暗転序曲

 信長が出陣した翌日。古渡ふるわたり城の城主館。


「そろそろ日が傾いてきたな。兄上は、今頃、いずれかの味方の城で休息されているのだろうか。それとも野営をなさっているかな。……どうした、美作みまさか。そなたの番だぞ。険しい顔をして、いかがしたのだ。そんなに難しい局面ではあるまい」


 信勝は、碁盤を挟んで対座しているはやし美作守みまさかのかみ(林秀貞ひでさだの弟)にそう言って笑いかけた。


 信勝も兄の信長に劣らぬ美男子なので、ちょっと微笑んだだけで匂い立つような色気がある。

 信長はほとんど天然で色っぽい笑みを見せて町娘たちを虜にしているが、信勝は相手を篭絡するためにおのれの美貌を意識的に利用していた。毎朝鏡を見て磨き上げた演技力のおかげで、笑った時の妖艶さは凄まじい。男ですら一瞬で陥落してしまう魔性の魅力があった。


 堅物の美作守も、思わず「うっ……」と喉を唸らせて、どぎまぎする。そして、気まずそうに視線を反らしながら「な……何でもありませぬ」と答えた。


「何でもないことはあるまい。美作には日頃から武芸を教えてもらっている恩がある。私にできることならば、何でも力になりたいのだ。悩み事があるのならば、言ってくれ。……私では力不足か?」


 耳元で囁くような甘やかな声で、信勝は美作守に切々と語りかける。その瞳はわずかに潤んでいて、心から美作守のことを心配しているように見えた。


「いえ……。ただの愚痴になってしまうのですが……」


 信勝様がここまで自分のことを案じてくれているのに黙っているのは気が引ける、と思った美作守は、少し言いにくそうにしながらも胸中を吐露し始めた。


「我が兄・秀貞はこのままで大丈夫なのだろうか、と心配なのです。兄は信長様の一番家老でありながら、大事なお役目はことごとく二番家老の平手ひらて政秀まさひで殿に取られてしまっています。こたびも、殿様(信秀)は信長様の初陣の後見役をあの老いぼれ……失礼、平手殿にお任せになりました。我ら林家は、殿様が十六歳で家督を継がれて以来、懸命に織田弾正忠だんじょうのちゅう家を支えてきたというのに……。

 平手殿が類稀なる才を持たれた御仁であることは百も承知ですが、あの方はすでに五十六歳ではありませぬか。あんな糞ジジイ……ごほん、げほん、高齢でいつ隠居するかも分からぬ平手殿よりも我が兄を殿様は重用すべきだと思うのです。

 しかし、殿様と信長様は平手殿ばかり用いられ、我が兄の押しが弱いことも災いして、一番家老とは名ばかりになっているのが現状です。兄は……林家はこのままでよいのだろうかと悩んで、毎夜眠ることもできません。

 ……まあ、信勝様にこんな愚痴を言っても仕方がないのですが」


 主君に対する不平不満を言っている罪悪感からか、美作守はドングリ眼を忙しなくギョロギョロ動かしながら、早口でそう語った。汗もびっしょりとかいている。「我が父と兄の成すことに不満を抱くとは何事か」と信勝に叱られるかも知れないと今さらになって心配になってきたのだ。


「分かる。……分かるぞ、その気持ち。実力がありながら不遇をかこっている者の気持ちは、誰よりも私は分かる」


 意外なことに、信勝は涙ぐみながらそう言い、美作守の手を握っていた。信勝の女のように繊細で滑らかな手の温もりが、美作守のごつごつとした右手に伝わる。美作守は驚いて、ビクッと顔を上げた。


「父上と兄上は、なぜ林家を重く用いぬのであろうか。林家は我が家中で最も勢力があり、温存している兵力も織田家に匹敵する。これほど頼もしき家臣はおらぬというのに……」


 信勝は、わずかに首を動かしたら接吻してしまうほどの距離まで顔を寄せ、美作守に優しくそう語りかけた。艶めかしい吐息が、美作守の丸鼻をくすぐる。ぞくぞくっと、背中が震えた。


 人間は、美しいものに強く惹かれる生き物である。そして、自分に理解を示してくれる相手に心を開く。美作守は、それが自分を篭絡しようとする信勝の甘言だとは露知らず、共感してもらえた嬉しさから「信勝様……」と呟きながら目に涙をためている。


「……私が織田家の当主なら――兄ではなく、私が次期当主であったら、そなたたち兄弟への待遇を疎かにはしないのだが。本当に残念だ。なぜ、父と兄は林家を軽んじておられるのであろうか」


 まるで呪縛のまじないを唱えるように、信勝は甘い甘い言葉をさえずる。美作守は、完全に信勝の術策に落ちていた。


(信勝様は我ら兄弟のことを分かってくれている。織田家の次期当主にふさわしいのは……信勝様やも知れぬ)




            *   *   *




 一方、同じ頃、弟の信勝が自分の留守中に謀計を巡らせていることなど想像すらしていない信長は――。


「明日は、いよいよ大浜に討ち入りか」


「はい。余力があれば、西吉良のあたりまで足をのばして焼き働きをいたしましょう」


 三河国内の味方の城で兵たちを休ませ、信長は平手政秀と明日のいくさの打ち合わせをしていた。


「大浜の内通者からは、何か報せがあったか?」


「いいえ。変事があれば、すぐに連絡が入る手はずですので、ご心配なく。信長様は、どうかごゆるりとお休みくだされ」


 政秀にもう休息するようにすすめられ、初めての行軍で少し疲れていた信長は素直に「うむ」と頷いた。


 しかし、そんな時、側近の山口やまぐち教吉のりよしが青い顔をして部屋に現れ、「一大事です!」と報告したのである。


「何事だ」


 信長は一大事と聞いてもそれほど慌てることなく、静かにそう問うた。心配性なところがある教吉は、些細なことでも大事にとらえてしまう癖があるため、まずは話を詳しく聞かねば本当に一大事か分からないと思ったのだ。


那古野なごや城の林様から先ほど書状が届きました。昨夜、恒興つねおき殿が城から消えたそうです。林様の愛馬も厩舎からいなくなっているので、恐らく林様の馬に乗って勝手に出陣したのだと思われます」


「何だと? あの愚弟め……」


「『どうしても信長様と共に初陣を飾りたい』と駄々をこねていましたからね……」


 どうやら、今回はそれなりに大事のようである。


 林秀貞は、信秀から留守居を命じられる直前までは信長の初陣に自分も従軍する気満々で、わざわざ値の張る駿馬を購入までしていた。恒興は、秀貞が新しく買ったその駿馬を勝手に連れ出し、こちらに向かっているらしい。


「高価な馬を買ったのに留守番を命じられるわ、その馬を恒興にかっさらわれるわ、秀貞の奴も散々だな……。恒興がここに来たら、二、三発ぶん殴って叱ってやらねば」


 温厚な秀貞ならば「恒興を切腹させろ」などと騒ぎはしないだろうが、普通、家老の愛馬を盗んだら命はないだろう。恒興は、「自分は若殿の乳兄弟だからどうせ罰せられない」と考えているのかも知れない。


 実際、信長は、秀貞には気の毒なことをしてしまったとは思いつつも、自分が恒興を数発殴るだけでこの一件を片付けようとしているみたいだった。


(信長様は聡明な若様だが、幼い頃から身内愛が強すぎるところがある。弟分である恒興に厳しい処罰を下したくないという気持ちは分からぬではないが、ここで恒興をきちんと罰しておかねば、身内への情愛に引きずられ過ぎる癖が信長様にできてしまう。ここは一言、釘を刺しておいたほうがいいだろう)


 長年付き添っている傅役もりやくには、信長の考えていることなどお見通しだったらしく、政秀は「それだけでは足りませぬ、信長様」と少し厳しい口調で言った。


「尾張に帰還後は、たとえ林殿が許したとしても、恒興には長期の謹慎処分を言い渡すべきです。林殿は信長様の一番家老。彼を愚弄するのは、信長様を愚弄するのと同じです。弟のように可愛がっている恒興相手でも、心を鬼にして接してください」


「むっ……」


 信長は一瞬眉をひそめたが、どうやら、そうするべきなのが最善だと自分でも分かってはいたらしい。特に反抗の色を見せることもなく、「……平手のじいの言う通りじゃ」と大人しく諫言を受け入れた。


「秀貞は、俺にとって大事な家老の一人……。この一件は、秀貞の誇りを傷つけぬように対処するべきだ。

 あいつはちょっと頼りないところもあるが、人あたりが良くて他者に好かれやすい。その人望を活かして、尾張国内の豪族たちの多くを懐柔するという大役を果たしてくれた。父上も『俺の幼友達は、ああ見えて織田家に欠かせぬ人材だから、お前も大事にせねばならんぞ』といつも仰っている」


「はい。信秀様は、秀貞殿のその温厚な人柄に信を置かれているのでしょう。そんな信用できる林殿だからこそ、安心して城の留守を任せることができるのです。林殿は間違いなく、織田家の重鎮。家中で一番家老の林殿を軽んじて侮辱するような真似をする者があったら、厳しく諌めねばなりませぬ」


「そうだな。恒興可愛さのあまり、危うく公平性を欠く行いをするところであった。爺よ、よくぞ諫言してくれた。お陰で目が覚めたぞ」


 信長は、素直に反省の言葉を述べた。


 だが、やはり心の中では、単独行動を取っている恒興の身を密かに心配していたのである。恒興は、昔から呆れるほど方向音痴なところがあるからだ。


(俺の陣地を見つけられず、単騎で敵地に迷いこまなければよいのだが……)




            *   *   *




 翌日の早朝。三河安祥あんじょう城に本軍を駐屯させている信秀は、柴田しばた勝家かついえからとんでもない報告を耳にしていた。


「何だと⁉ 広忠ひろただを救援するために岡崎おかざき城入りしていた長田おさだ重元しげもとの軍が、城から消えているというのか!」


「はい。我が隊が岡崎に放った間者の報告によると、長田軍の軍旗が城内に見当たらぬとのことです。どうやら、一昨日の夜には闇に紛れて城を出て、かなりの急行軍で自領へ向かったようです。このままでは、信長様の部隊は大浜で長田勢の待ち伏せを受けるかと……」


「重元に我が軍の動きが読まれていたというのか? ……いかん、いかんぞ。信長の部隊は、領主不在の敵地を焼き働きすることだけが任務だったゆえ、兵数はそれほど多くない。もしも、武勇の誉れ高い重元軍に全力で襲われたら……」


「虚を突かれて壊滅、信長の討ち死にもあり得るぞ」


 そう鋭く言ったのは、弟の信光のぶみつである。信秀は「そんなことはさせるかッ」と喚きながら、勢いよく立ち上がった。


「い……今すぐ救援の部隊を……全軍で信長を助けに行く!」


「待たぬか、信秀。少し落ち着け。恐らく、戦闘はあと数刻以内に始まる。足が遅い大軍で救援に向かっても、絶対に間に合わぬぞ。一騎当千の武者に少数精鋭の部隊を率いさせ、信長が討ち死にする前に救い出すのじゃ」


 織田玄蕃允げんばのじょう秀敏ひでとし(信長の大叔父。信秀の叔父)が、今にも城から飛び出しそうな信秀の腕をつかみ、叱りつけるようにそう言った。いつも飄々としている秀敏も、大切な世継ぎの危機とあって、さすがに厳しい顔つきをしている。


「一騎当千の武者といえば、俺か権六ごんろく(柴田勝家)だな。よし、俺が甥を助けに行こう」


「い、いえ、ここは拙者にお任せください。織田家の一門衆である信光様にもしものことがあれば、それこそ一大事です」


「こらこら、二人とも待て。どいつもこいつも猪すぎて困る。我が軍には、疾風はやてのごとく先陣を切って数々の戦場で一番槍を飾ってきたあの男がいるではないか。あいつほどに兵を迅速に動かし、少人数の部隊の指揮を任せるのにふさわしい将はおらん。あの男に――最初槍はなやり造酒丞さけのじょうに任せるべきじゃ」


 秀敏がそう言うと、信光は「なるほど、造酒丞か。あの者ならば……」と納得した。信秀も頷き、


「誰かある! 最初槍はなやりの勇者をここに呼べッ!」


 と、織田軍の秘密兵器を呼ぶのであった。







<最初槍の勇者・造酒丞について>

あまり知られていない織田家の初期武将たちの中でも勇猛をはせた重要人物が、織田造酒丞(織田一族じゃないけど、織田姓を賜った)という男ですぞ。『太閤記』には、「仁義の男、真忠の志篤く、戦いにおいても最初槍はなやり六度の勇者だった」と書き記されている猛者だったようですぞ。

異名が中二病設定っぽいですが、某槍の勇者とは無関係なのであしからず、ですぞ。

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