藤吉郎仕官・後編

「はぁ~……。織田信長様かぁ……。あのお方にお仕えできたらなぁ……」


 大橋邸から戻って一刻(約二時間)後。


 藤吉郎は、堀田家の屋敷の庭にそびえる立派な松の木にのぼり、ぼんやりと青雲を眺めていた。


 頭には大きなたんこぶができている。

 屋敷に帰って半刻もしないうちに先輩の奉公人にぶん殴られたのだ。

 殴られた理由はよく分からない。たぶん、むしゃくしゃしていたところに藤吉郎の猿顔が見えたから八つ当たりで殴ったのだろう。藤吉郎はどこへ行ってもそんな扱いを受けてばかりいるいじめられっ子だった。


 どんな仕事であろうとも、藤吉郎は嫌な顔ひとつせず懸命に働く。そのため、たいていの場合は奉公先の主人に気に入られるのだが……。

 出る杭は打たれるというやつで、先輩や同僚の奉公人たちは「醜い猿顔のくせに生意気な」とねたんで藤吉郎を虐め、陥れようとするのである。


 この堀田屋敷でも、毎日のように殴られ蹴られしている。藤吉郎にとって、この松の木の上だけが唯一の心安らげる居場所であった。


「『懸命に働けば道は開ける。だから、父ちゃんは侍になる夢を諦めねぇ』……。美濃のいくさに行く前、親父は幼い俺にそう言っていたが、その戦で親父は死んじまった。やっぱり、俺や親父みたいな弱者はどれだけ努力しても死ぬ最後の瞬間まで虫けらのままなのかなぁ……。

 貧乏は嫌じゃ、本当に。他人にとことん馬鹿にされるんだもの。誰も俺のことなんて見てくれん。笑いかけてもくれん」


 藤吉郎は自虐的な笑みを浮かべながらそう言った後、「……でも、信長様は違った。俺に微笑みかけてくださった」とポツリと呟いた。


「信長様なら……俺の猿顔を縁起の良い顔だとおっしゃってくださったあのお方なら、俺を侍に取り立ててくださるじゃろうか?」


 思い切ってあの時に「俺を家来にしてください!」と信長に頼みこんでいたら、どうなっていただろうか?


 藤吉郎はふとそう考えたが、すぐにそんな妄想を打ち消し、頭をブンブンと振った。


 貧しい百姓の子である自分が織田弾正忠だんじょうのちゅう家の嫡男に召し抱えてもらえるはずがない。


 第一、今の主人である堀田板東ばんどう大夫たゆうはそれなりに藤吉郎のことを可愛がってくれている。他の奉公人たちと上手くやれていない藤吉郎を見捨てずにこの屋敷に置いてくれている。これまでの主人だったら、屋敷内での奉公人たちの揉め事(その全ての被害者は藤吉郎)の種にしかならない藤吉郎をとっくの昔に放り出していた。板東大夫は優しい主人だ。織田信長に仕えるためにこの屋敷を勝手に飛び出したら、板東大夫からもらった恩を仇で返すことになるだろう。そういう恥知らずなことはするべきではない……。


「とはいえ、この屋敷にいたままじゃ、侍になるという夢には一歩も近づけねぇ。俺はいったいどうすればいいんじゃろうか」


 藤吉郎が何度もため息をつきながら独り言を言っていると、「藤吉郎や」という声が下から聞こえた。


 いつからいたのか、主人の板東大夫が木の上の藤吉郎を見上げていた。


「わ、わ、わ。ご主人様」


 さっきの独り言を聞かれていたのではと思って焦り、藤吉郎はほとんど落っこちるように木から滑り降りた。どてぇーんと尻もちをつく。


「大丈夫か、藤吉郎。慌てて降りるからじゃ」


「は、はい、大丈夫です。何か御用でしょうか、ご主人様」


「うむ。そのことじゃが……。藤吉郎よ、お前には暇を出すゆえ好きなところへ行くがよい」


「なるほど、暇を――へ?」


 唐突にお前はクビだと言われ、藤吉郎は「何故なにゆえですか⁉」と素っ頓狂な声を出して驚いた。


「も、もしかして、信長様に無礼を働いたから……」


「いや、違う。早とちりをして泣くな。別にお前のことを怒っているわけでもないし、うとましく思ってこんなことを言ったのではないのだ」


 藤吉郎がしくしくと泣きだしたため、板東大夫は優しい声音でそうなだめ、「お前、織田信長様のことをどう思う」と問うた。


「え? 信長様……ですか?」


「あのお方にお仕えしたい、と思っているのであろう」


「そ……それは……」


 図星を突かれ、藤吉郎は目を泳がせる。

 嘘をつくことを知らない純朴さゆえに、ごまかすこともできずに「その通りです。どうしてお分かりになったのですか……?」と白状してしまった。


「さっき、自分で言っておったではないか。お前の声は独り言でも馬鹿みたいにでかいから、自室におってもよく聞こえる」


「俺は本当に阿保じゃぁ……」


「だが、お前が信長様に強く心惹かれていたことは、大橋殿の屋敷で信長様に拝謁した時から薄々察しておった。いつもビクビクと怯えて暗い顔ばかりしているお前が、あんなにも目を輝かせて信長様を拝み見ていたのだからな」


 藤吉郎は顔をかあぁっと赤くさせ、うつむく。他人に自分の恋を言い当てられたような気恥ずかしい心持ちになっていたのである。


「……信長様はとても素晴らしい若殿様だと思います」


「うむ。あの若殿は、幼少の頃から身内にとてもお優しい方だった。おのれのふところの中に入った者には、どんな低い身分であっても情けをお授けになる。たとえお前のような貧しい農民の子であっても、だ。

 ……わしが見たところ、信長様はお前のことを気に入っているようだ。お前を見る目はとても優しげであった。どこの奉公先でも努力が報われぬお前でも、慈悲深き信長様の下でならばその才能を発揮できるやも知れぬ。儂のように働き者の奉公人を上手く使ってやれぬ駄目な主人の下でくすぶっているよりは、ずっといいはずじゃ」


 板東大夫は、藤吉郎が以前の奉公先で同僚たちの陰険な罠にはまり、「店の銭を盗んだ」と濡れ衣を着せられたことを知っていた。


 だから、自分の屋敷でも同じような厄介な揉め事が起きないようにするために、藤吉郎にはなるべく大事な仕事を与えずにいたのである。特に、家の銭を持たせないように気をつけていた。虐められ体質のこの子のことだから、どうせ町のごろつきにでもからまれて金を奪われてくるだろう、と藤吉郎のことを信じていなかったのだ。


 しかし、昨日はたまたま用事を言いつける者が他にいなかったので、仕方なく藤吉郎に銭を渡してお遣いを命じることになった。恐れていた通り、藤吉郎は前の奉公先の人間に捕まって銭を奪われそうになった。


 だが、板東大夫にとって意外だったのは、藤吉郎がどれだけ殴られても主人から預かった銭を守り抜いたことである。

 ズタボロになりながらも屋敷に帰って来た藤吉郎の姿を見て、板東大夫は大いに後悔した。こんなにも忠実な奉公人を自分は飼い殺しにしていたのだ、と恥ずかしく思ったのだ。藤吉郎は、板東大夫が思っていた以上に見どころのある少年だった。


 誰よりも誠実で、誰よりも侮られやすい、非力な少年・藤吉郎。

 できることならば、取り立ててやって堀田家のために働かせたいとは思う。


 けれど、藤吉郎を引き立てようとすれば、藤吉郎を猿だと侮る他の奉公人たちが黙ってはいないだろう。家中に余計な波風が立つのは目に見えている。家来たちを怒鳴って黙らせるだけの胆力に欠ける板東大夫には、いざという時に藤吉郎を守ってやれる自信は無かった。その才覚を存分に活かしてやることなど、到底できない。


(しかし……強烈な身内愛で家臣や領民たちを慈しむ織田信長という若殿ならば、藤吉郎を周囲の嫉妬から守りつつそれなりの身分まで引き立ててくださるやも知れぬ)


 板東大夫は、そう期待していたのである。藤吉郎を屋敷から放逐するのは、主人としての最後の優しさだった。


「儂への義理立てなど無用じゃ。信長様の元へ行くがいい。那古野なごや城で懸命に働け」


「し、しかし、俺には織田信長様にお仕えする伝手つてがありません」


「伝手なら、ある。儂がしたためたふみを持って行きなさい」


 板東大夫はそう言うと、ふところから信長宛ての書状を取り出し、藤吉郎に手渡した。


 藤吉郎は大いに困惑し、


「な、なぜ……百姓の子倅こせがれにすぎない俺にここまでしてくださるのですか?」


 と、問うた。板東大夫はフッと笑い、藤吉郎の頭を撫でる。


「主人でありながらお前のことを信じてやれなかった罪滅ぼしじゃ」


「ば……板東大夫様……」


「幸せになれよ、儂の可愛い小猿」


「あ、ありがとうございます。このご恩はけっして忘れませぬ!」


「もういい。行け。信長様のご一行は、昼過ぎに大橋殿の屋敷を出て船でお帰りになるらしい。早く向かわねば、信長様に会えなくなるぞ」


「はい!」


 藤吉郎は板東大夫に一礼すると、手の甲で涙を拭いながら駆け出し、堀田家の屋敷を飛び出していった。




            *   *   *




 その頃、信長一行は――津島港で船に乗るために大橋邸を辞去したところだった。


 腰痛で満足に歩けないお徳は、最初は駕籠で運ぼうとしたが、揺れて腰が痛むため、信長が背負ってゆっくりと歩くことにした。


「の……信長様。恐れおおうございます。せがれの恒興に背負わせますゆえ、おろしてくださいませ」


「ならぬ。恒興は雑なところがあるから、乱暴に運ぶかも知れない」


 信長は恒興だけでなく、内藤ないとう勝介しょうすけ山口やまぐち教吉のりよし虎若とらわかが「我らが背負いましょう」と申し出ても、お徳には触れさせなかった。父・信秀の側室であるお徳を余人に気軽に触らせては父上に申しわけない、と生真面目な信長は考えているようである。


「……おや? 内藤様、あれは藤吉郎ではありませぬか?」


 大橋邸から少し離れたところで、虎若が前方を指差した。


 信長たちが見ると、小柄な子供が往来のど真ん中で土下座していた。堀田家から飛び出した藤吉郎が、先回りして信長一行を待ち受けていたのである。


「おい、藤吉郎。往来の邪魔だ。いったい何をしておる」


 勝介がそう声をかけると、藤吉郎は土下座の体勢のまま器用に両手両足を使って蜘蛛がうみたいに前へ進み、勝介に一通の文を差し出した。そして、あらん限りの声で叫ぶために息をスーッと吸った。


「信長様‼ どうか、この藤吉郎めを信長様の飼い猿にしてくださいませ‼」


 通行人たちがギョッと驚いて振り向くほどの大声をあげ、藤吉郎はようやく顔を上げた。哀願するような眼差しで、信長を見つめる。


「飼い猿にしろだと? どういうことだ」


「え⁉ あ~と、え~と! け、家来にしてくださいという意味で……!」


 信長の声が意外なほど冷ややかだったため、言葉の意味が分からなかったのだろうかと藤吉郎は慌てて言い換えた。しかし、信長は頭を振って「お前の言葉が理解できなかったのではない」と言った。


「お前は堀田家の奉公人であろう。板東大夫殿が召し使っている者を俺が雇うことはできぬ」


 今朝まで堀田家の奉公人だったものが、昼下がりには信長に仕官を申し出ている。

 これは屋敷を逃げ出して来たに違いない、と思ってしまうのが普通である。信長も藤吉郎の行動をそんなふうに解釈していた。


 この小猿のことを気に入ってはいるが、他家の家人を勝手に引き抜くような真似をするのは悪しきことである。武門の棟梁とうりょうの嫡男がそんなことを軽々しくするべきではない――武家社会の秩序を尊ぶ信秀に教育を施された信長は、そう考えて藤吉郎にあえて冷たい態度を取っているのだった。


「藤吉郎。無断で堀田家から逐電ちくでんしてきたのならば、俺は板東大夫殿にお前の身柄を返さねばならぬ」


「い……いえ! それは――」


「信長様。どうやら、逐電したわけではないようです。これをご覧ください」


 藤吉郎がたずさえていた書状を勝介が渡すと、信長はざっと目を通した。それは板東大夫の手紙だった。


「ふむ……。『めでたき縁起物の猿を信長様に献上いたします。主人に懐きやすく利口な猿なので、芸を教えるなどして可愛がってやってください』か。なるほど、お前は板東大夫殿の贈り物であったか」


「は、はい! 信長様のお望みになる芸ならば、どんな芸でも覚えまする。俺は信長様のような頼もしき御大将にお仕えして侍になるのが夢なのです。なにとぞ……なにとぞ仕官をお許しくださいませ」


 これが自分の夢をつかむための千載一遇の機会であることを理解している藤吉郎は、無我夢中で頼みこんだ。地面に額を叩きつけ、「お願いします! お願いします!」と声も枯れんばかりに叫び続ける。


 そんな必死な姿を見ていた虎若が「おお……。お前も父親の弥右衛門やえもんさんと同じように、武士になる夢を持っていたんだな」と感動して涙ぐみ、藤吉郎の隣に並んで土下座した。


「御大将。この虎若からもお願いいたします。藤吉郎の父親は、その一命に代えて織田軍の危機を救った弥右衛門という足軽のせがれなのです。どうか、この子を召し抱えてやってください」


「そのようなことを勝介も申しておったな……」


 信長がそう呟きながらチラリと勝介を見ると、勝介も弥右衛門への罪滅ぼしのために藤吉郎を雇ってやりたいと思っているようで、コクリと無言でうなずく。


「信長様。昨年の秋にお風邪をめされた頃、猿の子供が虐められている夢をよく見るとおっしゃっていたことをお覚えですか?」


 信長がどうしたものかと考えていると、背に負っているお徳がそう言った。


 すっかりその夢のことを忘れていた信長は、「ああ、そういえば……」と呟く。


「思い出した。どこかの港町で小猿が殴られて泣いている夢を何度か見たことがあったな。……そうか。あの夢に出てきた小猿は、藤吉郎――お前だったのか。どこかで見た猿顔だと思っていたが、まさか夢の中で会っていたのか」


「夢は神仏からのお告げだと昔から言います。この小猿殿が信長様の前に現れることはすでに決まっていた運命だったのでしょう。

 しかも、この子は津島天王てんのう社の神官にお仕えしていた身。きっと牛頭天王ごずてんのう様が『この子を手元に置けば、織田家に吉がある』と夢で教えてくださったのに違いありません。召し抱えてあげてはどうですか」


「なるほど。日吉ひよし大社の御使いである猿が、牛の頭を戴いた牛頭天王に導かれて、我が元に来たということか。これは二重でめでたいな」


 ずっと難しい顔をしていた信長がようやく笑顔になり、心配そうに見上げている藤吉郎に微笑みかけた。


「藤吉郎」


「は……はい!」


「俺の草履取りから始めろ」


 信長は一言そう言うと、藤吉郎のボサボサの頭を軽く小突き、港に向かって歩きだした。


 藤吉郎はしばらくの間、ぽかぁ~んとしていたが、虎若に「よかったなぁ! 親父殿の分まで懸命に働けよ!」と背中を叩かれて、やっと自分が信長の家来になれたことに気づくのであった。


「こ、この藤吉郎! 信長様の御為に死ぬ気で働きまする!」


 うわぁっと天に飛び上がらんばかりに立ち上がり、藤吉郎は信長の後を追って駆けだす。


 これが、信長と藤吉郎の全ての始まりだった。


 天文十七年(一五四八)春。

 信長は十五歳、藤吉郎は十二歳だった。

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