くら姉上、再び

 父からの出陣命令を受けた信長は、平手ひらて政秀まさひでの指導のもと、戦支度を速やかに整えていた。

 居城である那古野なごや城には、武闘派神職・千秋せんしゅう季忠すえただや那古野周辺の豪族たちが集い、城内は物々しい雰囲気に包まれていた。


 そんな出陣騒ぎの中、自室において信長は、古渡ふるわたり城から駆けつけた弟の信勝のぶかつと会っていた。


「もう出陣される直前でしたか。間に合ってよかった。熱田あつた神宮じんぐうで兄上の戦勝を祈願していたのですが、ついつい熱心に祈りすぎたため、予定よりも遅れて那古野に到着してしまいました……。危うく、兄上に会えなくなるところでしたな」


「うむ。あと半刻(約一時間)もしたら出陣するところだったのだ。出陣前にお前に会えて嬉しいぞ、信勝」


 鎧姿の信長は、紅色の横筋が織り入れられた頭巾を被り、若武者にふさわしい煌びやかな陣羽織を身にまとっている。武者むしゃはじめを行う信長のため、平手政秀が特別に作らせたもので、信長本人は知らないが相当な銭がかかっていた。


「兄上、どうかご無事で。初陣だからといって、無理をしないでください」


「無理も何も、今回のいくさはろくに戦闘もないまま終わりそうなのだ。平手のじいの話によると、領主の長田おさだ重元しげもとが岡崎城への救援に向かっている隙を突いて三河の大浜近辺を焼き払うらしい。ある程度の焼き働きをしたら、そのまま帰陣する予定だと聞いている。三河くんだりまで、ほとんど空き巣をしにいくようなものだ」


 信長は少し不服そうに言った。父の信秀の「初陣の準備をゆめゆめ怠るな」という言葉を守り、ずっと気を引き締めていたのだが、敵将が留守にしている領地をちょっと荒らしてくる程度だと聞いて拍子抜けしているのである。


 織田弾正忠だんじょうのちゅう家の嫡男にふさわしい華々しい初陣にするのだと平手政秀や内藤ないとう勝介しょうすけら家老たちは張り切り、兵たちの装備までいつもより華美にしているが、信長は(空き巣に行くだけなのに……)と困惑ぎみだった。

 信秀は跡継ぎの信長を危険な戦場に投入したくなくて、安全な場所を攻めさせようとしているのだろうが、それでは父や織田家の役に立てたという実感がわかないのである。


「……それで、母上のお加減はどうなのだ。母上は、俺への伝言をお前に何か託してくれたか?」


 しばし歓談した後、信長は少しためらいながら信勝にそう聞いた。二人きりの時はなるべく両親の話をしないのが兄弟の暗黙の了解なのだが、今回ばかりはたずねずにはいられなかったのである。産後の疲れで寝込んでいる母の身が心配だったし、初めて戦に赴く自分に対して母が何か言葉をかけてくれたかも知れないと思ったのだ。信勝のほうから言い出してくれるのをずっと待っていたのだが、弟がそのような話をする素振りがいっこうになかったため、我慢ができなくなって質問してしまったのだが……。


「申し訳ありません。母上は今もあまり体調が……。気弱な母上に心労をかけてはならないと思い、兄上に出陣の命令が下されたこともまだお伝えしていないのです」


 信勝が残念そうな表情を作ってそう答えると、信長は顔を曇らせて「デアルカ……」と呟いた。


(出陣前に母上への手紙を信勝に託そうと思っていたのだが、そういうことならやめておいたほうがいいな……)


 信秀が出陣するまで古渡城にいたお徳の話によると、春の方は少しずつではあるが回復しつつあると聞いていたのだが、あれからまた体調が悪化してしまったのかも知れない。別々の城で暮らしていて親孝行の一つもできていない母に余計な心配をかけるぐらいなら、このまま黙って出陣したほうがいいだろう……。信長は、自分にそう言い聞かせていた。


「……さて、そろそろ出陣の儀式を行う時間だ。行ってまいる」


「はい。では、私はこれにして失礼いたします」


 気まずい空気に耐えかねるように、兄弟がそろって腰を上げた。

 その直後、近くの廊下でドタバタと騒がしい音が聞こえてきた。何やら、はやし秀貞ひでさだが若い女と揉めているようである。


「ちょっとーっ! そこをどいてちょうだいよ、林! 私は信長殿に会いに来たんだから!」


「い、いけませぬ、様! 初陣前の信長様にけがれがついてしまいます!」


「私に穢れなんてないわよ!」


「そのぽっこりと出たお腹は何ですか⁉ ご懐妊なさっているのでしょう! 妊婦は出陣前の武将に触れては……」


「信長殿に抱きついたりしなかったらいいのでしょう? ごあいさつするだけだから、さっさとそこをどきなさい!」


「許可できませぬ! 私は信長様の一番家老なのです、言うことを聞いてくだされ!」


「私は信長殿の姉よ! そっちこそ言うことを聞きなさい! 邪魔ッ!」


 うわぁぁぁという叫び声と何かが庭に転げ落ちる大きな音がした。どうやら、秀貞が廊下から突き落とされたらしい。


「信長殿、お久しぶりですね! あなたが初陣すると聞きつけて、激励に来ましたよ!」


 邪魔者を排除した暴れ馬の妊婦――信長の姉のが、太陽のように明るい笑顔で信長の部屋に駆けこんで来た。身重の体だというのに、まるで背中に翼でも生えているような軽やかな足取りである。


「お久しぶりです、姉上。相変わらず、姉上は伸び伸びとしていますね」


 信長は、突然現れたに驚きつつも、そう言って穏やかに微笑んだ。


 自分が幼い頃に津島つしまの有力豪族・大橋おおはし清兵衛せいべえに嫁いだ、最愛の姉。昔は一緒に悪戯をして平手政秀や林秀貞に叱られてばかりいたが、十年ほどの歳月が流れた今でも奔放な性格は全く変わっていないようである。


(何だか嬉しいな。俺にとって、姉上は永遠に変わらぬ心の故郷のようなものだ)


 そんなことを考えながら、信長はニコニコと笑っているに微笑み返した。

 年の離れた姉であるはすでに二十歳を超えているが、気持ちが若い……というより幼いせいか、大橋家に嫁いだ十代の頃とあまり見た目が変わっておらず、瑞々しい少女の面影を残している。


「夫の清兵衛殿にうんと甘やかしてもらっていますからね。清兵衛殿は、私のお願いなら何でも言うことを聞いてくれるのですよ。『可愛い弟が初陣を飾るから、弟のお気に入りの武器をたくさん持たせてあげたいです』と頼んだら、津島港にいた上方の商人たちから鉄放七ちょうとたくさんの火薬を購入してくれました。大橋家の家来たちに城内へ運ばせたので、戦で思う存分に鉄放をぶっ放してきなさいな」


「おお、鉄放ですか。ありがたい。城主が不在の領地に攻め込むので使える場面があるかどうか分かりませんが、お守りがわりに持って行きます」


 信長が喜んでそう言うと、信勝が「あの飛び道具がお守りがわりですか……」と冷笑した。信勝は、騒々しくてがさつなのことを昔から毛嫌いしているため、(この馬鹿な異母姉のやることはろくでもないことばかりだ)と決めつけているのである。


「撃つのに時間がかかる、音が無駄に大きいだけで命中しない……。戦場で役に立つ武器だとはとうてい思えませんが」


「信勝。姉上がせっかく持って来てくれたのに、そんな意地悪を言うな。青山あおやま与三右衛門よそうえもん斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)を相手に鉄放を使って奮戦して、父上たちを美濃から逃がしたという話だ。それに、美濃軍の伏兵の存在を知らせたのも、織田軍の一兵卒が放った鉄放だったという。

 どんな武器でも、使いようによっては役に立つはずだ。何も試さぬ内から役立たずだと断じるのは、一軍を率いる大将がするべきことではないぞ」


「は、はあ……。申し訳ありませぬ」


 信長の言葉に納得したわけではなかったが、こんなどうでもいいことで兄弟喧嘩になってしまっては自分の立場が危うくなると思い、信勝は頭を下げて謝った。兄に反旗を翻すのは、全ての準備が整ってからである。


「まっ、鉄放が扱いの難しい飛び道具だというのは本当ですけれどね。

 でも、四年ほど前に種子島たねがしまに伝わったという、鉄放によく似た新しい武器だったらもう少し戦場で役立つかも知れませんよ? まだ実物は見たことがありませんが、津島港にも色々とその武器の噂は入って来ています。

 新しい武器を伝えたのは鬼みたいな顔の異人だったとか、足利将軍家が国友くにとも村(現在の滋賀県長浜市国友町)の鍛冶職人たちにその武器の製造をすでに命じているらしいとか……。

 どれもこれも曖昧な噂ばかりですが、そのうち尾張国にも入って来ることでしょう。何か新しい情報が津島港に入ったら、教えてあげますね」


 信勝の嫌味などいっこうに気にしていない――というか気づいてすらいない――は、ポルトガル人伝来の「鉄砲」に関する情報を信長に伝えた。

 この時点では、信長はポルトガル人のことも、南蛮式の火縄銃のことも、ほぼ無知に近い。だが、おのれの生涯に深く関わってくる予感が何となくしたのか、ぺちゃくちゃと喋る姉の一言一句に真剣な表情で耳を傾けていた。


「……なるほど。新式の鉄放が我が国に広がりつつあるのですか。それは注視しておかねばなりませんな。

 鉄放という武器は、武士もののふの生きざまに似ていると俺は思っています。猛々しい轟音とともに一瞬の火花を咲かせ、敵へと翔んで行く……。我が三番家老の青山与三右衛門も、鉄放の弾丸のごとく、儚くも激しく散っていきました。

 人の一生は短いもの、死のうは一定です。たとえ一瞬の命であっても鮮烈に生き、与三右衛門のようにおのれの武名を後世に残せるような武将に俺はなりたい。俺にとって、鉄放は特別な思い入れのある武器です」


「そう言ってくれたら、大金をはたいて鉄放を購入した甲斐があるわ。でも、蛮勇を振りかざして無駄死にだけはしないでくださいね?

 真の武士とは、『ここで命を賭けるために、自分はこれまで生きてきたのだ』と思えるような大事な場面でこそ、初めて決死の勝負に挑むものですよ。『ここは自分が死ぬべき戦場ではない』と感じたら、負け戦でも恥じずに必死に逃げてくださいね」


 が、愛おしそうに目を細め、信長を見つめながらそう言う。信長は、小さな子供のように「はい」と素直に頷いた。幼い頃に慕っていた姉の前では、信長も童心に帰ってしまうようだ。

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