つかの間の睦み合い

 年の瀬のある日――。


 織田家が斎藤・今川を相手に激闘を繰り広げる天文十七年(一五四八)が、あと数日で始まろうとしていた。


 そんな中、この物語の主人公である織田信長は――本人にとっても不本意なことではあるが――この歴史の激流を眼前にしながらも目立った活躍ができない運命にある。


 史書には、信長が天文十七年の「対今川の小豆坂あずきざか合戦」「対斎藤の大柿おおがき城救援戦」に参陣したという記録が一切無いのだ。


「父上に『来春の美濃攻めに加わりたい』と懇願したが、駄目だと言われた。初陣での失敗を取り返したかったのに……」


 信長は、かえでの膝を枕にしながら寝転び、さっきから愚痴を言っていた。


 生駒いこま屋敷を訪れるのは久しぶりである。なるべく頻繁に通うと約束していたのだが、竹千代たけちよの誘拐事件や土岐とき頼純よりずみの暗殺事件など変事が次々起きて忙しかったため、なかなか遊びに来ることができなかったのだ。


「嫡男である信長殿が留守を預かっているからこそ、お父上も安心していくさに行けるのではありませんか? そんな不服そうな顔をしたらいけませんよ」


 楓は信長の髪を愛おしそうに撫でながら、やんわりとそう言う。楓のほうが年下なのに、まるで弟を優しく叱っているようである。そのお姉さんぶった態度が、信長には少し心地が良かった。楓の言動は、幼い頃に慕っていた姉の――お転婆娘だった彼女のことを思い出させてくれるのである。


斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)は、我が三番家老・青山あおやま与三右衛門よそうえもんの仇なのだ。利政をこの手で討ち、奴の首を与三右衛門の墓前に供えてやりたい……。前々から俺は父上にそう言っていたのだぞ? それなのに留守番だなんて、ひどすぎる」


 拗ねたような口調でそう言い、信長は楓の可愛らしい尻をさわさわと撫でた。信長が尻を撫でるのは、楓に甘えたがっている合図である。


「私は信長殿が留守居役で嬉しいです。だって、信長殿が暇なほうがこの屋敷に来てくれる回数が増えるもの。男の人は忙しいと、愛する殿方の訪れを待っている女のことなんてすぐに忘れるのだから嫌になっちゃう……」


「お前のことを忘れたことなど、一瞬たりとも無い。俺もずっと逢いたくて逢いたくて、寂しさで胸が張り裂けそうだった」


「……本当?」


「ああ、まことだ。この言葉が嘘ならば、俺は今夜ここで食う飯で腹を壊して三日三晩苦しむ天罰を受けるであろう」


「ウフフ……。そんな優しい天罰ではダメですよ。一か月は苦しんでもらわなくちゃ」


 楓は上品に笑いながら、信長のひたいに柔らかな唇をあてる。額に接吻せっぷんをされた信長は、楓にしか見せない優しげな笑顔になった。


(信長殿の笑顔って、とても素敵。……でも、どこか寂しげなのが気になるわ)


 楓は信長に微笑み返しながら、心の中でそう呟く。


 武家の棟梁の嫡男というのは、母親や他の兄弟とは離されて育ち、家臣たちに囲まれて成長するものだ。だから、信長は母親の愛情を十分に受けずに幼少期を過ごした。けっして口には出さないが、この人はきっと愛情に飢えているのだろう……。


(信長殿の心にポッカリと開いた穴を、私が埋めてあげたい)


 そう思いながら、楓は信長の額に再び接吻をした。


 信長は我慢ができなくなったのか身を起こし、楓の口を吸った。


 前回は拒否した楓も、今日は拒まなかった。


 しばらくの間、二人は小鳥がついばむように口づけを交わす。初めて味わう口吸いの甘酸っぱさに、信長は頭の奥が痺れるような感覚に襲われた。


 次に信長は楓の未成熟な胸に手を伸ばしかけたが、


(これより先は、楓を妻に迎えてからにせねば)


 と、途中で思い止まって、優しく抱きしめるだけにした。


 あまり楓に触れすぎると、理性を抑えきれず最後までいってしまいそうだと考えたからである。


 信長は、楓と口吸い以上の行為に及ぶつもりは今のところ無い。

 どうも体があまり強くないらしい楓のことを気遣い、彼女がもう少し大人になるまでは男女の関係を持つのは我慢しようと信長は自制していたのだった。




            *   *   *




「信長様、楓様。夕餉ゆうげのお仕度ができましたぁ~!」


 締め切った部屋の外から中年女の太めの声が響き、抱擁を交わしていた信長と楓は驚いてビクッと飛び上がった。楓の侍女であるお勝が食事を運んで来たらしい。二人は急いで離れ、居住まいを正す。


「き……今日の夕餉は鳥肉のあつもの(吸い物)か。うむ、なかなか美味いな。美味い、美味い」


 まだうぶな少年である信長は、楓とむつみ合っていたところを侍女に危うく目撃されかけたことを気まずく思い、目の前に並べられた膳にすぐ手を出してパクパクと食べ始めた。


「珍しい味の鳥肉だな。いったい何の鳥……げほっ! ごほっ!」


「大丈夫ですか、信長様? 慌てて食べるから喉を詰まらせてしまうのです。落ち着いて召し上がってください」


 お勝がそう注意すると、信長は楓に背中をさすられながら「だ……大丈夫だ……」と答えた。


「……そういえば、鳥肉で思い出した。例の黒鶫くろつぐみという鳥は元気か? 季忠すえただの話によると、他の鳥の鳴き声を真似る珍しい鳥だそうだが」


 信長は、竹千代が受け取りを拒否して、自分も飼うのを諦めたあの珍鳥のことをふと思い出し、そう言った。


 病気がちな楓が屋敷で寝ている時のなぐさめになればと思い、信長が千秋せんしゅう季忠に命じて生駒屋敷に送らせたのだが、どうも屋敷内のどこにもいない様子なので気になったのである。


「黒鶫……ですか?」


 楓とお勝はキョトンとした表情で首を傾げた。二人の視線は、信長が手に持っているお椀に注がれている。


「黒鶫なら、信長殿が今召し上がっているではありませんか」


「おお、なるほど。この鳥肉料理がくろつぐ……へ?」


 信長はちょっと青ざめた顔になり、お椀の中の鳥肉を見つめた。


「ち……ちょっと待て。なぜ調理した?」


「え? 季忠殿のふみには、『お体の弱い楓殿が元気になってくれることを願い、信長様がこの鳥を贈るようにお命じになりました』と書いてありましたから。鳥肉を食べて精力をつけろ、という意味ですよね?」


 楓は黒鶫の羹を美味しそうに吸いながら、そう答える。どうやら、季忠の言葉足らずな手紙のせいでとんでもない誤解が生じてしまったらしい。


「信長殿が来てくださった時に一緒に食べようと思って、ずっと調理せずに待っていたのですよ。お味を気に入ってもらえて、嬉しいです」


 ニッコリ、と楓は幸せそうに微笑む。

 楓が満足して喜んでいるのに、「違う、そうじゃない」と怒ることもできない。


「そ……そうだな。俺も黒鶫の羹を楓と一緒に食べられて幸せだ。……ところで、黒鶫はどんなふうに鳴いていた?」


 黒鶫の鳴き声を聞くのを楽しみにしていた信長は、未練がましくそうたずねた。楓はあごに指を添えながら「ええとぉ~……」と思い出そうとする。


「いちげき、にゅうこーん(一撃入魂)? でしたっけ?」


「それは季忠が戦闘中に気合を入れる時の雄叫び声だ。黒鶫が人の声真似をするとは聞いていないぞ」


「でも、そんな感じでさえずっていましたよ? 季忠殿の屋敷に長らくいたから、薙刀の稽古をしている季忠殿の声を鳥の仲間の声だと勘違いしたのではありませんか?」


「そんな雄叫び声をあげる鳥がいてたまるかよ……」


 どうせ「食用の鳥」と思っていたからろくに鳴き声も聞いていなかったのだろうなぁ、と信長は内心ブツブツ呟きながら、黒鶫の羹を完食した。


(大切な相手に大事な贈り物をする時は、他人任せにするべきではないな……)


 はるか後年に武田信玄が信長からの贈り物の心配りの細やかさを家臣たちに大絶賛することになるのだが、この日に得た教訓が活かされていたとかいなかったとか……。






            ~五章へとつづく~







※これにて尾張青雲編四章は終了です。次章でやっと明智光秀ががががが!! 麒麟がくるーーーっ!!(ノД`)・゜・。

次の五章では、

「ミッチー(光秀)との遭遇」

「敵か味方か六角氏登場の巻」

「二回あったという説と一回だけだったという説がある小豆坂合戦」

「信秀パパ最後の輝き、道三との大決戦」

といった内容でお送りする予定です。なお、あくまで予定は未定なので変更される可能性もあるのでご了承ください。


章の終わりごとに毎回しばしのお休みをいただいていますが、今回も新作執筆のため連載をお休みさせていただきます。(あと、信長関連の史料の読み込みもしないといけないし……(^_^;))

3月ごろには連載開始したいと思っています。新作執筆で疲弊してぶっ倒れた場合は、再開がちょっと遅くなるかもしれませんが(汗)


春(3月?)スタート予定の尾張青雲編五章もどうぞよろしくお願いいたします!!m(__)m

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