矢作川を渡る

 最初槍はなやりの勇者・造酒丞さけのじょうの救援によって死地を脱した信長軍は、無事に尾張那古野なごや城に帰還した。


 ただし、信長の家老である平手ひらて政秀まさひで内藤ないとう勝介しょうすけだけは、今回の敗戦の不始末を詫びるために、信秀がいる三河安祥あんじょう城に赴いていた――。


「殿……。信長様の大事な初陣を負け戦にしてしまい、まことに……まことに申し訳ありませぬ!」


「政秀、勝介。顔を上げろ。確かに多少の損害はあったが、信長の機転で敵地を焼き払って長田おさだ重元しげもとにも大きな痛手を負わせたそうではないか。敵も『織田軍に勝った』とは喧伝できぬだろう。これは負け戦ではない。二度と『負けた』などと口にするでないぞ。よいな?」


「は……ははぁ……」


 政秀と勝介は顔を上げると、微笑みながら二人を労ってくれた信秀を痛々しげに見つめた。無理をして陽気に振る舞っていることは、付き合いの長い二人にはすぐに分かったからである。


 嫡男の一生に一度の晴れの舞台に泥を塗られ、本当は怒り狂いたいに違いない。しかし、ここで信秀が怒りをあらわにしたら、「信長が初陣で負けた」ということを認めてしまうことになる。いくさに負けても、悔しさを顔には出さす、「我らは負けていない、五分五分だった」「苦戦はしたが、最後には勝った」などと強がって勝者のごとく振る舞うのも、武家の棟梁としての務めなのである。


 一方、評定の間に集まった織田秀敏ひでとし(信長の大叔父。信秀の叔父)、織田信光のぶみつ(信長の叔父。信秀の弟)、織田造酒丞、柴田しばた勝家かついえ、織田宗伝そうでん(犬山城主・寛近とおちかおきなの弟)ら諸将は重苦しい雰囲気で互いに顔を見合わせていた。


「……のう、信秀。いささかおかしいとは思わぬか? 岡崎おかざき城の援軍に駆けつけていたはずの長田重元は、何故なにゆえ信長が自分の領地に攻め込むことを事前に察知できたのじゃ?」


 皆が疑問に感じていたことを、秀敏が代表して口にする。すると、信光が「決まっているではありませんか。我が軍の中に敵と内通している裏切り者がいるのです。そいつが織田家の機密情報を流したのでしょう。探し出して、殺さねば」と語気荒く言った。


「う……裏切り者⁉ そ、そんな者、我が軍にいるはずがないでしょう」


 宗伝が、裏返った声でそう否定する。坊主頭にはてかてかと脂汗が光っており、さっきからずいぶんと落ち着きがない。信光が胡乱げな目で宗伝を凝視すると、宗伝はその視線から逃げるようにプイッと顔を反らした。


「他にも疑わしいことがあります。退却途中、道場山の近辺で野盗の姿に扮した武士の一党の襲撃を受けました。あれは長田重元の配下の者ではありませぬ。恐らく、我が軍と表面上は協力関係にある者が、信長様を謀殺しようとしたのです。そうでなければ、正体を偽って襲いかかる必要がありません」


 勝介がそう言上すると、造酒丞も「拙者も、そう思いまする」と続いた。


「敵の頭目と実際に刃を交えましたが、あれは三河武士が用いぬ刀術でした。三河とは別の国で伝播している刀術かと」


「三河とは別の国……? どこの国の者だというのだ。誰が、我が息子の命を狙った?」


 信秀は眉間に深い皺を作り、そう問うた。あまりにも聞き捨てならない話だったため、強がって陽気ぶることも忘れてしまっている。ずっと抑えに抑えていた怒りの激情が頂点に達し、爆発寸前になっていた。味方の何者かが織田家を裏切り、信長を殺そうとしたと聞けば、父親として黙って見過ごすことなどできるはずがない。その裏切り者を八つ裂きにする必要があった。


 勝介が何か確信があるらしく、前に進み出て、「今川家に違いありませぬ」と断言した。


 評定の間に皆の「えっ」という驚きの声が上がり、信秀はくわっと両眼を大きく開く。


 今川家と織田家は、「互いに矢作やはぎ川を越えない」ことを条件にして三河攻めの共同作戦をとっている真っ最中である。その今川家が信長の命を狙ったというのが事実ならば、これは完全なる背信行為だ。


「……なぜ、そう思う」


「我が軍の足軽に、数年前まで今川家の足軽部隊に属していた虎若とらわかという欠落かけおち百姓がおります。その者の話によると、道場山で信長様を襲った賊の頭目に見覚えがあるというのです。その名を御宿みしゅく虎七郎とらしちろうといい、今川家中でも剛の者として知られた侍であったとか……」


 勝介がそう言うと、秀敏が「つまりは、こういうことか」とこれまでの話をまとめ始めた。


「我が軍に内通者がいて、初陣の信長が出陣する日時と攻め込む場所を今川家に伝えた。そして、今川家は御宿某という者を三河に派遣して、長田重元に『お前の領地が危ないぞ』と教えた。重元は信長を追いつめながらも取り逃したため、今川家の御宿某は道場山で信長を消そうとした……」


「畜生! 舐めた真似をしやがってッ! どうせ、あの雪斎せっさいとかいう不気味な坊主の企みに違いない! 自分が東三河の戸田氏を相手に苦戦をしているから、快進撃を続けている我らの足を引っ張ろうとしたのだ!」


 信光が城内の柱や梁がビリビリ震えるほどの怒号を上げ、立ち上がった。

 血生臭いことが大好きで戦闘狂な信光が、ここまで聞いて黙っているはずがない。「兄上、もう義元に遠慮する必要はない。岡崎城の松平広忠は、我らの手で屈伏させるのだ」と大量の唾を飛ばしながら信秀に喚いた。


 柴田勝家も続いて立ち上がり、信光に同調する。


「それがしも、信光様に賛成です。義に背いたのは今川家のほうです。もう盟約など関係ありませぬ。矢作川を越えて、岡崎城を攻撃しましょう。広忠の軍勢を傘下に置けば、三河国の大半は我らの手中に収まったも同然です!」


 勝家は正義感の強い男である。主君の嫡男が今川家の陰謀で殺されそうになったことに義憤を感じており、血の気の多い信光に負けないぐらい興奮していた。


 だが、信光と勝家が怒り狂って吠えている横で、信秀は無言のままである。腕組みをしながら、血が滲むほど唇を噛み締めて天井を睨んでいた。


(信長を危うい目にあわせた今川家を許すことはできぬ。しかし、怒りに身を任せて大博打に打って出るべきか否か……)


 そう悩んでいるのだ。ここで今川家との対決姿勢を明確にすれば、もう引き返せなくなる。数年……いや十年以上におよぶ今川家との果てしない抗争が続くことになるかも知れない。その覚悟が自分にあるかどうか、おのれに問いただしていた。


「お……お待ちあれ。欠落百姓ごときの証言など、信用はできませんぞ。今川家が信長殿の命を狙ったという確たる証がないのに、我らのほうから盟約を破るのはいかがなものかと……。最悪、我ら尾張武士の信用は地に堕ちてしまいまする」


 宗伝が額の脂汗を手の甲で拭いながら慌ててそう発言すると、信光は「黙れ、生臭坊主ッ」と怒鳴った。


「さっきから妙に挙動がおかしいぞ、お前。それほど暑くもないのにだらだらと汗をかいて、何をそんなに怯えている? まさか、お前が今川家に我が軍の機密を伝えたのではないだろうな?」


「な、ななな何を言うかッ! 拙僧は織田家の一員だぞ⁉ 言いがかりはよせ!」


 宗伝は怒ってそう喚いたが、悪鬼のごとく恐ろしい信光に真正面から睨まれるとすぐに勇気がしぼみ、「せ……拙僧は内通などしておらぬ。信じてくれ……」と弱々しく言いながら顔を伏せた。


「よさぬか、信光。宗伝殿は、寛近の翁殿の弟御だぞ。織田の一族同士で仲間割れをしている場合か」


 ずっと沈黙していた信秀がようやく口を開き、静かに立ち上がった。そして、なだめるように信光の肩をポンと叩く。


「弟よ。内通者探しをするよりも先に、俺は一刻も早く松平広忠を織田家の威光にひざまずかせたい。尾張攻めの走狗にするつもりだった広忠が我が軍門に下れば、今川義元も歯噛みして悔しがることだろう」


「おおっ、兄上。ようやく決意をしてくれたか」


「ああ。美濃攻めの失敗以来、俺に反感を抱く坂井さかい大膳だいぜん(信秀の主君・織田大和守やまとのかみ達勝みちかつの家宰)らの勢力が日に日に強まっている。奴らを大人しくさせるためには、衆目を驚かすほどの大戦果を上げねばならぬ。

 ……この三河攻めにおける大戦果といえば、松平広忠を服従させることだ。東三河で足踏みをしている今川軍に、この大戦果を譲ってやることなどできぬ」


「待て、信秀。今川が憎いというそなたの気持ちも分かるが、宗伝殿が言っていた通り、今川家が信長の命を狙ったという証拠はない。その御宿某とかいう男を捕えることができていたら、良かったのだが……。

 もしも我らが矢作川を越えて岡崎城に攻め込めば、天下の人々は『織田が今川との盟約を破った』と思うだろう。世間の目が今川家に対して同情的になる恐れがある。ここは慎重に行動するべきじゃ」


 そう言って信秀の決断を思い止まらせようとしたのは、秀敏だった。

 今川家との共同作戦を推していた政秀は、自らが後見役をつとめた信長の初陣が敗戦に終わった負い目から、さっきから顔を伏せて発言を控えている。今この場で信秀が危険な橋を渡ろうとするのを諌められるのは自分しかいない、と秀敏は焦っていたのだった。


 だが、事態は信光の予想外な一言で思わぬ方向に動き出すことになる。


「叔父上。ならば、岡崎城を屈伏させれば良いのではないか?」


 信光がニヤリと邪悪そうな笑みを浮かべ、そう言った。


「……どういう意味だ、信光」


 猛将としての印象が強い信光だが、敵を罠にはめる姦計をめぐらせるのも実は得意分野だったりする。

 今川氏豊から那古野城を奪取するように進言した時のように、また弟が何か悪だくみを思いついたのだろう――そう察した信秀は、信光に期待の眼差しを向けた。


「簡単な話よ。織田軍俺たちが矢作川を越えなかったら、今川は何も文句は言えぬはずじゃ」


「矢作川を越えずに、矢作川の向こうの岡崎城を降伏させるだと? そんなことが、本当にできるのか?」


「俺に任せてくれたら、上手くやってみせるさ」


「……よし。岡崎城攻略の作戦は、信光に一任しよう。思うようにやってみろ」


「そうでなければ面白くない!」


 信光はワハハハと豪快に笑うと、作戦準備に取りかかるべく評定の間を後にした。




            *   *   *




 その翌日、安祥城から出撃して矢作川を渡河する複数の部隊があった。

 それは、信秀の三河攻めに従軍していた反広忠派の三河武士たち――松平信孝のぶたか忠倫ただともらの部隊だった。


 織田と今川が交わした盟約は、


「織田軍と今川軍は互いに矢作川を越えない」


 である。織田軍と行動を共にしている現地の三河武士たちが矢作川を越えてはいけない、とは一言も約束していない。信光の恐るべき屁理屈だった。


 矢作川を渡河した松平信孝らは、岡崎城を直接は攻めずに、大平・作岡・上和田の地に砦を築いた。岡崎城を東から南にかけてぐるりと包囲したのである。対岸の安祥城も含めたら、岡崎城は東―南―西の区間を完全に封鎖されてしまったことになる。


 砦を完成させた松平信孝は、岡崎城に立て籠もる甥の広忠に使者を遣わし、


「そなたが生き残る方法は、信秀殿の軍門に降ることのみ。早々に信秀殿に詫びを入れ、服従の証として人質を差し出せ」


 と、激しく恫喝した。


 今川軍を率いる雪斎は、いまだに東三河で戸田氏を相手に苦闘している。信秀は、三河制覇に王手をかけた形になった。

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