竹千代誘拐・後編

 話は少しだけ時間をさかのぼる。


 竹千代たけちよ誘拐事件が起きたその夜、世話係の山口やまぐち孫八郎まごはちろう松平まつだいら家の侍たちと激しい口論をしていた。


 事の発端は、夕餉ゆうげに出された竹千代の膳の数や飯の量があからさまに少なかったことである。

 よくよく考えてみたら、二日ほど前からちょっとずつ竹千代の食事が減らされていたような気がする。これはわざとに違いない。そう考えた松平家の侍たちは激怒して、孫八郎を竹千代の部屋に呼びつけた。


「孫八郎殿! 若君のお食事はたったこれだけなのか⁉」


「熱田港の大長者たる加藤家が客人に出す膳をケチるなど、世間の物笑いの種になりまするぞ!」


「我ら三河武士を侮っておるのか!」


 松平家の侍たちが口々に吠え、気の早い者などはすでに刀の柄に手を伸ばしていた。


 血の気が多すぎる。松平まつだいら広忠ひろただが彼ら三河武士たちの扱いに困り果てているのもうなずける喧嘩っ早さだった。


 孫八郎は、三河武士たちの野獣のごとき凶暴さに驚いたが、腕に覚えはあるほうなのでさほど怯まない。フンと鼻で笑い、「なんと野蛮な。三河武士とは、礼儀正しい我ら尾張武士とはまったく違いますな。野犬に等しき獰猛どうもうぶりよ」と逆に挑発した。


「な、何だと⁉ こやつめ、叩き斬ってやるッ!」


「落ち着くのだ、そなたたち!」


 いきなり刃傷沙汰になりかけて、六歳の竹千代が慌てて家臣たちを止めた。


 相手の言い分も聞かずに問答無用で斬りかかろうとするとは、なんという猪武者たちであろうか。どうやら、父の広忠は、三河武士たちの中でも特に気性の荒い者たちを竹千代の護衛につけてしまったようだ。


 松平広忠は人を見る目がない。人選をいつも誤る。和を結ぶべき相手、戦うべき相手を読み間違えて、現在の苦しい状況に陥ってしまっただけのことはある。


 こんな火の玉のような武者どもに守られていたら逆に命を縮めてしまいそうだ、と竹千代は胃が痛くなった。


 三河武士たちはやたらと誇りが高く、好戦的で、扱いが難しすぎて本当に困る。なぜ私は三河の若様に生まれてしまったのだ……。


「孫八郎殿。家来たちが失礼いたした」


 家臣たちが渋々ながらも刀から手を離したのを見届けると、竹千代は孫八郎に頭を下げて丁寧に謝った。


 だが、食事の量をこっそり減らされていたことに関しては竹千代も実は少し根に持っていたらしく、頭を上げると「されど……」と言いながら孫八郎をキッと睨んだ。


「私への待遇が変わった理由は、ぜひとも教えて頂きたい。私は人質ではあるが、織田家の客人という形でここにいるのだ。何故なにゆえ、松平家の嫡男たる私に対して礼を失するような真似をなさった。返答次第によっては、『織田家の私への待遇は、大名家の嫡子に対する礼に著しく欠けている』と我が父・広忠に報告せねばならないが、いかがか」


 六歳の幼児の口から出たとは思えない脅し文句だった。少しどころか、そうとう根に持っていたようだ。食い物の恨みは恐ろしいのである。そして、竹千代にも、負けず嫌いな三河武士の血が確実に流れていた(本人にはまだその自覚がないようだが……)。


 だが、しょせん六歳は六歳である。自分の置かれた立場を完全には理解していない。織田家の陪臣ばいしん(家臣の家臣)に過ぎない孫八郎ごとき軽輩の者は、三河の大名の嫡男たる竹千代が一言叱責すれば恐れ畏まるだろうなどと簡単に考えていた。


 しかし、孫八郎は眉一つ動かさず、


「竹千代殿。そこまでおっしゃるのならば、こちらもハッキリと申し上げましょう。拙者は、あなたの子供とは思えぬ口達者さ、小賢しさが気に入らぬのです」


 と、ずけずけと言ったのであった。


 まさか反論されるとは思っていなかった竹千代は、「えっ」と小さく驚きの声を上げる。


「あなたは、我らが篤く信仰している熱田神宮あつたじんぐう大宮司だいぐうじ殿からの贈り物である黒鶫くろつぐみを不要なものだと言って受け取らなかった。内心では気に入らなくても、『大変結構なものを頂戴してありがたい』と感謝の言葉を述べ、大人しく受け取るのが礼儀ではありませぬか。しかも、大宮司殿があなたのためにわざわざ取り寄せた小鳥を陰で散々こき下ろす陰険っぷり……。

 あなたはたしかに客人だが、実質はただの人質だ。いくら幼い子供でも、身のほどをわきまえられよ」


 孫八郎はよほど竹千代のことを小憎らしいガキだと思っているのか、松平家の侍たちがいまだに悪鬼の形相で自分を睨んでいるのも構わずに、辛辣にそう言い放った。


(家臣たちとの会話を盗み聞きされていたのか……)


 竹千代は自分の迂闊さに気づき、幼い顔を歪めた。


 父を脅して屈伏させた織田家への反発心から、織田方の人間たちはみんな敵だという憎悪の念が竹千代の心を支配していた。だから、自分のことを気遣って小鳥を贈ろうとしてくれた千秋せんしゅう季忠すえただにも、あのようなツンケンとした態度を取ってしまったのだ。「黒鶫は大将が飼うにはふさわしくない鳥だ」などというのは、家臣たちに言いわけするために後で考えた屁理屈にすぎない。


 しかし、そんな竹千代のかたくなな振る舞いが孫八郎の憎しみを買い、自らを不利にしてしまう原因となってしまったのだ。


(たしかに、私は織田家に命運を握られている人質だ。たとえ子供でも、おのれの感情を抑えることができなかったら、自分の首を絞めてしまうのか……。なんと生きにくい世の中なのだ)


 竹千代の中には、父や家臣たちと同じ三河武士のたけき心と、冷徹な政治判断で松平家から織田家に鞍替えした母方の伯父・水野みずの信元のぶもと譲りの冷ややかな心が同居している。


 水野家の冷たい血が、幼児とは思えない冷静な自己分析をさせ、竹千代はおのれの愚かな行為を自覚した。

 だが、もう一つの血――三河武士の荒ぶる心は、「この孫八郎とかいう気に食わぬ世話係を、何とかして一発ギャフンと言わせてやりたい」と激しく訴えていた。


 幼い竹千代は、怒りに身を任せることの危険性をたった今自覚したというのに、感情の爆発を抑えることができない。三河武士の猛き血が騒ぐ。子狸こだぬきみたいな顔を真っ赤にさせ、再び孫八郎を睨んでいた。


「そ……そのような無礼な物言い、聞き捨てならぬ! やはり、父に報告せねばならぬようだな」


「どうぞお好きなように。されど、松平広忠殿は息子であるあなたのことを『生きていても死んでいても別に構わぬ』と思っているはずですぞ」


「な……何? それはどういう意味だ?」


「数日前、三河から急報が届きました。広忠殿が、織田方の松平忠倫ただとも殿を謀殺したとのことです。

 忠倫殿は、三河攻めでは上和田砦を築いて我ら織田軍の勝利に貢献した功労者……。いくら同族同士の内紛とはいえ、織田家に従属している者をあなたのお父上は殺害したのです。このような蛮行は、織田家に対する謀反と判断されても文句が言えませぬ。

 信秀様の特別なご慈悲であなたの首と胴体は今繋がっていますが――信秀様がお怒りになれば、人質である竹千代殿が殺される可能性は十分にあったでしょう。そのことは広忠殿も承知していたはず……。

 つまり、あなたのお父上は、『竹千代が殺されたら、その時はその時だ』と覚悟して忠倫殿を殺したのです。そのような薄情な父親に告げ口をしても、広忠殿は竹千代殿を哀れむことなどせぬでしょうなぁ」


「な、な、な……」


 竹千代だけでなく、松平家の侍たちも驚きのあまり絶句していた。


 広忠は、織田軍に三河から兵を引いてもらうために竹千代を差し出したが、織田軍がいなくなると、すぐさま信秀の意向に背く行動に出たのである。孫八郎が言った通り、場合によっては激怒した信秀によって竹千代は殺されていただろう。信秀が今後の三河支配を考えて広忠の蛮行に目をつぶったため、竹千代は生かされているだけのことだ。広忠が息子のことをただの捨て駒だとしか思っていないことは明白である。


「…………切腹する」


 ポツリと、竹千代が呟いた。家臣たちが「え?」と言っている間に、竹千代はすでに脇差わきざしを抜き、腹に突き立てようとしていた。


「な、何をなされるのです、竹千代様ッ!」


 家臣たちは大慌てで竹千代を止めに入る。


 七十五年の生涯で数多あまたの大苦難と戦い続ける運命にある彼――徳川家康は、危機的状況に陥って絶望するたびに短気を起こして「腹を切る!」と宣言し、そばにいた家臣たちに止められるということを何度も繰り返すことになる。今回が、記念すべき第一回切腹宣言だった。


「はなせ、はなせ! 私は情けないのだ! 行き当たりばったりな生き方しかできない父のことが、死ぬほど情けない! いっそのこと、死んで父上の枕元に立ち、怨嗟えんさの声を毎晩囁いてやる!

 今川家との仲が断絶中なのに、織田家に睨まれるような愚考を犯すとは何事かぁーーーっ‼ せめて、今川義元と仲直りしてからにしろーーーっ‼」


 とうとう、うわぁぁぁと泣き出してしまった。父親に見捨てられたのだと思うと、情けないやら腹立たしいやら悲しいやら……。三河武士の荒ぶる心が、竹千代を衝動的な自殺行為に走らせていたのである。


「や、山口孫八郎! おぬしのせいで竹千代様が切腹すると騒ぎ出したのだぞ! 何とか責任を取れ! 我らと一緒に竹千代様を止めよ!」


「……フン。六歳の幼児が腹など切れるものか。泣きわめいて駄々をこねているだけだ。これにて、拙者は失礼させてもらう」


 どうせ本気で死ぬ気ではないだろうと軽く考えている孫八郎は、腰を上げて部屋からさっさと立ち去ろうとする。


「あっ、こら! 待たぬか! ……ええい、なんと無礼な男だ。本当に叩き斬ってやる」


 家臣たち五人のうち三人が、部屋を去った孫八郎を追いかけていった。激しい怒りのあまり頭に血がのぼっている彼らは、切腹しようとしている幼い主君を止めることをすっかり失念していた。


(えっ、死ぬと叫んでいる私を放って置く気か?)


 水野家譲りの冷静な面が一瞬顔を出して、竹千代は「たわけ! 家来だったら私が死ぬのを止めろ! 本当に死んでやるぞ!」と喚いていた。


「そんなことをおっしゃるぐらいなら、腹を切ろうとしないでくだされ。さあ、その脇差を我らにお渡しください」


 竹千代のそばにとどまってくれた二人の家臣が、必死に幼い主人をなだめる。どうやら、この二人は自分の怒りよりも主君への忠誠を優先してくれたらしい。少し安堵した竹千代は、「嫌だ! 私はここで死ぬ!」と再び駄々をこね始めた。


 事件は、竹千代の警備が手薄になったこのわずかな時間に起きたのである。




            *   *   *




「待て、山口孫八郎! 我らと戻って、竹千代様に詫びよ。さもなくば、おぬしを討つぞ」


「できるものならば、やってみろ。そなたたちが加藤家の家来である拙者を殺せば、竹千代殿の身が危うくなるのは必定ひつじょうだぞ」


「くっ……。口ばかり達者な奴め!」


 廊下で呼び止められた孫八郎は、松平家の侍たちと口論になっていた。

 何度言い負かしても彼ら三河武士たちは執拗に食い下がってくるため、罵り合う声は自然と大きくなり、竹千代の部屋がある方角から数度叫び声が上がっていたことにも気づけなかった。


「そなたたち、こんなところで何をやっておるのだ! 城内で悲鳴が聞こえたぞ! 妙な術で眠らされて倒れている兵たちもおる! この城の中に賊が入ったに違いない。竹千代殿は無事なのか⁉」


 城主である加藤かとう順盛よりもりが家来たち十数人を引き連れて現れ、いまだに罵倒し合っていた孫八郎と松平家の侍たちを叱りつけた。


「な、何ですと⁉」


「竹千代様が危ない!」


 孫八郎と松平家の侍たちは、ほぼ同時に叫んでいた。

 竹千代を憎らしいと思っている孫八郎も、自分の世話係としての役目をようやく思い出したらしい。竹千代が賊に襲われるようなことがあれば、主君である順盛が大殿の信秀に罰せられてしまう……。


「これはいかん、急いで駆けつけねば。どけ、どけ!」


 孫八郎はさっきまで口論をしていた三河武士たちを押しのけ、竹千代の部屋へと走った。松平家の侍たちも幼い主君を助けるために、孫八郎の後に続く。


「竹千代殿、ご無事か⁉」


 孫八郎はそう怒鳴りながら刀の鯉口こいくちを切り、竹千代の部屋に入ろうとした。


 その刹那せつな


「ぐわぁ⁉」


 利き腕に鋭い痛みが走る。

 部屋から飛び出して来た男に斬りつけられたのだ。

 顔を黒い布で覆っているその長身ちょうしん痩躯そうくの男は、孫八郎を蹴り倒すと、素早く庭へ下りて逃走しようとした。左の脇には小さな子供――竹千代を抱えている。竹千代を誘拐することを目的に城内に侵入した曲者くせもののようだ。


「た……竹千代様を返せ!」


 竹千代とともに部屋にいた三河武士の二人が、血みどろの姿で室内から這い出て来た。そのうちの一人は左腕を失ってしまっている。


「深手を負っているおぬしたちでは無理だ! 我らが賊を追う!」


「そこで大人しく手当をしておれ!」


 少し遅れて駆けつけた松平家の侍たち三人が抜刀し、長身痩躯の男を追いかけようとした。加藤順盛の家来たちも賊を捕えようとして次々に刀を抜く。しかし……。


 ヒュン! ヒュン!


 横合いから棒状の鉄器が飛来し、先頭にいた侍の鼻先をかすめた。


「な、何だ⁉」


 松平家の侍たちが驚いていると、闇の中から次々と棒手裏剣が飛んで来た。どうやら、賊は忍びの者を雇っているらしい。松平家の侍たちや加藤家の家臣たちが怯んでいる隙に、竹千代をさらった賊の姿は夜の闇へと消え、その行方は分からなくなってしまった。


篝火かがりびをたけ! 城内を昼間のごとく明るくして、くまなく捜すのじゃ!」


 とんでもないことになってしまったと焦った順盛は、兵たちにそう喚き散らして城中で篝火をたかせた。


 だが、城兵たちが総出で捜索しても、賊たちの姿は見つからなかったのである。すでに、城から脱出したのに違いない。


「た……大切な人質を賊にさらわれてしまった……。信秀様になんと言い訳をすればいいのだ……。とにかく、叔父上に相談せねば。もう私だけの力では何ともしようがない」


 夜明けが迫る中、そう決断した順盛は使者を叔父の全朔ぜんさくの屋敷へと遣わし、助けを求めたのであった。







※次回の更新は、10月20日(日)午後8時台の予定です。

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