竹千代誘拐・前編
「……ということがございまして」
「デアルカ。その
つい先日まで風邪をこじらせていたが、幼い頃から父・信秀に水練などで体を頑強に鍛えられていたため、もうすっかり回復している。少しだけ鼻声だが、明日か明後日には完全に治るだろう。
今日は、「いつまでも寝ていたら体が腐る」と言って床払いをし、家老の
「どこらへんが面白いのですか? ただの生意気なクソガキではありませんか」
そばに控えていた
「織田ごときに屈してなるものか、と敵地において
「は……はぁ……。しかし、私はただ好意で竹千代殿に黒鶫を贈ろうとしたのですが……」
「そう気を落とすな、季忠。そんなにも面白い鳥だったら、俺がもらってやるぞ。どんな鳴き声なのか、非常に興味がある」
「信長様は相変わらず好奇心旺盛でございますな。承知いたしました。早速、使いの者を神宮まで遣って、鳥を持って来させましょう」
小鳥の世話など面倒だからいつまでも手元に置いておきたくないと考えていた季忠は、ホッとため息をつき、そう言った。
「でも、信長様は屋敷内で猫を飼っているではありませぬか。小鳥なんか飼ってもいいのですか。猫に食われておしまいですぞ」
「むっ……そうか。猫は役に立つからなぁ。
猫と比べたら、歌声の綺麗な小鳥などを飼っていても、俺の役には立たないだろう。だが、女子供の暇潰しぐらいには役立つような気がする。信盛に言われて、信長はそう考え直した。
「やっぱり、俺が飼うのはやめた。その黒鶫という小鳥は、
「はい、かしこまりました。
「楓殿も、きっとお喜びになるでしょうな」
季忠と信盛が顔を見合わせながら、ニヤニヤと笑う。
「何だ、なぜ笑う?」と信長が不思議そうにたずねると、二人は「いえいえ、何でもございません」「信長様はとてもお優しいなぁ~と感心していただけです」と笑いを堪えながら答えた。
楓のことを話題にしている時の信長は――自分ではまったく気づいていないようだが――とても締まりのない顔をしていて、普段の生真面目ぶった顔が完全に消え去っているのである。我らが若様は青春の真っただ中を生きておられるのだな、と微笑ましくてついつい笑ってしまうのであった。
「へらへら笑って気持ちの悪い奴らめ……。俺は明日の早朝に
「え? 早起きは嫌だなぁ……。東加藤家に何か御用なのですか?」
「その噂の三河のクソガキに会いに行くのだ。織田家がこれから先も松平家を従えていくのならば、将来的に竹千代は俺の子分となる。未来のおのれの子分がどんな奴なのか、ちょっと見ておきたい」
(風邪が治ったばかりなのに、もう走り歩く元気が出てきたのか。好奇心旺盛が度を越しているというか、じっとしていられない性分というか……。やれやれ、このお方の側近くに仕えていたら屋敷でゆっくり昼寝もできんなぁ~)
信盛は渋々「承知しました」と言いながら、心の中でそう呟いていた。
信長は若殿という身分でありながら家中の誰よりも働き者で、ほぼ毎日領内の見回りや武芸の鍛錬をして汗を流している。信盛たち家臣はそれに付き合わされるわけだが、怠け者の信盛にはそれが辛くて辛くて、たまに辟易とするのであった。
だが、信長から離れて弟の
初陣戦における鬼気迫る信長の武勇と采配を見て以来、「この鬼神のごときお方に背くのは、すなわち天の道に背くことになるのではないか」という畏敬の気持ちを抱いていたからである。
要するに、信盛自身が気づかないうちに信長という大将に惚れていた。こんな軟弱な男でも、強い男に憧れを抱く心があるということだ。
隙あらば怠けたがる癖がある男にとって、天下一の働き者である主君に惚れたのは果たして吉なのか凶なのか。それは、現時点の信盛には知るよしもない。
* * *
翌日。信長は、まだ空が白みだす前に那古野城を出た。
供は、佐久間信盛。途中で、熱田神宮の大宮司である千秋季忠も案内役として合流した。
普段なら信長に片時も離れずに近侍している
「今日は霧が濃いな。目の前の景色もほとんど見えぬ」
「信長様、お待ちください。
羽城へと向かう道すがら、耳がいい季忠がそう注進した。
信長は「こんな早朝から馬を走らせているとは、怪しい奴らに違いない」と自分たちのことは棚に上げて呟き、
「おい、止まれ! そこにいるのは誰だ!」
と、甲高い声で呼びかけた。
蹄の音が止まり、前方から「それがしは、熱田の
「何だ、西加藤家の当主の全朔入道殿か」
信長は少し警戒心を緩め、馬の尻に鞭をあてた。濃霧の中で互いの顔が見える距離まで近づくと、やはり全朔入道とその息子たちであった。
「全朔入道殿。こんな朝早くに親子で責め馬(馬を乗りこなして調教すること)でござるか?」
「いえ、違うのです、若様。東加藤家……甥の
「東加藤家で一大事……」
それは十中八九、竹千代に関することに違いない。信長はそう直感し、険しい顔を作った。
人質である竹千代に万が一のことがあれば、松平家が織田家から離反する恐れがある。急いで羽城に駆けつけ、何が起きたのか確かめねばならぬ。
「ちょうど我らも羽城へ参るところだったのです。供に行きましょう」
「ハハッ」
全朔も非常事態に違いないと薄々察しているので、「なぜ信長様は甥の城へ行こうとしていたのですか」などと余計なことは言わない。
信長主従は、全朔と息子二人に先導させて羽城へと向かった。
* * *
羽城に到着すると、顔を真っ青にさせた加藤順盛が信長たちを出迎えた。
順盛の傍らには、利き腕に深手を負った家臣の山口孫八郎が控えており、涙を流しながらガタガタと震えていた。
「順盛。いったい何があったのじゃ。孫八郎はなぜ震えておる」
竹千代の世話係である孫八郎が尋常ならぬ状態になっているのを見て、全朔は強烈に嫌な予感がした。激しい口調でそう問いただすと、順盛は「孫八郎は切腹を覚悟しているので震えているのです……」と力なく答えた。
「切腹だと? まさか、こやつ……竹千代殿に対して何か粗相をしたのか」
「粗相どころの騒ぎではありませぬ。た、竹千代殿が……
「ま、待て待て! さ、さらわれただと⁉ 竹千代殿が⁉ ……こ、ここここの大阿呆がぁぁぁ‼ いったい何者に誘拐されたのじゃ⁉」
全朔は甥の胸倉をつかみ、唾を飛ばしながら
「言え! 誰に竹千代殿はさらわれた!」
「わ……分かりませぬ。その曲者は
「やめるのだ、全朔入道殿。甥を絞め殺す気か」
ずっと黙って話を聞いていた信長が、興奮のあまり我を失っている全朔の体を順盛から無理やり引き剥がし、鋭い声で叱った。その叱声は、まだ十四歳だというのに、父の信秀に劣らぬほどの威厳がある。
全朔はハッと我に返り、「も、申し訳ありませぬ……」と謝った。
「今は順盛殿や孫八郎の失態を責めている場合ではない。竹千代を賊から取り戻すことが先決だ」
「しかし、順盛の話ではその曲者は正体が分からぬと……」
「竹千代をさらおうとする奴など、すぐに察しがつく」
「それはいったい――」
「今川家に決まっているさ。奴らは、竹千代を奪って松平広忠を再び従属させようと狙っているのだ」
信長はそう断じると、孫八郎をキッと睨んで、
「いつまでも泣いていないで、何があったのか詳しく話せ。ただし、時間が惜しいから早口で言え」
と命じるのであった。
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