南蛮鉄砲の噂

 思わぬ寄り道をしてしまったため、信長一行が目的地である大橋おおはし清兵衛せいべえ重長しげながの屋敷の門をくぐったのは真夜中であった。


 大橋重長と家人たちは、まさか織田家の若君が自ら乳母を迎えに来るとは考えてもいなかったようで、「こ、これはこれは、信長様。ようこそお出で下さいました……」と少々慌てぎみに応対した。


「重長殿、姉上、夜分遅くにすまぬ。お徳の怪我の具合が気になったのだ」


「身内想いのあなたらしいですねぇ、信長殿。でも、前もって使者のひとつぐらい寄越してくれないと、気の小さな私の旦那様の心の臓が止まってしまうわ。今度からは気をつけてください」


 信長とは幼い頃から仲のいい異母姉のが笑いながらそう言うと、夫の大橋重長は額に汗をかきながら「こ、これ、殿。信長様に対して失礼じゃぞ」と小声で注意した。

 親子ほど年の離れた夫婦だが、重長は後妻であるのことを「殿」と呼んでいるらしい。こいつはそうとう尻に敷かれているな、と信長は少し可笑おかしく思った。


「の……信長様。ご迷惑をおかけして申し訳ありませぬ。自分はまだまだ若い者には負けないと思って油断をしておりました。あいたた……」


「母上。無理をして起き上がってはいけませぬ。さあ、俺の肩につかまってください」


 しばらくして、信長が通された部屋にお徳と息子の池田いけだ恒興つねおきが現れた。


 お徳は息子の手を借りて歩くのを嫌がり、恒興がしつこく差し出してくる手をパチン、パチンと何度も払いのけている。

 信長や恒興など十代の若者たちにおばさん扱いをされてはいるが、彼女はまだ三十四歳である。信秀の子供だって欲しいと考えているのだ。あと二、三十年は年寄り扱いなどされたくはなかった。


「お徳、腰の痛みはもういいのか」


「はい。もうこの通りしっかりと歩け……いたたた⁉」


「仕方のない奴だなぁ。恒興、ちょっとどけ」


 信長は、部屋の隅で動けなくなっていたお徳をひょいと抱き上げると、自分が座っていた上座のすぐ隣に座らせてやった。


「は、はわわ! 信長様、もったいのうございまする!」


「わぁー! わぁー! うらやましい! けしからん! 私も信長殿に抱っこされたいわぁ~!」


 お徳が顔を真っ赤にして恥じらい、は鼻息荒く興奮している。妻の発言を聞いて「じ、じゃあ、わしが……」と言いかけている重長のことは完全無視だった。お姫様抱っこは今も昔も女の浪漫ろまんらしい(ただし、美男子に限る)。


 一方、恒興は「む……息子の俺が肩を貸そうとしたら物凄く嫌がったくせに、信長様に抱っこされたらなんであんなにも大喜びするんだ……」と傷ついている様子だった。


「見目麗しき信長様に抱かれて喜ばぬ女人にょにんはおらぬ。そんなに気を落とすな」


 山口やまぐち教吉のりよしが笑いをこらえながら小声でそう慰めたが、恒興はなおも不満顔である。


「う、う、う……。私のような堅物女がお育てした信長様がこんなにもお優しい殿方に成長してくださるなんて……。私、もう死んでもいいです……」


「せっかく迎えに来てやったのに死ぬなよ」


 感激のあまりお徳はおいおいと泣いている。信長が懐紙を手渡してやると、チーンと鼻をかんだ。


「お徳殿。泣いているところ申しわけないが、甲賀の滝川なにがしという縁者とはお会いできたのですか」


 お徳が泣いてばかりいて新家臣登用の首尾についてなかなか報告してくれなかったため、内藤ないとう勝介しょうすけがちょっとじれったそうにそうたずねた。


「……え? 津島に着いた際、恒興に取り急ぎ書状で報告しておきなさいと私は命じていたのですが……」


「あっ! う、うっかりしていて、母上が腰を痛めたことしか書きませんでした。申しわけありませぬ……」


 やらかしてしまった、と焦った恒興は冷や汗をかきながら信長に謝った。


「恒興。お前は肝心な時にしくじりが多い。その癖は早く直せ。戦場で後れを取るぞ」


「は、はい……」


「で、お徳。滝川某は登用できたのか」


 信長は、たぶん駄目だったのだろうと半ば思いながらそう問うた。登用できたのならお徳たちに同行してこの屋敷にいるはずだと考えたからだ。誰もあいさつしに来ないということは、お徳は滝川某を甲賀から連れて帰ることができなかったのに違いない。


 案の定、お徳は顔を曇らせて頭を振った。


「……残念ながら、滝川一益という若者は、私が甲賀を訪れた時にはかの地から行方をくらませておりました」


「行方不明になっているというのか? 何か事件にでも巻きこまれたか」


「いえ……。なんとも情けない話ですが、その滝川一益なる者は三度の飯よりも博打ばくちが大好きで、しかも大酒飲みなうえにしょっちゅう誰かと喧嘩騒ぎを起こすという手のつけようのない問題児だそうでして……。

 父親の滝川一勝(恒興の父・池田恒利の兄弟)にも見放され、今年の初めに一族から追放されてしまったそうです」


「とんでもない駄目人間ではないか。さきほど津島の町で遭遇したふんどし一丁の男といい、世の中にはろくでもない奴がいるものだなぁ」


 そのふんどし男と滝川一益が同一人物だとは露知らぬ信長は、呆れてため息をついた。


「ですが、一益と仲の良かった何人かの若い甲賀武士から聞いた話によると、いくさでは無類の働きをする猛者もさだったそうです。上手く使いこなせば織田軍の役に立つはずだと私は考えています。きっと、縁者である池田家を頼って尾張国に現れるはずですから、見つけ次第、那古野なごや城に連れて来たいと思いまする」


「俺は不真面目な人間が嫌いだ。そんな遊びほうけているような奴が織田家の役に立つとは思えぬが……」


「ご心配には及びませぬ。このお徳めが、その滝川一益という若者のねじ曲がった根性を必ずや叩き直してみせます。顔をぶん殴ってでも」


 お徳は胸の前に突き出した拳に力を入れながらそう宣言した。恒興を女手ひとつで育てただけのことはあり、なかなかの肝っ玉である。


「あははは。さすがはお徳ね。豪胆な父上(信秀)が気に入るだけのことはあるわ。信長殿、その滝川某のことはお徳に任せなさいな」


「姉上がそうおっしゃるのなら、そうします」


 姉の言うことにはたいてい従順な信長は、素直にうなずき、滝川一益登用の一件は引き続きお徳に一任することに決めるのであった。




            *   *   *




 滝川一益の話がひと段落つくと、は「あっ、そういえば」と何かを思い出したような素振りで両手をパチンと合わせた。


「信長殿には前にお話したことがありましたよね。五年ほど前に種子島たねがしまに伝わった南蛮鉄砲の噂を」


「はい。足利将軍家が近江の国友くにとも村に製造を命じているとうかがいました」


「あれから、また面白い噂話が津島港に伝わってきましたよ。将軍の足利義藤よしふじ(後の義輝よしてる)様はよほどその鉄砲にご執心なのでしょうね。京の本能寺ほんのうじという寺を介して種子島から鉄砲を取り寄せるように管領かんれい細川ほそかわ晴元はるもと様にお命じになったそうですよ」


「ほん……のう……じ……。たしか、伏見宮ふしみのみや家という皇族の出の方が住職をされている寺でしたね」


 後に信長終焉の地となる本能寺は、信長も帰依していた法華宗の寺である。


 この寺は、応仁の乱が起きる前後の時期から、近くは堺、遠くは種子島まで活発に布教活動をしていた。

 その関係で、天文十二年(一五四三)に種子島に南蛮鉄砲が伝来すると京都に鉄砲を取り寄せるためのルートを本能寺は築くことができたのである。

 また、堺の商人には本能寺の檀家だんか(寺に属し、布施ふせによって寺を経済的に支える家のこと)が多いため、堺でしか手に入らない輸入物の硝石しょうせき(火薬の材料)も本能寺ならば容易に入手できた。


 二年前に将軍に就任したばかりの足利義藤は、その本能寺を利用して鉄砲を取り寄せ、さらには国友村で製造もさせようとしているという。


「将軍義藤様は俺よりも二歳年下の十三歳らしいが、よほどの武具好きなのだろうか……」


「将軍職に就かれてまだ日が浅いので、義藤様がどのような御方なのかまでは分かりません。南蛮の鉄砲を戦で使おうとお考えなのか、武具を蒐集しゅうしゅうするご趣味があるだけなのか……。

 いずれにしても、将軍様が南蛮鉄砲に強い関心を抱かれているので、幕臣や幕府に近い諸大名たちもこの新しい武器にきっと興味を持ち始めることでしょう。南蛮鉄砲が本当に戦場で役に立つのかは私には分かりませんが、そう遠くないうちに畿内の戦場で南蛮鉄砲が使用されるはずです。

 織田家もうかうかしていられませんよ、信長殿。早い内に国友村か本能寺と接触して、南蛮鉄砲を購入できるようにしましょう」


 新しい物好きのが信長にそう助言すると、今まで黙って話を聞いていた内藤勝介が、


「とはいっても、その南蛮鉄砲とやらは本当に使い物になるのでしょうか」


 と、疑い深げに首を傾げた。

 大陸経由で伝わった中国式の鉄放は撃つのに時間がかかるし、命中率も低い。南蛮式の鉄砲も似たような物ではないのだろうか、と不安に思ったのである。


「遥か海の彼方から伝わった南蛮鉄砲は、そうとう高価なはずです。しかも、硝石など火薬の材料を堺の港から取り寄せねばなりません。ほんの少しの数を揃えるだけでも多額の出費となるのは必定ひつじょうでしょう。いくら織田家が裕福とはいえ、戦で役に立つという保証のない武器に大金を使うのはただの浪費になるのでは……」


「なによ、勝介。私の言うことに文句をつけるつもり? あなたも年をくって頭でっかちになってきたわねぇ~。南蛮鉄砲が武器として使えるかは私も分からないとさっき言ったでしょうが。大事なのは、将軍様が鉄砲に興味津々だということよ」


 が頬をぷくぅと膨らませながら勝介の肩を扇で強めにつつくと、勝介は「ど、どういうことでござるか?」とどもりながらたずねた。少女の頃から変わらず勝ち気な性格をしている主君の姫君に気圧されているようである。


 勝介の困り顔を見たは、得意気にふんぞり返って「馬鹿ねぇ、よく聞きなさいよ?」と言った。


貴賤きせん問わず、人間は同じ趣味の者に好感を持つものよ。まだ十代で無邪気な年齢の将軍様だったら、なおさらそうに決まっているわ。尾張の織田弾正忠だんじょうのちゅう家が大量に鉄砲を買いこんだという噂を将軍様が耳にしたら、『尾張の織田家とは話が合いそうだな』と親しみを覚えてくださるはずよ。

 父上の宿願は、上洛して室町将軍のまつりごとを助け、天下に静謐せいひつをもたらすこと……。将軍様の鉄砲蒐集癖は、織田家が室町幕府に接近するまたとない好機じゃないの」


 つまり、武器としての性能云々は二の次で、鉄砲好きの少年将軍と仲良くなるきっかけを作るために南蛮鉄砲をじゃんじゃん買え、ということである。


 根っからの武人である勝介にはの理論がぶっ飛んだものに聞こえ、「なるほど……よく分かりません」と困惑するしかなかった。


 しかし、家臣たちにかしずかれる立場にある信長にはよく理解できたらしく、


「たしかに、自分と同じ趣味を持った家来がいると俺もそばに置きたくなる。側近たちも、俺の趣味に合わせて能楽などをたしなんでいるな」


 と、の言葉に頷いていた。信長に気に入られる努力をしている教吉、恒興ら若い側近たちもうんうんと首を縦に振っている。


 自分だけが置いてきぼりになっているのが悔しいのか、勝介は「しかし、信長様。使えない武器を買うよりは刀剣や槍、弓矢を多く揃えたほうがよいのでは……」と食い下がる。


 だが、信長はいなと頭を振った。


「よく考えてみろ、勝介。そもそもの話、南蛮人たちはその鉄砲を実際に戦場で使っておるのであろう? ならば、何の役にも立たぬということはあるまい。何事も道具は使いようじゃ。琉球より伝わった明国式の鉄放も俺の初陣戦でそれなりに役立ったのだから、どんな未知の武器でも我らが工夫をすればよいだけのことだ。

 近い内に台所方(経理担当)の平手のじいに南蛮鉄砲の購入について相談しておこう。今は美濃攻めの準備で爺は忙しいから、戦が終わった後になるだろうが……」


 父の信秀が朝廷や室町幕府の歓心を買うために伊勢外宮の遷宮せんぐうや御所の修理に多額の銭を献上したことは信長もよく知っている。南蛮鉄砲を購入することで信秀が将軍に近づく――上洛への夢を実現する助けとなるのならば、それぐらいの出費は安いものだろう。信長はそう考え、姉の提案に乗ったのであった。


「さすがは私の可愛い弟。話が分かりますね!」


 は上機嫌で笑い、信長の肩を無遠慮にバシバシと叩く。

 信長は「痛いですよ、姉上」と言いつつ、久しぶりの姉とのたわむれを懐かしく感じていた。


 ちなみに、近々戦場に南蛮鉄砲が出現するだろうというの予見は正しく、この二年後の天文二十年(一五五〇)七月に三好みよし長慶ながよし軍と細川晴元軍の戦いで鉄砲による初めての戦死者が出ることになる。鉄砲が戦国の合戦を変える時が迫りつつあった。







<南蛮鉄砲と本能寺について>


大河ドラマ『麒麟がくる』をご覧になっている方はすでにご存知だと思いますが、京都の本能寺と鉄砲には深い関わりがありました。

将軍足利義藤(義輝)が本能寺に命じて鉄砲を集めていたことは史料でもちゃんと確認できる史実でして、管領の細川晴元は本能寺宛ての書状で、

「奔走していただいたお陰で、種子島より鉄炮がこの方に到来した。まことに悦ばしい。種子島へも手紙を出すので、届けて欲しい」(吉川弘文館刊 宇田川武久著『鉄砲と戦国合戦』より抜粋)

と、記しています。


この将軍の鉄砲蒐集趣味には石山本願寺もひと役買っていたようで、天文二十一年(一五五二)に将軍義藤(義輝)の所望を受け、石山本願寺は堺から焔硝(硝石)十斤を調達しています。


また、将軍は同じ趣味の武将には鉄砲をプレゼントしていたみたいです。

天文二十二年(一五五三)に横瀬成繁という上野国(現在の群馬県)の武将が鉄砲好きだと聞き、彼に鉄砲一挺を贈っています。


逆に、将軍に鉄砲や火薬調合書を献上して足利将軍家に接近しようとした大名もいました。南蛮と深いの繋がりのあった大友義鎮(宗麟)です。この後すぐに、大友義鎮は肥前の守護職に任命されています。


剣豪将軍と呼ばれた将軍足利義輝(義藤)の周辺では、南蛮鉄砲が流行トレンドになっていたのでしょう。

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