津島での出会い・中編

 尾張国の有力港の一つ、津島。


 信長の祖父・織田信貞のぶさだがこの港を掌握して以来、織田弾正忠だんじょうのちゅう家は津島港に集まる莫大な富のおかげで尾張随一の実力を備えるようになっていた。


「昼間の津島港には何度も来たことがあるが、夜はまた違った趣があるな。町の者たちがとても楽しそうだ」


 月が明るい夜。

 津島に到着した信長は、物珍しそうにきょろきょろと見回して、尾張国の不夜城の賑わいを楽しんでいた。


 昼間は商人たちが元気に取引をする声や物資を運ぶ人足たちのかけ声で騒がしい町であることは知っていたが、夜は夜で華やかである。酒屋からは酔っ払いたちの笑い声が絶え間なく聞こえてくるし、遊女らしき美しい女とも何度かすれ違った。


(信長様は夜遊びをしたことがないから、珍しくて仕方ないのだな)


 信長に付き従っている内藤ないとう勝介しょうすけはそう察し、幼い頃から父親によって英才教育を受けてきたこの少年のことを少し可哀想に思った。


 若殿だった頃の信秀は、父の信貞がいささか放任主義の傾向がある親だったため、同世代のはやし秀貞ひでさだや内藤勝介、青山あおやま与三右衛門よそうえもんを引き連れて津島の夜の町をよく練り歩いたものである。信秀と家臣たちが童貞を捨てたのもこの港町の遊女屋だった。


 父の信貞がまだまだ元気で家督を継ぐのは当分先だという気持ちもあり、少年期の信秀は親に甘えていたのである。信長とは違い、あまり学問に身が入らぬ若殿だった。


 ところが、頑強な体が自慢であった信貞はある日突然病に倒れ、あっけなく死んでしまったのである。翌年には母のいぬゐまで亡くなった。家督を継いだ時にはまだ十六歳の少年だった信秀は、右も左も分からぬまま織田弾正忠家を守るために国内の対抗勢力と戦わねばならなくなり、相当な苦労をした。


 嫡男の信長にはそんな辛苦を味わわせたくない。自分がいつ病に倒れても武家の棟梁とうりょうとして立派にやっていけるように厳しく育てなければ――。信秀はそう考え、信長には武芸や学問に専念させることにしたのである。一番家老の林秀貞には「信長が悪い遊びを覚えてはいけないから、夜の町にはなるべく行かせぬように」とも申し付けていた。


(だがなぁ~……。親の過保護に縛られすぎる青春というのも味気ないような気が俺はしてしまうのだ)


 信秀と不良じみた青春を過ごした勝介などは、主君の信秀には悪いがそう感じていた。親の思った通りに育った子供は、親の想像を超えた成長ができずに、凡人のまま終わってしまうのではないだろうか?


「信長様。次は、女を買うために夜の津島に来ましょう。他国から流れて来た、面白い芸を持つ女もいますから楽しいですぞ。それがしが、お目付け役の秀貞殿にばれないように取り計らいますゆえ」


「うん? ああ……。そういえば、父上から夜の町にはあまり行くなと言われていたのだった。お徳のことが心配で、うっかり来てしまったぞ。まずいな、父上に怒られる」


「少しぐらい、良いではありませぬか。信長様ももう十五歳なのですから、嫁取りをする前に色々と経験しておいてもいいでしょう。何なら、見目のよい女子おなごをそれがしが色町でみつくろって……」


「俺の初めてはかえでにくれてやると心に決めているから、それは却下だ」


 信長は楓以外の女には興味が無いらしく、勝介の誘いをあっさりと断った。勝介は(初心うぶというか、生真面目すぎるというか……)と呆れて苦笑するしかない。


 気性の烈しいところは父の信秀似だが、こういう純情一途な性格は母の春の方に似たのだろう。

 ……そして、父の気性の烈しさと母の一途な心が合わさり、「身内にとても優しく、敵と見なした者には強烈な害意を見せる」という信長のいささか極端な性格が形成されているのかも知れない。


「お殿様。なぁ~んか、さっきからどこかで悲鳴みたいな声が聞こえるのですが……。俺の気のせいでしょうか?」


 足軽の虎若とらわかが、隻眼せきがんをギョロギョロと動かして警戒ぎみにそう言った。

 この甲斐国生まれの脱走農民は、耳聡いし鼻もよく利く勘のいい男なので、信長の護衛に適していると考えて勝介が連れて来たのである。


「悲鳴だと? そんなもの私には……」


 山口やまぐち教吉のりよしがそう言いかけると、信長が手で制して「しっ。教吉のりよし、静かにしろ」と鋭い声で言った。


「俺にも聞こえた。子供の声みたいだな。脅しているような怒鳴り声も聞こえる。どうやら、町の童が何者かに襲われているようだ」


「ごろつきどもが、奉公人の子供でも虐めているのでしょうか。それとも、人さらいか……」


「いずれにしても、父上が平和を保証している津島の町でそのような悪行は許せぬ。勝介、教吉、虎若。助けに行くぞ」


 信長はそう言うや否や人混みをかきわけて声がする方角へと走り出した。


 後ろから家臣たちがついて来ているかも確かめない。飛び出したら止まらない短気さは信秀譲りである。勝介と教吉、虎若は慌てて信長の後を追った。




            *   *   *




 港町の喧騒から少し離れた薄暗い場所で、その猿顔の少年は暴行を受けていた。


 ここは、他国から流れて来たあぶれ者か町の不良ぐらいしか足を踏み入れないような危険な場所である。非力な子供が自分から入るような所ではない。主人である堀田ほった板東ばんどう大夫たゆうのお遣いで津島の市場を歩いていたところを顔見知りのごろつきたちに拉致られたのだった。


「痛い! 痛い痛い! や……やめてくれよぉ! おみゃあさんたちと俺はもう仕えているご主人が違うんだぞ。い、今の俺のご主人は津島天王てんのう社の神官・堀田板東大夫様なんじゃ! 堀田様のお屋敷の奉公人である俺をこんな目にあわせたら、おみゃあさんたちの主人に迷惑がかかるがいいのか⁉ あぐっ……!」


 暴力を振るわれながらも、小柄な猿顔の少年は気丈にもそう食ってかかっていた。


 しかし、ごろつきたちは意に介さず、暴行を続ける。


 少年は顔のど真ん中を殴られ、吹っ飛んだ。さらに、倒れたところをごろつきたちは容赦なく踏みつけきて、少年は血反吐を吐きながら「うわぁぁぁ‼」と絶叫した。非力な十二歳の子供に対して、屈強な二十歳前後の男四人がかりでは抗うどころか逃げることすらできない。


「痛い! 痛い! 誰か助けてくれぇー‼」


「うるせぇ! 黙りやがれ、この猿! 俺たちはもう奉公人じゃねぇんだよ! 無職のただのごろつきだ! クソガキの一匹や二匹、平気でなぶり殺してやらぁ!」


「俺たちはなぁ、お前のせいで店から追放されたんだよ! お前をぶち殺さなければ、気が済まねぇんだ!」


 ごろつきたちは地面に倒れ伏している少年の顔を集中的に蹴り、口々にそう罵った。もともと美形とはかけ離れた猿っぽい顔だったのに、蹴られすぎて顔が腫れ上がってしまっている。


「な……何を言っとるんじゃ! ふざけるな! 半年前、店の銭を俺が盗んだとおみゃあさんたちが前のご主人に嘘を吹き込んだせいで、俺は店から追い出されたんじゃぞ⁉ おみゃあさんたちがその後に店から追放されても、俺のせいじゃ……げふっ! がはっ⁉」


「黙れ黙れ黙れ! お前が店を去ってしばらくして、俺たちが店の銭を盗んだことがばれちまったんだよ! せっかくお前に罪を着せたのに……畜生が!」


 呆れた逆恨みだったが、ごろつきたちは少年を痛めつけなければ腹の虫がおさまらないらしい。ごろつきの一人が「殺されたくなかったら、有り金をぜんぶ寄越せ!」と脅し、少年の尻を思いきり蹴った。


「だ……駄目だ! これはご主人から預かった大事な大事な銭なんじゃ! 死んでも渡さねぇ!」


 少年は、げほっ、げほっ、と口から血を吐きながら、永楽通宝の銭が入った袋を両手でギュッと握り締める。ごろつきたちがその銭に触れようとすると、少年はそのたびに狂犬のごとく手に思いきり噛みついて抵抗するため、なかなか奪えずにいたのだった。しかし、少年も長時間に渡って暴行されて弱ってきているため、もう長くはもたないだろう。


「懸命に働いていたら道は開ける。懸命に働いていたら道は開ける。懸命に働いていたら道は開ける……」


「ああん? 何をブツブツ呟いてやがる?」


「俺たちに蹴られすぎて頭がおかしくなっちまったんだろう。もうこいつで遊ぶのも疲れたし、とっととぶち殺して銭だけいただいていこうぜ」


「そうするかぁ」


 ごろつきたちはようやく少年をいたぶることに飽きたのか、そう言い合うと、一人が少年の髪をつかんで無理やり起こして首を絞め始めた。


「ぎ……あぎぎぃ……。や、やめ……」


「ハハハハ。醜悪な猿顔が、くしゃくしゃに歪んでさらに醜くなってらぁ」


 ごろつきたちは残忍な笑みを浮かべている。


 意識が遠のきそうになる中、少年は(負けるかぁ、負けるもんかぁ……)と自分を励ましていた。銭が入った袋を一生懸命に握り締め、絶対に手放すまいとしている。


(故郷の中村にいた頃、俺は「実父に似たその猿顔が気に食わない」という理由で義父の竹阿弥ちくあみに暴力を振るわれていた。家を飛び出した後も、顔の醜さが災いして、どこの商家の奉公人になってもさんざん虐められた。我慢ができず飛び出すか、何とか辛抱しても最後には追い出された……。

 もう……今のご主人様には見捨てられるわけにはいかんのじゃ。津島天王社の神官である堀田様にまで追い出されたら、今度こそこいつらみたいなあぶれ者の仲間になるしかない。……こんなみずぼらしい俺だって、幸せになりたいんじゃ!)


 そんな必死な思いがあるからこそ、「銭は渡すから許してくれ」とはけっして命乞いしなかったのである。


 少年が胸に秘めている夢は、立派な殿様に仕えて侍大将になることだ。しかし、今の少年にはそんな高望みを抱く余裕などない。まっとうな道から外れないように必死にしがみつくことでやっとだった。


 だが、どれだけ自分を励ましても、目前に迫った「死」から逃れる力を少年は持っていない。このままでは、なされるがままなぶり殺されるしかなかった。


(も……もう……意識が……)


 目の前がだんだんと暗くなりつつある。美濃の戦場で死んだ父親の顔が脳裏をよぎる。少年は死を覚悟した。


 だが、その時――。


 暗闇の向こうから、ザッザッと足音が聞こえてきた。


「おうおうおう。なぁーにしてやがるんだ、てめぇら。寄ってたかって、ガキをいじめるとは情けねぇ奴らだぜ。タマぁついてんのか、タマは? ああーん?」


 やたらと威勢のいい男の声。酒焼けしているのか、ひどくしゃがれている。


 ごろつきたちが驚いて振り向くと、二十代半ばぐらいの若者が仁王立ちしていた。町の不良どもとほとんど変わらぬ人相の悪さだが、両眼からはやたらとギラギラとした光を放っている。


「な、何だ、お前は! 怪しい奴め!」


「はぁ~? 馬鹿か、てめぇら。ガキをなぶり殺そうとしているてめぇらのほうが不審者だろうが。笑わせんな」


「ふ、ふんどし一丁のお前のほうが不審者に決まっているだろう!」


 ごろつきたちが動揺していたのは、その人相悪めの若者がほぼ全裸だったからである。かゆいのか、さっきから股間のあたりをボリボリと掻いている。


「うっせーわ! 天下の往来をふんどし一丁で歩く罪と、非力なガキを多人数で暴行する罪、どっちが重いかお天道てんとう様に聞かずとも分かる道理だろうが! てめぇらみたいな汚物はこの滝川一益様が成敗してやらぁ!」


 ふんどし一丁の若者はそう啖呵たんかを切ると、疾風の速さでごろつきの一人の間合いに入り込み、金玉よ潰れろとばかりに思いきり股間を蹴った。


「あぎゃぁぁぁ⁉」


 股間蹴りを喰らったごろつきは口から泡を吹き、その場にドッと倒れる。

「な、なんて野郎だ!」と仲間のごろつきたち三人は驚愕した。その技の素早さ、えげつなさの両方に驚いているのである。


 若者はニタァと下卑た笑みを浮かべ、「次はてめぇらの番だ」と宣言した。


「甲賀忍法‼ 乱れタマ潰し‼」


「ひぎゃぁぁぁ‼」


「ふがぁぁぁぁ‼」


「あびゃぁぁぁ⁉」


 若者はふんどしをはためかせ、目にも止まらぬ電光石火の動きで残りのごろつきたちにも股間蹴りを喰らわせていった。


 すぐ近くまで来ていた信長は、月夜の津島港に響き渡る複数のけたたましい悲鳴を耳にし、「何だ? 何が起きているんだ?」と困惑していた。

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