初陣の相手は
ついに、信秀率いる尾張衆の本軍が西三河へと侵攻した。
作戦拠点は、先年に占拠した
信秀は安祥城に腰を据え、西三河の諸城に部隊を派遣、続々と反抗勢力を下していった。
今川軍の
広忠とて、この最悪の状況を何もせずに静観するわけにはいかない。数名の武将たちに軍勢を率いさせ、
「自ら軍勢を率いて来ぬとは、広忠の腰抜けめ。雑魚どもに、『一段の
信光は
愛馬を猛然と疾駆させて太刀を打ち振り、戦場に紅き雨を降らしていく。悪鬼羅刹のごとき強さを発揮し、開戦早々に名のある三河武士が三人も信光の刃に血を吸われた。
勝家も後に続き、巧みな槍術で数多の敵兵を討ち取っていく。動きがとろそうな熊のような見た目なのに、とても繊細で俊敏な槍さばきである。
「おう、
「ハハッ! 有り難き幸せ! 信光様のごとき猛将となるのが拙者の夢です!」
三河兵たちの阿鼻叫喚の声が響き渡る戦場で、信光と勝家はワハハハと笑い合った。そして、すぐに、一方的な殺戮を再び開始する。二人の闘将の獅子奮迅の働きにより、三つ葉葵の軍旗はことごとく赤く血に染まるのであった。
「フン、たわいもない。敵兵どもが、我先にと逃げていくぞ。三河武士がいくら屈強ぞろいでも、家来たちを上手くまとめることもできぬ広忠が主君では、実力の半分も出せぬようだな。アハハハハ!」
朽ちた老木を斧でぶった切るかのごとく、織田軍は広忠の兵を容易く撃破した。こうなると、矢作川以西の西三河地域は織田軍の奪いたい放題である。去就を迷っていた国人領主たちも、続々と信秀に帰順し始めた。
かくして、雪斎が危惧していた「信秀ががんばりすぎる」という事態が発生してしまったのである。
攻囲中の今橋城で信秀軍の快進撃の報を聞いた雪斎は、
「早い。早過ぎる……」
と呟き、おのれが発案した今川・織田同盟が裏目に出つつあることに焦りを感じた。
信秀は、やはり常人ではない。まるで、燃え盛る火の玉のような男だ。しくじった時の危険すら顧みず、敵地に大猛攻を仕掛ける大胆さを持っている。美濃攻めではその向こう見ずな勇気が大敗を招いたが、今回の三河攻めでは吉と出たようである。
「たとえ信秀の軍勢が我らとの協定を守って矢作川を越えなくても、織田軍の圧力に耐えかねた広忠が信秀に従属してしまう恐れもある。何とか半月以内にはこの城を落とし、今川軍も戦果を上げなければ……」
だが、今橋城の戸田兵を屈伏させても、戸田氏の本拠地である田原城はいまだに健在である。
「壁に向き合い坐禅を組んでいたあの頃とは違うのだ。壁を突き破らねば、前へは進めぬ。……全軍に命ずる。総がかりで城を攻め落とせッ!」
雪斎は、自ら陣頭に立って総攻撃を開始した。
すでに、今橋城の外構えは
* * *
「信秀殿。
「そうじゃ、そうじゃ。広忠はおのれこそが松平一族の棟梁だと己惚れておるが、
安祥城の軍議の席で、さっきから岡崎攻めを声高に主張している二人の武将がいた。広忠の叔父・松平信孝と佐々木松平家の当主・松平
松平には、多くの分家がある。しかし、後に徳川宗家となる安祥松平氏に対する分家の人々の尊崇の念は高いとは言えない。なぜなら、つい四十年ほど前までは、安祥松平氏もたくさんある庶家の一つに過ぎなかったからである。松平一族の本来の宗家は、
だった。
戦国時代の黎明期、西三河で勢力を拡大させたのが松平信光――岩津松平氏の祖である。彼には男女四十八人の子供がいたという伝承があり、男子たちに城を分け与えて分家を立てさせた。そのたくさんの分家の一つが、安祥松平家だったのである。
しかし、この岩津松平氏は現在断絶してしまっている。永正五年(一五〇八)、今川家の庇護者であった
それ以降、安祥松平氏が松平一族の惣領的な立場になっていったのだ。しかし、他の松平の人々にしてみたら、ついこの間までは同じ庶家だった安祥松平に宗家面をされるのは面白くない。隙あらば取って代わってやろうと考える者たちも少なからずいたのである。
(当主が強ければ、独立心旺盛な分家たちをおさえることもできるだろうが……。広忠には松平一族を統率するだけの資質がないようだな。哀れなほどにバラバラだ。大器を備えた人物が松平家の惣領にならねば、この一族は心が離ればなれになったままいずれ滅びていくであろう)
信秀は、うるさく吠えて「打倒広忠」を訴える信孝と忠倫を冷ややかな目で見つめながら、そんなことを考えていた。いちおう味方ではあるが、同族の広忠を血祭りに上げたがっている彼らを見ていると、苦々しい思いが胸中に広がる。
尾張の織田一族も、けっして一枚岩というわけではない。過去には同族同士で争っていたこともあった。今は信秀を中心にして結束してはいるが、信秀が突然この世からいなくなった場合、醜い骨肉の争いが起きる可能性は十分にある。その時、信長は織田家の内訌をおさめることができるであろうか……。
(いかん、いかん。俺はまだ三十七歳ではないか。縁起でもないことを考えている場合ではない。健康体の俺は、少なくともあと二十年は働けるはずだ)
不吉な想像を頭から追い払うと、信秀は「矢作川を越えるわけにはいかぬ」と信孝・忠倫に言った。
「今川との約定があるゆえ、今回は堪えてくれ。いずれ、近い内に岡崎城を攻める時が来るであろう。その時には、おのおのがたに思う存分働いてもらうつもりだ」
「む、むむむ……。そのような約定、さっさと破ってしまえばよろしいのに。今川軍はいまだに今橋城で苦戦しているようですし、今ならば誰の邪魔もなく岡崎城を攻撃できますぞ」
好戦的な性格の忠倫が不満げにそう呟いたが、信秀は取り合わなかった。
本音を言えば、信秀も、この機に乗じて岡崎城に攻め込みたいのである。忠倫の言う通り、今川の邪魔が入らない今こそが攻め時なのだ。
……しかし、信秀は
それに、信秀には、別に考えねばならない大事なことがある。それは、嫡男の信長にどこの戦場で初陣を飾らせるか、ということだ。
「とにかく、今は、矢作川以西でまだ我らに従っていない勢力を一掃することに力を注ごう」
信秀は半ば強引に話題を変えると、三河国の地図に目を落とし、初陣の信長が戦うのにちょうど良さそうな敵はいないものか……と探した。
「ふむ、そうだな……。大浜(現在の愛知県碧南市音羽町)の砦の
大浜は古くから港町として栄えている地である。松平広忠にその重要な拠点の守りを任されていたのが、
長田重元
という男であった。彼こそが織田信長の初陣の相手となる武将なのだが、現代においてその名を知る人は少ない。
ただし、その先祖と子孫は歴史上重大な足跡を残しているので、ここに記しておこう。
先祖は、
そして、戦国を生き抜いた長田家(後に永井に改名)の末裔こそが――文豪の
かくして、日本史最大の英雄・信長は、日本文学史の巨頭二人の先祖と初陣を戦うことになる。
※太田牛一の『信長公記』には、信長の初陣について簡略に記しているだけで、対戦相手となった武将の名前は記録されていません(「駿河の軍勢」と曖昧に書かれているだけ。でも、この時点で今川軍の息のかかった部隊が西三河にいるのはおかしいのでは? という意見もある)。
ただ、初陣の信長が攻め込んだ大浜の地域を当時支配していたのは、長田重元だったようです。愛知県碧南市の民話によると、信長と長田重元が戦い、戦後に戦没者たちを弔う十三の塚が作られたといいます(碧南市民図書館のホームページより)。
一次史料ではありませんが、今作品ではこの碧南市の民話を採用して信長の初陣を描いていきたいと思います。脚色はかなり入りますが……。
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