五章 濃尾参州燃ゆ

津島での出会い・前編

 天文十七年(一五四八)早春。信長は十五歳になっていた。


 父の織田信秀は、昨年の冬から美濃攻めの準備に忙しく、知恵袋の平手ひらて政秀まさひで古渡ふるわたり城(信秀の居城)に呼び寄せて作戦を日夜練っている。


 美濃攻めから外された信長は、軍議に加わることもなく蚊帳の外だった。しかし、


「することもなくて暇だ。家臣を連れて熱田か津島の町に遊びに行こう」


 とならないのが生真面目な信長である。毎日のように兵法(剣術)の師匠である平田ひらた三位さんみや弓術の師匠の市川いちかわ大介だいすけ那古野なごやの城に招き、鍛錬を積むことに余念が無かった。


「の……信長様ぁ~……。そ、そろそろ休憩させてください。もう限界です」


 ここ数日間、剣の稽古にずっと付き合わされている佐久間さくま信盛のぶもりが涙声でそう訴えた。


 しかし、信長は「まだまだ! こんなものでは足りぬ!」と言い、木刀を振るう手を止めない。信盛は「ひゃぁ~!」と女みたいな悲鳴を上げながら信長の横払いの一撃をぎりぎりでかわした。


「信盛殿! そんなへっぴり腰では名も無き雑兵に首を獲られてしまいますぞ! ほれ、腰! 腰!」


「い、痛い! 平田殿、木刀で腰を叩かないでくだされぇ~!」


 尾張で名の知れた兵法家である平田三位は、苛烈に斬り込んで敵を圧倒する戦術を得意とする男である。だから、その指導も非常に厳しかった。


「わ……私はもう無理です。勘弁してくだされ。山口やまぐち教吉のりよし殿が鳴海なるみ城から帰って来たのだから、教吉殿に稽古のお相手をさせればよいではありませぬか」


「教吉は昨年の戦で重傷を負い、年明けまで父親の教継のりつぐの領地で療養していたのだ。傷が癒えたばかりの大事な家来に無理はさせられぬ。さあ、もう一試合いくぞ!」


「ひ、ひぃ~‼」


「こら、信盛! 逃げるな!」




            *   *   *




「まったく……。信盛と剣の稽古は二度としないぞ。あいつめ、逃げてばかりで稽古にならぬ」


 その日の夕刻。

 信長は穏やかな西日が差しこむ縁先に胡坐をかき、手拭てぬぐいで首筋の汗を拭きながらそうぼやいていた。側近の山口教吉が水の入ったお椀を差し出すと、それを受け取ってぐいっと飲み干す。井戸から汲んだ冷たい水なので、火照っている体にはちょうどいい心地良さである。


 ねぐらへと帰り急ぐ烏たちの鳴き声に混ざり、城門前にいる兵たちの「えい!」「おう!」「やあ!」という掛け声が聞こえてきた。美濃攻めが近いため、四番家老の内藤ないとう勝介しょうすけが信長直属の足軽衆を鍛えているのだろう。勝介は信長付きの家老だが、信秀の命で那古野なごや城の兵の一部を率いて美濃に従軍することが決まっている。


(俺の手勢は戦場に行くのに、俺自身は留守番なのか)


 そう不満には思うものの、尊敬する父の命令は絶対である。だから、初陣での失敗を美濃攻めで取り戻すことができぬこの悔しさは、肉体が疲れ果てるまで剣の稽古や弓術の稽古をすることで何とか紛らわせようとしていたのだった。


 側近たちの中でも一番気が利いた家臣である教吉には、信長のそんな気持ちが理解できるのだろう。わざと明るい声を出して、


「明日からは私がお相手いたしましょう。もう、背中の矢傷は痛みませんので」


 と、稽古の相手を申し出た。


 しかし、信長には、教吉は鳴海城主の山口教継から預かっている山口家の大事な嫡男である、という遠慮が少しあるらしい。あと一か月ぐらいは無理をするな、と言った。


「数日内に恒興つねおきが帰国すると思うから、あいつに付き合わせる。恒興は謹慎中に剣術の稽古が疎かになっていたからな。俺が鍛え直してやらねばならん」


「ああ、そうでしたか。今、恒興殿はお徳様のお供で甲賀に行っているのでしたね」


 信長の乳兄弟である池田恒興は、信長が初陣したおりに家老・はやし秀貞ひでさだの馬を盗み、無断で出陣した。そのため命令違反等の罪で謹慎処分になっていたのだが、年明け早々にその処分も解かれて復帰していた。


 そして、近江国の甲賀こうが郡に用があるという母親のお徳(信長の乳母。信秀の側室)に従い、尾張国を留守にしていたのである。


「うむ。何でも池田家の縁者で見どころのある男がいるらしい。その者を俺の家来に招くべく、甲賀に向かったそうだ。……すんなりとその者を登用できていたのなら、そろそろ尾張の領内に戻ったことを報せるふみが届くはずだ」


 信長が空になったお椀を教吉に渡しながらそう言うと、噂をすれば影というやつで、一通の書状を携えた近習がやって来て「殿、恒興様からの文でございます」と報告した。


「おう、来た来た」


 信長も乳母と弟分の恒興が城にいなくて寂しかったのだろう。喜色を浮かべて書状を受け取り、恒興の手紙を読み始めた。


 しかし、二、三行読んだあたりで信長の表情がだんだんと曇り始めたため、教吉は心配になって「いかがなさいましたか?」と問うた。


「……昨日の夕方、強い雨が降っただろう。その頃にはお徳と恒興は津島港にたどり着いていたらしいが、お徳がぬかるみで足を滑らせて転んだらしい」


「なんと。それは災難な……」


「腰を痛めて動けぬゆえ、姉上の嫁ぎ先である大橋おおはし重長しげなが殿の屋敷で養生しているそうだ」


「池田家の縁者だという甲賀の武士とは一緒なのでしょうか?」


「そのことについては何も書いておらぬ。恒興はおっちょこちょいな奴だからな。母親が怪我をしてよほど慌てたのか、お徳の容態しか記していない」


「はぁ……。恒興殿も元服を済ませたというのに、まだまだ頼りないですなぁ」


「いずれにしても、恒興一人でお徳を連れて帰るのは大変だろう。俺が迎えに行ってやらねば」


 信長はすっくと立ち上がると、「これから行って来る」と言った。思い立ったらすぐに行動しないと気が済まない性格は、父親の信秀譲りである。


「え? もう日が暮れますが……。どうせ今から出立しても津島で一泊することになりますし、明日の早朝にお発ちになればよろしいのでは?」


 教吉がちょっと驚いてそう引き止めようとすると、信長は「気になる」と一言だけ短く言い、うまやへと駆けて行った。


 言葉を縮めてしまう癖がある信長は、気が立っていたり慌てていたりすると、余計に言葉を省略しやすい。こういう場合、信長の性格や気持ちをよく心得た家来がその意味を正しく解釈して動かねばならないのである。


(「気になる」……というのは、「お徳様は信長様の乳母であり父君の側室でもある大事な存在だから、怪我の具合はどうなのか気になる。すぐにでも津島に行き、お徳様を見舞いたい」ということか。なるほど、お優しい信長様らしい)


 頭の回転が速い教吉はすぐにそう察すると、「私もお供いたします」と言って信長を追いかけた。


 若い側近たちの中で信長の「言葉の省略癖」に精通しているのは、意外にも外様とざま武将の息子である教吉だったりする。信長と一番付き合いが長いのは乳兄弟の恒興だが、恒興はぼんやりとしているところがあるので主人の言葉をうっかり聞き漏らすことがわりとあるのである。


「あっ、信長様。こんな時間からどちらへ行かれるのです」


「おう、勝介。ちょっと津島まで。お徳が動けぬのだ」


「え? お徳殿がなんと? ああ……! 信長様ぁ!」


 城門で兵の訓練を終えたばかりの内藤勝介と鉢合わせした信長は、雑な説明をすると、愛馬に鞭打って津島方面へと駆け去っていった。勝介が「お徳殿がどうかしたのですか、信長様ぁー!」と怒鳴っても戻って来ない。


「内藤様」


「おおっ、教吉。信長様はあんなにも慌ててどうなさったのだ」


 信長を追いかけてきた教吉がちょうど城門に現れたので、勝介はそう問いただした。そして、かくかくしかじかと教吉に説明されると、


「そういうことならば、拙者も供をしよう。お徳殿は信秀様のご側室ゆえ、万が一のことがあってはならぬ。虎若とらわか、馬引けっ!」


 たまたま近くにいた足軽の虎若にそう命令し、勝介も信長の後を追うのであった。


 この夜、津島において、信長は後に織田家の重臣となる二人の男――秀吉と滝川一益に出会うことになる。








<天文十七年の日本全国のおおまかな動向>


今回から尾張青雲編五章「濃尾参州燃ゆ」の開始です。この五章では、天文十七年(一五四八)に行われた織田VS今川の小豆坂合戦、織田VS斎藤の大垣城攻防を中心にお話を進めていく予定です。

というわけで、尾張の織田信秀が今川義元・斎藤利政(道三)と戦っていた天文十七年に他の国々はどうなっていたかおおまかに紹介させていただきたいと思います。


・甲斐国では、国主である武田晴信(信玄)が北信濃の村上義清に敗北し、宿老の板垣信方・甘利虎泰を失っています。


・陸奥国では、およそ七年に渡って繰り広げられた伊達家の内紛「天文の乱」がようやく終結。伊達氏十四代当主・稙宗(伊達政宗の曾祖父)が隠居し、嫡男の晴宗(伊達政宗の祖父)が十五代当主に就任。


・そして、この年の末には長尾景虎(後の上杉謙信)が守護代長尾家を相続して春日山城に入城。越後国の守護代の座についています。


あと、この年には徳川四天王の二人・本多忠勝と榊原康政や斎藤道三の孫・斎藤龍興が生まれています。女性では、伊達政宗のお母さんの義姫(最上義光の妹)も出生しているようです。つまり、この四人は同い年ということですな。

ちなみに、前田利家の奥さんのまつは前年の天文十六年(一五四七)生まれです。


戦国英傑の親世代(信秀や道三)たちの活躍がそろそろ終盤にさしかかってきたこの頃には、次世代を担う人材が産声をあげていたわけですね。


というわけで、織田信秀にとって戦人生のクライマックスとなる天文十七年の二大決戦を描く「五章 濃尾参州燃ゆ」開幕です!

途中で頭痛と鼻血でぶっ倒れない程度に頑張りたいと思いますので、皆様応援よろしくお願いいたします!!m(__)m




あっ、ちなみに登場人物辞典みたいなものも作ったのでよかったらぜひ↓

『天の道を翔る・尾張青雲編』登場人物辞典(https://kakuyomu.jp/works/1177354054893974233

尾張国編まで書いて現在集中連載中です。美濃編や駿河・遠江編も作る暇ができたら執筆したいと思います。

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