藤吉郎仕官・前編
津島で一泊してから
その翌日。
昨晩の疲れのせいで太陽が空高く昇る頃まで信長が惰眠を貪っていると、部屋に闖入してきた姉のくらに「信長殿、いつまで寝ているのですか」と叩き起こされた。
「姉上……。あともうちょっとだけ寝かせてください」
信長が起きるのを渋っていると、くらは「ダメです。早く起きてください。あなたにご客人が見えているのですから」と言い、抱っこしていた男の赤ん坊を信長の顔の上にのしっと乗せた。
くらが昨年の秋に産んだ子供(後の
「ぐ……ぐるじい……。い、息が……」
「だぁだぁ! だぁだぁ! キャキャキャ」
「こ、こら、俺の顔をペチペチ叩くな」
信長はまだ言葉の通じない甥を抱き上げると、観念して寝床から出た。
「ようやく起きましたね。
「俺に客人とはいったい誰ですか」
「津島衆の有力豪族である堀田家は信長殿もご存知ですよね。その堀田一族の方で、津島
「板東大夫とは元服前に何度か会ったことがあります。しかし……礼とは何のことだろうか?」
「あなた、昨晩この屋敷に来る途中に奉公人らしき子供を助けたと言っていたでしょう? その子供のご主人が板東大夫殿だったのですよ。さあさあ、早く顔を洗って準備なさい。あまり長くご客人を待たせるものではありませんよ。立場ある者こそ礼儀礼節を大事にせねば」
信長はくらに急かされるまま身なりを整えると、大橋邸の客間へと急いだ。そこで昨日会った藤吉郎と再会したのである。
* * *
猿顔の少年・藤吉郎は、客間に面した庭でブルブル震えながら土下座していた。そばには
信長が上座に座って「
「御尊顔を拝し、
(こいつは前置きの
そう察した信長は、聞いているふりをしてよそ事を考えだした。
適度にあいづちをうち、そういえばまだ朝飯を食べていなかったから腹が減ったなぁ……などと心の中でブツブツ独り言を言う。
父親譲りの短気者なので、どうでもいいお世辞や時候の挨拶はまどろっこしくてついつい聞き流してしまうのである。
「こほん……。こほん……!」
板東大夫の長ったらしい挨拶がようやく終わると、内藤勝介が信長のほうをチラチラと見ながらわざとらしく咳払いをした。板東大夫の
「デアルカ、デアルカ。で、板東大夫殿。庭にいるアレが、昨晩俺がふんどし一丁の男から助けた
「はい、そのことなのですが……」
信長に問われると、板東大夫は庭で土下座している藤吉郎をチラリと振り返り、恐縮した様子で信長に頭を下げた。
「せっかく信長様がお助けくださったのに、我が屋敷の奉公人がろくにお礼も申し上げずに逃げ出してしまったそうで……。
藤吉郎は、信長様のお供衆の中にいた虎若……でしたか。その男を借金取りだと誤解し、逃走したらしいのです。なにとぞ当家の奉公人のご無礼をお許しくださいませ」
主人である板東大夫がそう詫びると、藤吉郎も「ど、どうかお許しくだせいませぇー!」とほとんど悲鳴に近い涙声で謝罪した。織田家の嫡男に無礼を働いてしまったからには叩き斬られるかも知れないと
だが、藤吉郎の声はとにかく馬鹿でかい。広大な大橋邸の端から端まで響き渡り、番犬として飼っている三匹の犬が驚いて「ワンワンワン!」と一斉に吠えだす始末だった。
内藤勝介が眉をしかめ、「叫ぶでない! なんという大声じゃ」と叱る。
藤吉郎は、あわわわとさらに慌て、「申しわけありませぬ、申しわけありませぬ」といくぶん抑えた声で謝った。そして、何度も地面に額を叩きつけ、信長に許しを乞う。
信長は、あまりにも必死に謝る藤吉郎のことが哀れに感じ、「もうよせ、額から血が出ているぞ」と言って止めた。
「板東大夫殿。別に俺は不快には思っておらぬゆえ気にするな。……しかし、その童を助けたのが俺だとよく分かったな。たしか俺は名乗っていなかったはずだが」
「屋敷に逃げ帰った後、藤吉郎本人が『あれは織田家のご嫡男の信長様だったかも知れない』と気づいたのです。織田弾正忠家のご一族は世にも稀なほどの美形ぞろいであることはこの津島でも有名ですゆえ。
藤吉郎めがそう言って心配するので調べたところ、大橋殿のお屋敷に信長様がいらっしゃることが分かり、やはりそうであったのかと慌ててお詫びに参った次第でして……」
「なるほどな。会ったこともないこの俺を織田信長だと察するとは、なかなか賢い童のようだ。虎若を借金取りだと誤解したのは、少しおっちょこちょいだが」
「あ……あの……。俺のこと……
はっきりと「許す」という言葉を聞いて安心したい藤吉郎がびくびくしながらそうたずねると、板東大夫が慌てて「こら! 許しもなく勝手に口を開いてはならぬ!」と叱った。
藤吉郎は、やっちまった! とばかりに顔を青ざめさせ、ヘヘェーと地面に
「よいよい。許すゆえ、そう怯えるな。……板東大夫殿。こやつは
「は、ははぁ……!」
奉公人の無礼に恐縮しきっている板東大夫は、額に汗を浮かべながら信長に平伏した。
さっきからハラハラとした様子で藤吉郎の身を案じていた虎若も、安堵のため息をついていた。戦友である
「板東大夫殿、そんなペコペコしなくてもいい。藤吉郎も面を上げよ、もう一度お前の猿顔が見たい」
信長は、藤吉郎が怯えないようにできるだけ優しい声音でそう命令した。
朝の起きたてはだいたい機嫌が悪い信長だが、この日はすこぶる上機嫌である。藤吉郎という猿顔の少年のことを気に入っていたのだ。
信長は生真面目な性格ゆえに、実直な人間を愛する傾向がある。
この藤吉郎は、わざわざ主人の板東大夫に報告しなければこうやって斬られる覚悟で詫びに来なくても済んだというのに、おのれの過失を隠さなかった。そんな藤吉郎の馬鹿正直さを「
「ど……どうかご勘弁を。俺のような醜くて縁起でもない猿顔をご覧になったら、若君様の目が汚れまする」
藤吉郎は、幼い頃から
「猿は
「えっ? お、俺の猿顔が……?」
藤吉郎は驚いた表情で顔を上げ、自分の頬をペタペタと触った。
生まれてこのかた自分の醜い顔を他人からけなされてばかりいたため、初めてこの猿顔を褒められてびっくりしたのである。
信長にしてみたら、卑屈すぎる貧農の
「おう、ようやく顔を上げたな」
信長はそう言いながら立ち上がると、大股で縁先まで歩き、しゃがみこんで藤吉郎の顔をまじまじと見つめる。
「ふむ。
信長はそんな励ましの言葉を与え、悪戯っぽくニッと笑った。
信長という人間は、敵国の兵や民には容赦がないが、領内の民たちに細やかな愛情をそそぐ優しさも持っている。
後年、天下に覇を唱えるようになっても、道中で見かけた物乞いのために胸を痛め、町の者たちに費用を与えて物乞いが住める小屋を建てさせるなど温情をかけた。
このもう二度と会うこともないであろう堀田家の奉公人に対しても
一方、上目遣いで恐るおそる信長の美貌を拝していた藤吉郎は、微笑む信長と目が合った瞬間、雷に打たれたような衝撃を受けていた。
(ああ……。目が潰れんばかりに神々しい若君様じゃ。織田三郎信長様とはまことに人じゃろうか)
陽光が差し込むような信長の微笑と美しく輝く白い歯に見惚れ、身じろぎすることすらできない。
(俺の顔を生まれて初めて褒めてくださった、神々しいまでに美しいこのお方は、神様の化身に違いない。俺が神の御使いならば、神である織田信長様にお仕えしたいものじゃ。そうすれば、侍になるという俺の夢も叶うかも知れない)
それは、恋に落ちた娘のような思慕の情だった。
この瞬間こそが、織田信長が地上から消えるまで藤吉郎が胸に抱き続ける「信長信仰」の始まりだったと言っていい。
<津島と若き日の秀吉>
藤田達生氏著『秀吉神話をくつがえす』(講談社現代新書)によると、秀吉は津島の有力者である堀田氏を「久しき友人」と呼んでいたそうです。また、津島神社の神官・堀田板東大夫の家に奉公していた時期があり、堀田家では少年秀吉がよくのぼったと伝わる松の木(太閤松)が江戸時代後期まで残っていました。残念ながら、その松の木は安政の大地震で倒壊したそうです。
以上の逸話を参考にして、本作品では堀田板東大夫という人物を登場させました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます