追跡
「論外だ。不手際にもほどがある」
生真面目な性格の信長は、仕事をさぼる人間が大嫌いなのである。竹千代の世話係という自らの役目を忘れて松平家の侍との口論に熱中し、その間に賊の侵入を許して竹千代をさらわれてしまうなど言語道断ではないか。
「孫八郎。お前は謹慎しておれ。後日、我が父から処分を言い渡されることであろう」
「ははっ……」
「の、信長様。孫八郎が犯した過ちは取り返しのつかないものだと百も承知しておりまする。されど、孫八郎の一族は我が加藤家に先祖代々仕える古参の臣なのです。どうか、どうか、死を賜ることだけはお許しくださいませ」
孫八郎の主君である
順盛にしてみたら、他家の大名家の嫡子である
たしかに、孫八郎の大人げない振る舞いのせいで、このような仕儀に至ってしまった。だが、あの竹千代とかいう生意気な子供に
身内びいきと言われたらそれまでだが、三河の田舎城主の
このような順盛の身勝手な助命嘆願に対して、父親譲りで短気な信長は、
「勝手なことを申すなッ!」
と一喝した。ひえっ、と順盛は震え上がる。
しかし、信長は、それ以上は叱責せず、黙り込む。しばし
「……そなたの言い分は、いちおう父に伝えておいてやる。だが、八割方は切腹になると思うからあまり期待するなよ」
そうポツリと言うのであった。
順盛の身内びいきな言い分はあまりにも勝手すぎる。そう思いつつも、信長自身にもそういう面があるため、彼の必死の懇願を切り捨てるのは
信長は、幼い頃から父の信秀に「この尾張の国と人々を守れるような武将になれ」と教育され、その父の期待に応えるべく自らに厳しい鍛錬を課してきた。実直な信長は、今でも尊敬する父の教えを実践しようと努力している。だから、「俺が守るべき尾張人」の一人である加藤順盛とその家臣に対して「罪は罪だ。諦めて切腹しろ」などと非情なことは言えなかったのである。
「この話はもう終わりだ。一刻も早く、竹千代を今川家の隠密から奪還せねばならない。俺は、これより竹千代をさらった賊を追跡する。順盛殿は、急ぎ
「は……ハハッ!」
織田家の嫡男である信長様が孫八郎の助命を信秀様に進言してくれる、これで安心だ、と勝手に安堵した順盛は、わずかに元気を取り戻して信長の命令に従った。
「されど、賊はすでにかなり遠くまで逃げているのではありませんか?」
賊を追跡するために馬を疾駆させて長距離を移動するのはすごく疲れそうである。
「賊は六歳の幼子を連れている。幼児というものは、神の手の内から離れる七歳まではちょっと風邪をこじらせただけですぐに死んでしまうものだ。ただのかどわかしならば、子供の体調など気にせずに昼夜問わず全速力で逃げるだろうが、竹千代は外交交渉の切り札となる松平家の嫡子だ。今は朝晩がとても冷えこむ晩秋だから、竹千代の体調を多少は気遣って深夜はそれほど遠くへ移動できていないだろう。
それに、三河方面へと逃げる道々には
それゆえ、今ならまだ間に合う。船で先回りをして、尾張と三河の国境を封鎖してやるのだ。そうすれば、賊どもは尾張から脱け出せなくなるに違いない」
「な、なるほど! 海路を行けば、今川家の
熱血神官の
信長は季忠の顔を右手で乱暴に押しのけ、「
「承知いたしました。我ら父子もお供いたしましょう」
全朔は力強く
「人質を敵国に奪われたら、織田家の名折れだ。父・信秀の指示を仰いでいる時間の余裕はない。我らの手で是が非でも竹千代を救出するぞ。いざ出撃!」
* * *
かくして、信長は加藤全朔とその息子二人、佐久間信盛、千秋季忠、そして、賊の襲撃で深手を負わなかった松平家の侍三人を従えて、西加藤家の商船に乗りこんだ。海路、知多半島の西岸を目指す。
「の、信長様! 船を出港させた途端、強風が吹いて来ましたぞ。こ……この船、大丈夫ですか? ひっくり返ったりしませんか?」
「馬鹿なことを言うな、信盛。この程度の風で加藤家の商船が沈むものか。追い風になってちょうどいい! 天が我らに味方をしておるのだ!」
後年、織田信長は今川方の
少人数を乗せた西加藤家の商船は、信長の予想を遥かに超える短時間で知多半島西岸――尾張知多郡の北部にたどり着いた。すぐ目の前には水野一族の
「おおっ、やはり海路を選んで正解であった。強風が吹けば、瞬く間にこんなにも遠い場所へ行けるのだな。覚えておこう」
信長は上機嫌で船から降り、そう独り言を呟いた。七年後の村木砦攻めでこの時の経験が活きることになるのだが、さすがの信長もそんな未来は想像すらしていない。
「尾張と三河の国境付近に領地を持つ城主たちに命じて、街道を封鎖させよう。全朔入道殿の子息たちは、使者として各城に急ぎ向かってくれ。俺ではなく父の信秀からの命令だと伝えるのだ」
上陸した信長はすぐさまそう指示を飛ばし、加藤
尾張知多郡東部から三河碧海郡西部の広域を支配している水野信元は、竹千代の母・
また、近藤氏の沓掛城は鎌倉街道や他の街道が交差する交通の
この水野氏と近藤氏の協力を得ることができたら、国境間の封鎖はある程度は完璧になるはずだ。しかし、用心には用心を重ねておく必要がある。
「我らの警戒網をくぐり抜けて三河国内に逃げられた時のことも考え、
「ええーっ⁉ よりにもよって、なんで私が一番遠い城へ行かねばならないのですかぁ~‼」
「ぐだぐだ言うな! 駿馬でかっ飛ばしたら、半日もかからないだろうが! 死ぬ気で走れ。死んでもいいから走れ。というか、一度死んで根性を入れ直して来い!」
「ひ……ひどい……」
信盛は泣きべそをかきながら三河国へと走って行った。
「さてと……。俺と季忠、全朔入道殿、松平家の侍たちは、賊捜しだ。大高城は水野家の一族が入っているから、彼らの兵を動員させるぞ。そして、近隣の農民たちに賊の捜索を手伝わせよう。農民たちならば、地元の地理にも詳しいから怪しい奴が隠れている場所に心当たりがあるやも知れぬ」
「え? 農民たちを駆り出すのですか?」
「そうだ、全朔入道殿。賊の捜索に参加した農民には、もれなく銭を与える。褒美で釣って、農民たちにやる気を出させるのだ。銭は、こたびの不始末の原因である加藤家が出してもらうぞ」
「……承知いたしました」
「それだけではない。今川家の隠密を見つけたり、有力な情報を寄越したりした者たちには、特別な褒美としてそれぞれ銭一貫文を与えることにする。どうだ、これなら百姓たちも目の色を変えて怪しい者を捜し回るだろう」
「ぜ、銭一貫文⁉」
ぶふぉっ、と全朔は思わず噴き出してしまっていた。
銭一貫文(銭一〇〇〇文)といえば、米一石に相当する。一石は一人の人間が一年間で消費する米の量である。つまり、信長は現代風に言うと、
「敵国の隠密らしい奴を見つけてくれた人たちには、お米券一年分をプレゼントします!」
という懸賞で農民たちを釣ろうとしたのである。
なんてことを考えつく少年だ、と全朔は舌を巻いた。
しかし、信長には奇想を思いついたという自覚は別にない。「銭を上手く使いこなせる者が、人の上に立てる」という父・信秀の教えを実直に守ったまでのことである。
※今回登場した尾張国の城たち(鳴海城、大高城、沓掛城など)は三河から尾張に侵攻するために交通上非常に重要な拠点で、信長と今川義元の戦いでたびたび名前が出て来ます。(作中で信長が竹千代誘拐犯を捕えるために先回りしてこれらの拠点に警戒網を張ったのも、交通の要衝だったため)
そろそろ織田・今川の抗争が激化してくるため、予習的な意味合いで先行登場(?)させました。
ちなみに、鳴海城・大高城・沓掛城は現時点で織田方ですが、桶狭間合戦時には全てが今川方の城にになっています。
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