悪鬼羅刹の母
「もしも松平
義元が戦陣の
しかし、長年の仏道修行によって滅多に心を動揺させることがない義元は、この非常時にでも落ち着いたものである。フッと静かに笑い、
「母上。信秀は、盟約違反はしていませんよ。『今川と織田は互いに矢作川を越えない』とは約束しましたが、『現地の三河武士たちが矢作川を行き来してはならぬ』とは取り決めていませんでした。我らは、盟約の抜け穴をつかれたのです。信秀の陣営には、なかなか頓智のきく武将がいるようですな」
などと冗談を口にした。寿桂尼は眉をひそめ、「笑っている場合ではありませぬぞ、義元殿」と苦言を呈する。
「ええ、そうですね。笑っている場合ではありません。信秀のこの奇策は、東海六か国の覇者となるという我が目論見を大いに狂わしかねない由々しき事態です。されど――」
義元は口元に微笑みをたたえたままそこまで語ると、切れ長の目を寿桂尼に向けた。そして、「かくのごとき仕儀に至ったのは、母上のせいではありませぬか」と、いささか突き放したような声音でそう言った。
「私のせい? どういうことです?」
「息子の私にしらばっくれるのはやめてください。信秀がなぜ我らを裏切ってこのような思い切った博打に出たのか、その理由も私は知っているのですから。
……母上が、信秀の嫡男を謀殺しようとしたのでしょう? 雪斎が止めたにも関わらず、独断で」
「……私には何のことか分かりません」
寿桂尼は義元からわずかに目線を反らし、白を切った。権謀術数の鬼である母が息子のあずかり知らぬところで悪だくみをするのはいつものことなので、義元は(まただんまりか)と思いながらも、構わずに言葉を続けた。
「信長が三河の大浜で初陣を飾るという情報は、雪斎と同門(
この織田家の詳細な動向が記された書簡に目を通すことができるのは、書簡を受け取った私と――私の部屋に自由に出入りできる母上だけです。母上は雪斎からの書簡を私が不在中に盗み見て、信長謀殺を企んだのではありませんか?」
「…………」
「今朝届いた雪斎からの書状にも、宗伝が伝えた織田の内情がこう記されています。『信秀とその重臣たちは、大事な跡継ぎである信長が今川家に命を狙われたことに勘付き、評定の席で激怒していた』と。……まあ、今さら母上を責めても、今川の苦境が覆ることはありませんが」
「私はただ……義元殿の覇業の障害となる芽を全て摘み取ろうとしているだけです。間違ったことをしたとは思っていません。織田信長という若武者は、雪斎の見立てでは――」
「私に匹敵する大器の持ち主、というのでしょう。雪斎が三河に出陣する前に話してくれましたから知っています。
ですが、母上。今はそんなことをぐだぐだと話し合っている場合ではありません。当面の間はひよっこに過ぎない信長よりも、今目の前に立ちはだかっている尾張の虎・信秀を何とかしなければ。このままでは、我らは三河国を奴に奪われてしまうのですぞ」
義元は、母が言い訳を始めようとしたのをピシャリと切って捨てると、傍らにあった三河国の地図を机上に広げた。
「昨年から頑強に抵抗していた今橋城も、雪斎の働きでようやく数日前に落城しました。されど、戸田氏は本拠地の田原城に拠っていまだに健在。引き続き雪斎は戸田氏攻めに注力せねばならず、今川軍の主戦力は東三河に釘付けになったままです。岡崎方面へ兵力を割けるのは、せいぜい数百……。織田方の三河武将たちによる岡崎城封鎖を妨害するためには、こちらも何らかの方策を講じる必要があるでしょう」
「……その方策というのは?」
「奴らが砦を築いて岡崎城を脅かすのならば、我らもその背後に砦を作ってやればよいのです。――そうですね、このあたりが一番いいでしょう。医王山という場所に砦を築き、数百の精鋭兵を置くことにします」
義元は、三河国の地図の山間地域を指し示しながらそう言った。
医王山(現在の愛知県岡崎市舞木町~羽栗町)は、鎌倉街道を南に見下ろす要衝の地である。織田方の三河武将たちが築いた三つの砦の一つ――作岡砦も鎌倉街道沿い(医王山の北西)にあり、もしも医王山に今川軍が砦を築いたら、作岡砦は背後を狙われた形になる。
「上和田・作岡・大平の砦に陣する松平
「おお、なるほど。そうやって織田方を
「……ただ、雪斎も今回ばかりは強豪の戸田氏を相手に苦戦を強いられている様子。今橋城攻めで兵たちも疲弊し、すぐには戸田氏の本拠を攻撃することはできないしょう。場合によっては、私自らが直属の兵たちを率いて医王山の砦に向かう必要も出て来るでしょうな」
義元は相変わらず冷静かつ緻密に戦略を練り上げていく。
だが、「氏輝」とその名を耳にした直後ぐらいから、義元の声音は明らかに険を帯び始めていた。寿桂尼は息子の小さな変化に気づかぬまま、義元の三河遠征に反対する。
「義元殿自らが出陣ですって? とんでもない、あなたに万が一のことがあったら今川家はどうなるのですか。絶対にやめてください」
「母上は心配性ですね。私はそんな簡単には死にませんよ。……暗殺されぬように、刺客や毒殺には重々気をつけていますから」
寿桂尼はピクリと眉を動かし、口をつぐむ。息子の最後の一言に強烈な皮肉が潜んでいることに気づき、何も言えずに固まってしまったのである。
しばしの沈黙の間、義元は寿桂尼から顔を背けて、緑涼やかな庭園に視線をやった。先ほどまでは何があっても泰然自若としていた義元の表情に、わずかだが不快の色が滲んでいる。母が亡き兄の名前を口にしたことが原因だった。
義元は、先代当主・氏輝の死に前々から疑念を抱いている。その死に方が、あまりにも異様だったからである。
寿桂尼が言うように、氏輝は、家督を継いだ少年期には、母親に政務を任せきりにしなければならないほど病弱だったらしい。
その頃、修行中の僧侶だった義元は雪斎と共に京都と駿河の寺を行き来していたが、今川家ゆかりの僧侶たちから兄と母の噂ぐらいは耳にしていたので、だいたいの事情は把握していた。寿桂尼は病弱な息子の政治を助けるために、相当な苦労をしていたとも聞いている。
しかし、成人するにつれて、氏輝は次第に国政に携われるだけの体力がついてきた。最晩年には、武田信虎(武田信玄の父)との戦いで互角に渡り合い、北条氏の歌会に出席するために小田原まで赴く元気もあったほどである。
それなのに、何の前触れもなく、氏輝は二十四歳の若さで急死したのだ。
しかも、その同日には、氏輝に万が一のことがあったら家督を継ぐ予定だった彦五郎(氏輝の弟。義元の兄)までもが原因不明の死を遂げている。
京都で仏道修行を行っていた義元は、偶然にも、氏輝が死ぬ直前に駿河に呼び戻されていた。そして、この緊急事態に驚いている暇も無く、庶兄・
(いや……。あれは、偶然だったのではない。母は何らかの意図があって、私を駿河に呼び戻したのだ。その意図が何であったのかは……さすがの私にも恐くて聞くことができぬが)
義元は、亡くなる数年の間に氏輝が発給した書状にいくつか目を通したことがある。
義元が考えるに、兄は病弱な身から脱することはできたものの、駿河・遠江の大大名として国を守り、武田などの強敵と覇を争うことに対する精神的な重圧に耐えきれず、心を病んでいったのだろう。母の寿桂尼にしてみれば、
――体がようやく丈夫になったと思ったら、今度は心の病か……。
という失望の念が大きかったに違いない。氏輝は、一国の主となるにはあまりにもか弱すぎた。もうこの子は見限るしかない、と寿桂尼は考えたはずだ。
そして、今川家の繁栄を守ることに異常なほどの執念を燃やす母は、大大名として一族郎党をまとめ上げる力がないひ弱な長男や凡庸な次男を排斥して、優秀な自分を今川家の当主に据えることを企んだ――そう義元は推測している。
最初から、氏輝と彦五郎を殺すつもりだったのかも知れない。
もしくは、命までは奪うことは考えてはおらず、何らかの策を巡らして氏輝を隠居させるつもりでいたのが、母の陰謀に気づいて絶望した氏輝が弟の彦五郎を巻き添えにして自害した……という可能性もある。
駿府館内の女中たちの間では「氏輝様は入水自殺なされた」という噂話まであるので、義元の推理はあながち的外れではないだろう。
(いずれにしても、母上は二人の兄の謎の死に何かしらの形で関わっている。母は、我が子を自ら手にかけてでも、今川家の繁栄を守ろうとする修羅の人だ。
母が心から心配しているのは、名門・今川家の行く末のみ……。そのことを理解していなかった氏輝兄上は、国主の重責から解放されたいなどと母に弱音を吐いてしまい、「この子は今川家の当主としてふさわしくない」と処断されてしまったのであろうな。兄は弱くて愚かな人だったが、哀れな人間でもあった……。
母が私の身を案じているのも、息子を失うことではなく、いまだ幼い嫡男・
幼い頃に両親や兄弟と引き離されて僧侶となった義元は、肉親の情というものを知らずに育った。長じて後に再会できた母は、今川家のためならば身内すら犠牲にする悪鬼羅刹だった。
母のことを信じたいと思っても、陰謀家としての彼女のおぞましい顔がチラついてしまい、どうしても心に距離を作ってしまう。これで果たして親子と言えるのだろうか。
――あなたは、天翔る龍神です。天下万民を救う才をその身に秘めています。必死に修行して、立派な人物におなりなさい。
義元にそう言って生きる目的を与えてくれて、義元の人生に寄り添ってくれたのは、師の雪斎だけである。義元にとっては、雪斎こそがこの世でただ一人の肉親と言えた。
「……とにかく、母上。我が師である雪斎が三河攻めで苦境に立っているのです。弟子としては、これを助けぬわけにはいきませぬ。急いで医王山砦の普請に取り掛かり、信秀の野望を挫きましょう」
義元はそう言い捨てると、母から顔を反らしたまま立ち上がって、部屋を去って行った。
「敵が手強く油断ならぬ相手なのは、武将として戦い甲斐があるからいい。
だが、おのれの身を気遣ってくれる母の言葉を心から信用できず、あの女こそ一番油断ならぬと警戒してしまうのは……。本音を言えば、少し切ないな。これもまた、今川家の男として生まれた我が宿命か」
薄暗い廊下を歩きながら、義元は声にならぬ声でそう呟く。
同じ頃、部屋に独り取り残された寿桂尼も、義元が先ほどまで座っていた場所をじっと見つめて、心の内をぼそぼそと吐露しているのであった。
「義元殿が……あの子が最初からこの家の嫡男であればよかったのに。そうすれば、私も氏輝殿や彦五郎殿をお家のために犠牲にしなくても済んだはず。どこの世界に、何のためらいもなく我が子を地獄に叩き落とせる母親がいるものですか。
……仕方がないのです。全ては、亡き夫との約束を――今川家を守り抜くという我が生涯の役目を果たすため。そのためには、私はあらゆることを犠牲にしていかねばならぬのです」
※今川氏輝の死に関する話(「花押の筆跡が狂っており、心の病気が疑われる」「入水自殺説」など)は、小和田哲男氏著『今川義元』(ミネルヴァ書房)を参考にしました。
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