死へと誘う愛

 斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)は、主君の土岐とき頼芸よりのりを拉致するように守護館から連れ出すと、氏家うじいえ直元なおもと卜全ぼくぜん)の軍勢と共に出陣し、船伏山ふなぶせやま西方の山麓(古墳時代後期の日野古墳があるあたり)に兵を潜ませた。獲物頼純が長良川を渡って来るまで、ここでじっと待つのである。


「ほ……本当に討つのですか、帰蝶きちょうの夫である頼純よりずみ様を……。このような非道は、天の道から外れています。父上は天道が恐ろしくはないのですか……」


 生母の深芳野みよしのに尻を叩かれて出陣した新九郎しんくろう(後の斎藤義龍よしたつ)は、いまだに納得がいかず、大樹にもたれながら徳利の酒をがぶ飲みしている利政にそう言った。薬の副作用で高熱はなおも続いているというのに、豪胆な男である。


「フン……くだらん。天道の罰などあるものか。天が人の悪事を罰するというのなら、この俺はとうの昔に滅びておるわい。斎藤利政という男こそが、この世には神も仏も無いという何よりもの証よ」


 悪だくみが面白いほど順調にいっていて、気分がよいのだろう。普段ならば新九郎が何か意見しても口をきくことがない利政が、嘲笑しながらも会話に応じていた。


 ただし、父のその大胆不敵な返答に、新九郎は、


(天の怒りすら意に介さぬとは、心底恐ろしいお人だ……)


 と、震えるばかりである。


「人を愛する心。信じる心。哀れむ心。そんなものは、この戦国の世を生き抜くためには全て余分なものだ。おのれの足枷あしかせにしかならぬ。捨てて、捨てて、捨てて……弱い心を捨てきってこそ、乱世に覇を唱える強者となれるのじゃ。

 新九郎よ。父に認めて欲しければ、お前の心の中にある甘さを全て捨てろ。お前のその優しさは、この乱れた世においては何の意味も持たぬぞ」


「…………」


 父に愛されたい。幼い頃からそう強く願ってきた新九郎に、この男は愛する心を捨てろと言う。どこまで行ってもすれ違うしかないのだ、俺と父上は……と新九郎は絶望的な思いにとらわれていた。


(ああ……。なぜ俺はこんな恐ろしい人の子供に生まれてきたのだ。……だが、一番不幸なのは帰蝶であろうな。蝶よ花よと育ててくれていた父親の正体をあの子は知らず、これから最愛の父に裏切られるのだから――)


 長嘆息をしながら、新九郎は天を仰ぐ。


 東の空が白み出してきた。


 間もなく、夜が明ける。土岐頼純最後の一日が始まる……。




            *   *   *




 小見おみの方が遣わした使者が大桑おおが城に到着したのは、まだ空が薄暗い時間帯であった。


 稲葉山いなばやま城から急報が入ったと家臣の羽田仁左衛門にざえもんから知らされた頼純は、寝間着姿のまま使者と面会した。


「何? しゅうと殿が明日をも知れぬ重病だと……?」


 使者の話によると、利政は大桑城から帰還してすぐに倒れ、高熱と激しい咳にもがき苦しんでいるという。


「帰蝶とまったく同じ症状だ。そういえば、お帰りになる時に嫌な感じの咳をされていたな。帰蝶の病がうつってしまわれたか……」


「利政様は、『死に目に娘と婿むこ殿に会いたい』とうわ言のように何度も仰っています。何とぞ、稲葉山城へ急ぎお越しくださいませ」


 小見の方の使者は、涙ながらにそう懇願した。


 この使者は、利政の陰謀を知らない小見の方が遣わした家臣なので、頼純をだまそうと演技をしているわけでは無い。心の底から、死が迫りつつある主君と帰蝶姫を死に目に会わせてやりたいと思っている。だから、頼純と仁左衛門もこの使者の真心が伝わり、


(我らをあざむいているという気配は無いようだ。本当に、あのまむしが死にかけているのか……)


 と、疑いよりも「あの蝮が死ぬかも知れない」という衝撃に心を激しく揺すぶられていた。


「ち……父上がご危篤きとくなのですか⁉ そ、そんな……!」


 悲痛な声とともに、帰蝶が部屋に入って来た。侍女の深雪みゆきも一緒である。


 まだ子供みたいなところがあるこの姫は、父の城から急ぎの使者が来たと知って、何の話だろうと盗み聞きをしていたのである。


「落ち着け、帰蝶。まだ亡くなると決まったわけでは……」


「どうしよう……。どうしよう、深雪! 父上が死んじゃう! きっと、私を看病したせいだわ!」


 深雪にすがりつき、帰蝶は号泣しだした。


 深雪は帰蝶を抱きしめると、頼純に視線を向け、


「頼純様、お願いいたします。どうか、姫様をお父君の元まで……。これが今生の別れになるかも知れません」


 と、わなわなと震える声でそう懇願した。


 帰蝶に父親の最期を看取らせてやりたいと思ってそう言ったのだろうが、どこか様子がおかしい。頼純を見つめる彼女の瞳には仄暗い影が差しており、迷いや怯えなどといった負の感情がグルグルと渦巻いているように見える。


 だが、まさかこの気弱な少女が自分を謀殺する企ての片棒を担がされているとは、頼純も想像できるはずがない。深雪が何やら変だと感じはしたものの、それは当然のことであろうとすぐに思い直した。


 帰蝶の話では、深雪は、利政のために奮闘して死んだ武将の遺児だという。一族がことごとく死んで孤児となった深雪は、利政によって身内同然に育てられたそうだ。だから、深雪が父親代わりである利政のことを心配してひどく動揺しても、それは何の不思議もないはずだ。


「うむ……。そうだな。今すぐ出かける準備をするか」


 しばしの逡巡の跡、頼純は静かにそう言ってうなずいた。


 ――まむしの罠にだけは、よくよくお気をつけくだされ。


 朝倉あさくら宗滴そうてき快川かいせん紹喜じょうきの忠告が脳裏をよぎりはしたが、(これは、やむを得ないことだ)と頼純はおのれに言い聞かせていた。


 今の頼純の心の大半を占めているのは、


「帰蝶を幸せにしてやりたい。泣かせたくない」


 という想いである。幼妻への強い愛情が、頼純が本来持っていた危機意識を麻痺させてしまっていたと言っていい。


 自分自身でも気づいていないことだが、「帰蝶のためなら、私は死んでもいい」とさえ、この青年は無意識に考えていたのである。


 もしかしたら蝮の罠かも知れないという恐怖よりも、帰蝶が望むことの全てを叶えてやりたいという欲求のほうが勝っていたのだ。帰蝶が泣きながら父の死に目に会いたいと願うのならば、頼純には稲葉山城へ行かないという選択肢は無いのである。


(……それに、いくら権謀術数に長けた舅殿でも、愛娘を利用してまで私を殺そうとはしないはずだ。斎藤利政という人物は、家族への愛情の強さだけは人後に落ちぬ)


 利政は家族思いである、という虚像を利政本人によって植えつけられてしまっている頼純は、「斎藤利政が持つ人としての良心」などというこの世には存在しない物を信じてしまっていた。


「殿、お言葉ですが……。朝倉軍が美濃の北部に侵攻したという噂が流れ、国内に緊張が走っている今、不用意に稲葉山城へ赴くのは剣呑けんのんなのではないでしょうか」


 あまりにも簡単に利政の見舞いへ行くことを決めた若い主君を不安に思い、羽田仁左衛門が帰蝶に気兼ねしつつもそう言った。


 大桑城にも、朝倉勢が美濃本巣もとす郡の村々を襲っているらしいという情報は伝わっている。母の実家である朝倉家は頼純にとっては最大の後ろ盾だ。朝倉家が美濃を攻撃すれば、美濃守護の土岐頼芸よりのりや守護代の利政は、「頼純が朝倉家と密かに連絡を取り合って挙兵しようとしているのでは?」と疑う可能性がある。


 なぜ朝倉家が美濃にいる頼純の立場を悪くするような行動に出たのか、今のところは不明である。朝倉宗滴に存念を問いただす手紙を先日送ったが、まだ返事は返ってきていない。


 朝倉軍の美濃侵攻の真偽や宗滴の思惑、そして、頼芸や利政がこの一件に関してどのように考えているのか……などよく分かっていないことだらけである。


 呑気に稲葉山城へ行ったら、「頼純様は朝倉軍の侵攻と何らかの関わりがあるのではないか」と詰問され、窮地に追い込まれかねない。仁左衛門はそのような危険性があることを考えたうえで、頼純を諌めたのだった。


「……仁左衛門の心配も最もだが、舅殿は瀕死の病で朝倉軍どころではないだろう。また、我が叔父・頼芸は愚鈍で私を陥れる謀計を思いつくほどの頭はない。朝倉軍のことで私が責められるようなことはあるまい」


「そう……だといいのですが。しかし、どうしても行かれるというのならば、護衛は多めに連れて行ってください。美濃国内は、長年続いた内乱で治安が悪化し、野盗が多いですから」


「あい分かった。……では、帰蝶。共に舅殿の見舞いへ参ろう」


 頼純はそう言うと、まだぐすんぐすんと泣いていた帰蝶の頬を優しく撫でた。帰蝶は潤んだ瞳で心優しい夫を見つめ、頼純の温かな手にそっと自分の細い手を重ねた。


「ありがとうございます……。頼純様は、私の光の君です。大好き……」


 深雪は、互いに想い合う帰蝶と頼純を悲しげな眼差しで見ている。


 私はこんな素敵なご夫婦を悲劇の道へといざなうのか、と身が裂けるほどの罪悪感に苦しんでいたのであった。

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