母の想い

「母上。お加減はいかがですか? さあ、薬湯を飲んでください」


「ありがとう、信勝のぶかつ。だいぶ良くなりました。……あなたは優しい子ですね。いつもあなたがそばにいてくれて、母は嬉しいですよ」


 ここは、古渡ふるわたり城の奥御殿。


 勘十郎かんじゅうろう信勝(信長の同母弟)は、お市を出産してから体調をずっと崩している母・春の方を見舞っていた。あまり体が丈夫ではない春の方は、昔から子供を産むたびにしばらく寝込んでしまう癖があり、今回は夫の信秀が出陣する前日まで寝床から起き上がれなかった。


「息子が母に尽くすのは当たり前です。病の母を放ったらかしにするような親不孝者は、天罰が下って長生きはできないでしょう」


「……それは、信長のことを言っているのですか?」


 薬湯を飲み終えた春の方は、不安げに信勝の顔をのぞく。信勝はいつもと変わった様子はなく、温厚そうな笑みを浮かべて母を見つめている。


「まさか。ただの物の例えですよ。兄上はもうすぐ初陣で忙しいのですから、頻繁にこの城に来られないのは当然です。それに、ついこの間、兄上は、お市の顔を見るついでに母上を見舞われたではないですか。この私が、兄上にそのような不遜なことを言うわけがありません」


「そうですか。……そうですよね。それを聞いて安心しました。今は兄弟仲良しですが、昔の二人はとにかく険悪だったので少し不安になったのです。おかしなことを言って、申し訳ありません」


「さあ、母上。もう横になってください。いくら回復したといっても、本調子になるまでは無理をしてはいけません」


 信勝は優しい声音でそう言いながら、春の方の華奢な肩と背中を持ち、ゆっくりと寝床に寝かせた。


「お願いだから、これからも兄のことを支えてあげてくださいね。信長は……あの子は、可哀想な子なのです。厳しいお父上の目を気にして、甘えたい盛りの幼い頃に母である私に近寄ることがほとんどできませんでした。母の温もりを知らず、あの子は信秀様の期待に応えるために武芸や学問ばかり……。

 信勝。あなたは、ずっと母のそばにいられたでしょう? 兄の信長が母親に甘えられなかった分、母の愛を受けて育った弟のあなたが信長のことを助けてあげてください。元服して大人になったあの子に、無力な私がしてあげられることなど、もう何もないでしょうから……」


 遠く離れて暮らしていても、初めて腹を痛めて産んだ我が子のことが心配なのだろう。春の方は涙ぐみながら、切々と信勝に訴えた。信勝は手を握り、「ご安心ください」と答える。


「明日の早朝、熱田あつた神宮じんぐうで兄上の戦勝祈願をして、その足で那古野なごや城に行って来ます。母上が兄上のことを気にかけておられることも、ちゃんと伝えてきますから」


「おお……。出陣前の兄に会いに行ってくれるのですね。ありがとう、信勝。……では、侍女に託そうと思っていた守り袋を信長に手渡してくれますか?」


「守り袋、ですか?」


 信勝が首を傾げると、春の方は枕元に置いていた錦布の袋を信勝に渡した。それはあでやかな金銀の刺繍が施されていて、元々は女性用の掛守かけまもり(首にかける守り袋。護符を筒形の器に入れて、錦布で包んだもの)に使っていた布のようである。


「それは、私が若い頃に母からもらった掛守の布を裁断し、織田家の家紋である五つ木瓜紋もっこうもんの刺繍を施して作り直した守り袋です。中には、熱田神宮の護符と小さな火打石ひうちいしが入っています」


「火打石? ああ……日本武尊やまとたけるのみことの神話ですね」


 日本神話の英雄である日本武尊は、相模さがみの国で敵の火攻めに遭い、危機に陥ったことがある。その時、日本武尊は、敬愛する叔母の倭姫命やまとひめのみことから「もしもの時にはこれを開けなさい」と言われて貰っていた袋を取り出した。袋には火打石が入っており、日本武尊はその火打石で向かい火をたいて炎の向きを変え、虎口を脱したという。

 春の方は信長の無事を祈り、我が子が日本武尊のごとき武神になれることを願って、自らが作った守り袋に火打石と熱田神宮の護符を入れたのだ。


「……なるほど。熱田神宮は日本武尊ゆかりの神社ですからね。二重で縁起がいいでしょう。分かりました、私が責任をもって兄上に届けましょう」


「お願いしますね、信勝。……あっ、それを作ったのは産後三十日を過ぎてからなので、お産によるけがれはないはずです。でも、いちおう心配ですから、平手ひらて殿に相談してから信長に手渡してください。大事な初陣前のあの子に穢れがついてしまったら、いけませんからね」


 戦国武将は、出陣前に様々な縁起かつぎをする。また、「穢れ」が戦場に赴く前の身につくことを忌んだ。

 たとえば、妊婦や産後三十日以内の女は武将の戎衣じゅうい(戦衣)に触れてはいけなかったし、出陣直前の三日間は性行為すら禁止だった(出陣後に陣営で遊女を抱くのはよかったらしい)。


「承知しました。万事この信勝に任せて、母上はゆっくりと休んでいてください」


 信勝は守り袋を懐に入れると、美しい母の豊かな黒髪をそっと撫で、柔和な笑みを見せるのであった。




            *   *   *



 次の日。信長が出陣する当日――。


「おう、信勝様。よくぞお参りに来てくださった。私は信長様に従軍すべく急ぎ那古野へ赴かねばなりませんので、まあ適当に社殿でお祈りをしておいてくだされ」


 熱田神宮に参った信勝は、鳥居の前で薙刀を担いだ鎧姿の若者とばったり出会った。

 やたらと眉毛が太く暑苦しい顔のその若者は、乱暴にそう言い捨てると、兵たちを引き連れて、雄叫びを上げながら走り去って行く。


「……あんな荒々しい男が熱田神宮の新しい大宮司だいぐうじ(神社の神職の長)とはな。あれで、祝詞をちゃんと唱えられるのか?」


 信勝は呆れ返り、遠ざかって行く鎧武者の背中に軽蔑の目を向けた。


 うおお、初陣だ、初陣だぁ、という猛々しい声が鎮守の森にこだます。あのような猪では、どうせ父親と同じように戦場で早死にすることだろう。


 参拝客の信勝を放ったらかしにして那古野城へと向かった若武者の名は、千秋せんしゅう季忠すえただ。信長と同年生まれの十四歳。

 父である千秋季光すえみつは、熱田神宮の大宮司にして信秀に仕える武将であった。先年、季光が美濃攻めで討ち死にし、兄の季直も夭逝してしまったため、弟の季忠が大宮司の職を若年ながら受け継いでいたのだ。そして、父と同じく「武闘派神職」という道を自ら選び、初陣に挑もうとしていた。


「言われた通り、適当に祈願させてもらうさ。我が兄の戦勝祈願を適当に、な」


 信勝はフンと鼻で笑い、さっさと参拝を済ませ、熱田神宮を後にした。


 兄の勝利など祈っていない。神前で手を合わせながら、「どうせなら流れ矢に当たって死んでくれ」と思っていた。


「……ま、あの父が討ち死にの可能性があるような戦場で兄に初陣を飾らせるわけがないか。父は跡継ぎである兄の教育に厳しい反面、反吐が出るくらいに過保護だからな」


 信勝はそう呟きながら、木に繋いでいた馬に飛び乗る。そして、懐をまさぐって、母から託された守り袋を取り出した。


「母も結局は信長、信長、信長か。病弱だった体を必死に鍛えても、学問をどれだけ励んでも……俺はしょせん居ても居なくてもいい息子なのだ。父と母の一番は、あの兄であることに変わりはない。母上は……母上だけは……俺だけの親でいて欲しかったのに」


 ブツブツと独り言を続けながらも、信勝は笑みを崩さない。たとえ一人であろうと、その笑顔の仮面を外さぬように心がけているのだ。

 ……だが、感情が昂るあまり、心の内の歪みが滲み出てしまっているようである。母に見せていたような爽やかな笑顔ではなく、海の底の闇のごとき仄暗い笑みになっていた。


「正室が最初に産んだ男子というだけではないか。恵まれ過ぎなんだよ、あいつは。……いつか必ず取って代わってやる」


 信勝は壊れたようにクックックッと笑うと、馬腹を蹴って走り出した。そして、那古野城への道のりを駆けながら、守り袋を力いっぱいに遠くへと放り投げる。


「織田弾正忠だんじょうのちゅう家の次期当主となるのは、この俺だ」

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