟湘とは、湖南省長沙あたりのこと)と比較して讃えた以下のような漢詩を残しています。



瀟湘八幅其の図案ずるに

長命寺の前天下に無し

一景新たに添う有る声画

袖中に携えて琵琶湖を去る



「琵琶湖」という名の由来についても、諸説あります。

 竹生島にお祀りされている弁才天様の楽器・琵琶に湖の形がよく似ているから……とか。

 琵琶の音色と水辺のさざ波の音がそっくりだから……とか。


 私は学生時代に滋賀県の長浜市(信長の家臣時代の秀吉が建てた長浜城がある町)へ何度も行き、琵琶湖の波の音を聞いたことがありますが、たしかに耳を澄ませていると、楽器の音色を聴いているような優しさがあの湖のさざ波にはあると思います(*^^*)

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