くら姉上、再び
父からの出陣命令を受けた信長は、
居城である
そんな出陣騒ぎの中、自室において信長は、
「もう出陣される直前でしたか。間に合ってよかった。
「うむ。あと半刻(約一時間)もしたら出陣するところだったのだ。出陣前にお前に会えて嬉しいぞ、信勝」
鎧姿の信長は、紅色の横筋が織り入れられた頭巾を被り、若武者にふさわしい煌びやかな陣羽織を身にまとっている。
「兄上、どうかご無事で。初陣だからといって、無理をしないでください」
「無理も何も、今回の
信長は少し不服そうに言った。父の信秀の「初陣の準備をゆめゆめ怠るな」という言葉を守り、ずっと気を引き締めていたのだが、敵将が留守にしている領地をちょっと荒らしてくる程度だと聞いて拍子抜けしているのである。
織田
信秀は跡継ぎの信長を危険な戦場に投入したくなくて、安全な場所を攻めさせようとしているのだろうが、それでは父や織田家の役に立てたという実感がわかないのである。
「……それで、母上のお加減はどうなのだ。母上は、俺への伝言をお前に何か託してくれたか?」
しばし歓談した後、信長は少しためらいながら信勝にそう聞いた。二人きりの時はなるべく両親の話をしないのが兄弟の暗黙の了解なのだが、今回ばかりはたずねずにはいられなかったのである。産後の疲れで寝込んでいる母の身が心配だったし、初めて戦に赴く自分に対して母が何か言葉をかけてくれたかも知れないと思ったのだ。信勝のほうから言い出してくれるのをずっと待っていたのだが、弟がそのような話をする素振りがいっこうになかったため、我慢ができなくなって質問してしまったのだが……。
「申し訳ありません。母上は今もあまり体調が……。気弱な母上に心労をかけてはならないと思い、兄上に出陣の命令が下されたこともまだお伝えしていないのです」
信勝が残念そうな表情を作ってそう答えると、信長は顔を曇らせて「デアルカ……」と呟いた。
(出陣前に母上への手紙を信勝に託そうと思っていたのだが、そういうことならやめておいたほうがいいな……)
信秀が出陣するまで古渡城にいたお徳の話によると、春の方は少しずつではあるが回復しつつあると聞いていたのだが、あれからまた体調が悪化してしまったのかも知れない。別々の城で暮らしていて親孝行の一つもできていない母に余計な心配をかけるぐらいなら、このまま黙って出陣したほうがいいだろう……。信長は、自分にそう言い聞かせていた。
「……さて、そろそろ出陣の儀式を行う時間だ。行ってまいる」
「はい。では、私はこれにして失礼いたします」
気まずい空気に耐えかねるように、兄弟がそろって腰を上げた。
その直後、近くの廊下でドタバタと騒がしい音が聞こえてきた。何やら、
「ちょっとーっ! そこをどいてちょうだいよ、林! 私は信長殿に会いに来たんだから!」
「い、いけませぬ、くら様! 初陣前の信長様に
「私に穢れなんてないわよ!」
「そのぽっこりと出たお腹は何ですか⁉ ご懐妊なさっているのでしょう! 妊婦は出陣前の武将に触れては……」
「信長殿に抱きついたりしなかったらいいのでしょう? ごあいさつするだけだから、さっさとそこをどきなさい!」
「許可できませぬ! 私は信長様の一番家老なのです、言うことを聞いてくだされ!」
「私は信長殿の姉よ! そっちこそ言うことを聞きなさい! 邪魔ッ!」
うわぁぁぁという叫び声と何かが庭に転げ落ちる大きな音がした。どうやら、秀貞が廊下から突き落とされたらしい。
「信長殿、お久しぶりですね! あなたが初陣すると聞きつけて、激励に来ましたよ!」
邪魔者を排除した暴れ馬の妊婦――信長の姉のくらが、太陽のように明るい笑顔で信長の部屋に駆けこんで来た。身重の体だというのに、まるで背中に翼でも生えているような軽やかな足取りである。
「お久しぶりです、姉上。相変わらず、姉上は伸び伸びとしていますね」
信長は、突然現れたくらに驚きつつも、そう言って穏やかに微笑んだ。
自分が幼い頃に
(何だか嬉しいな。俺にとって、姉上は永遠に変わらぬ心の故郷のようなものだ)
そんなことを考えながら、信長はニコニコと笑っているくらに微笑み返した。
年の離れた姉であるくらはすでに二十歳を超えているが、気持ちが若い……というより幼いせいか、大橋家に嫁いだ十代の頃とあまり見た目が変わっておらず、瑞々しい少女の面影を残している。
「夫の清兵衛殿にうんと甘やかしてもらっていますからね。清兵衛殿は、私のお願いなら何でも言うことを聞いてくれるのですよ。『可愛い弟が初陣を飾るから、弟のお気に入りの武器をたくさん持たせてあげたいです』と頼んだら、津島港にいた上方の商人たちから鉄放七
「おお、鉄放ですか。ありがたい。城主が不在の領地に攻め込むので使える場面があるかどうか分かりませんが、お守りがわりに持って行きます」
信長が喜んでそう言うと、信勝が「あの飛び道具がお守りがわりですか……」と冷笑した。信勝は、騒々しくてがさつなくらのことを昔から毛嫌いしているため、(この馬鹿な異母姉のやることはろくでもないことばかりだ)と決めつけているのである。
「撃つのに時間がかかる、音が無駄に大きいだけで命中しない……。戦場で役に立つ武器だとはとうてい思えませんが」
「信勝。姉上がせっかく持って来てくれたのに、そんな意地悪を言うな。
どんな武器でも、使いようによっては役に立つはずだ。何も試さぬ内から役立たずだと断じるのは、一軍を率いる大将がするべきことではないぞ」
「は、はあ……。申し訳ありませぬ」
信長の言葉に納得したわけではなかったが、こんなどうでもいいことで兄弟喧嘩になってしまっては自分の立場が危うくなると思い、信勝は頭を下げて謝った。兄に反旗を翻すのは、全ての準備が整ってからである。
「まっ、鉄放が扱いの難しい飛び道具だというのは本当ですけれどね。
でも、四年ほど前に
新しい武器を伝えたのは鬼みたいな顔の異人だったとか、足利将軍家が
どれもこれも曖昧な噂ばかりですが、そのうち尾張国にも入って来ることでしょう。何か新しい情報が津島港に入ったら、教えてあげますね」
信勝の嫌味などいっこうに気にしていない――というか気づいてすらいない――くらは、ポルトガル人伝来の「鉄砲」に関する情報を信長に伝えた。
この時点では、信長はポルトガル人のことも、南蛮式の火縄銃のことも、ほぼ無知に近い。だが、おのれの生涯に深く関わってくる予感が何となくしたのか、ぺちゃくちゃと喋る姉の一言一句に真剣な表情で耳を傾けていた。
「……なるほど。新式の鉄放が我が国に広がりつつあるのですか。それは注視しておかねばなりませんな。
鉄放という武器は、
人の一生は短いもの、死のうは一定です。たとえ一瞬の命であっても鮮烈に生き、与三右衛門のようにおのれの武名を後世に残せるような武将に俺はなりたい。俺にとって、鉄放は特別な思い入れのある武器です」
「そう言ってくれたら、大金をはたいて鉄放を購入した甲斐があるわ。でも、蛮勇を振りかざして無駄死にだけはしないでくださいね?
真の武士とは、『ここで命を賭けるために、自分はこれまで生きてきたのだ』と思えるような大事な場面でこそ、初めて決死の勝負に挑むものですよ。『ここは自分が死ぬべき戦場ではない』と感じたら、負け戦でも恥じずに必死に逃げてくださいね」
くらが、愛おしそうに目を細め、信長を見つめながらそう言う。信長は、小さな子供のように「はい」と素直に頷いた。幼い頃に慕っていた姉の前では、信長も童心に帰ってしまうようだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます