信秀の側室

 天文十六年(一五四七)春。


 尾張守護・斯波しば義統よしむねを説得することに成功した信秀は、早速、弟の織田孫三郎信光のぶみつ、重臣の柴田しばた権六ごんろく勝家かついえらを先遣隊として西三河へ派遣し、松平信孝のぶたか(広忠の叔父)・同忠倫ただとも(佐々木松平氏)ら反広忠派の三河豪族たちと合流させた。


 総大将である信秀の居城・古渡ふるわたりには、尾張国内の軍勢が続々と集結しつつある。上半国守護代の織田伊勢守いせのかみ信安のぶやすも、義兄の信秀を助けるために、麾下の武将たち数名――織田宗伝そうでん(犬山城主・寛近とおちかおきなの弟)や生駒いこま家長いえなが家宗いえむね父子らを援軍として送ってくれるという。


「戦巧者の寛近の翁には参謀として従軍してもらいたかったが、美濃のまむしは油断ならぬ男じゃ。北の守りをがら空きにするわけにはいかぬからな。やむを得ぬが、今回は、翁には犬山城で留守番してもらおう。

 ……信長よ。俺は数日後には出陣するが、お前も時期が来たら戦場に呼ぶつもりだ。お前にとっては初陣となる大事ないくさじゃ、ゆめゆめ準備を怠るでないぞ」


 信秀は、新年に生まれたばかりの娘――お市を不器用な抱き方であやしながら、信長にそう言った。


 昨年から那古野なごや城主を務めている信長は、もうすぐ出陣する父への陣中見舞いのため、そして、妹のお市の顔を見るために、お徳・恒興つねおき母子を連れて古渡城にあいさつに来ていた。


「はい、父上。織田弾正忠だんじょうのちゅう家の跡継ぎとして、恥ずかしくない初陣を飾ってみせます」


「うむ。平手ひらて政秀まさひでを後見につけるゆえ、戦の駆け引きというものをしっかりと学ぶがよい。

 あと、なるべく大勢の家臣たちも付けてやる。家督を継ぐまでにコツコツと戦の経験を積んで、当家の智将猛将たちを縦横無尽に使いこなすことができる大将に成長するのだ。

 人間という者は、怠け者以外は何とでも使いようがある。戦場において、数多いる家臣たちの才を限界まで活かしきってやることこそが、君主の役割だ。そのことをけっして忘れるな」


「ハハッ。しょう全機現ぜんきげんなり、死は全機現なり。おのれだけでなく、家臣たちの全力も引き出せるような、立派な大将になれるようがんばりまする」


 信長が勇ましい声で返事をすると、信秀は満足げに頷き笑った。

 その直後、信秀の懐の中で眠りかけていたお市が急に火のついたように泣き出した。やはり、抱き方が悪かったらしい。


「む、むむ? 何だ、どうした? お市よ、泣くな。腹が減ったのか? お春(信長・信勝・お市の生母)は出産の疲れでまだ寝込んでいるし、こんな時に限って乳母までそばにおらぬ。困ったなぁ……」


「信秀様。私にお任せくださいませ」


 信秀が困り果てていると、お徳がスッと信秀のそばににじり寄り、慣れた手つきでお市を抱いてあやし始めた。わんわん泣いていたお市は、ものの数秒で泣きやみ、静かに眠りに落ちていく。


「さすがはお徳じゃ。腕白な信長と恒興を育てただけあって、子供の扱いに慣れておるな」


「しっ、お静かに。大声を出したら、せっかくお休みになったお市様が起きてしまいますわ」


「おお、そうであった。すまぬ……」


 お徳に小声で叱られた信秀は、頭をかきながら素直に謝った。まるで、悪戯を仕出かして母親に怒られた少年のようである。信長に大将としての心得を教え諭していたついさっきまでの威厳は、どこかへ消えてしまっていた。


 夫婦のように仲睦まじい信秀とお徳の様子を見て、いまだに母が主君のお手付きになっていることに気づいていない恒興は「はてな?」と首を傾げた。


 信長はというと、元服前とは違い、二人の間に漂っている甘い空気が何なのか察することができる程度には大人になったようである。


(なるほど、やはり二人はそういう関係であったか)


 そう納得し、突然こんなことを言いだした。


「お徳。父上が出陣するまで、ここにとどまって父上のお世話をするといい。母上はまだ起き上がれぬし、側室であるそなたがこの城の奥を取り仕切るべきであろう」


 信長なりに、二人に気を利かせたのである。出陣前に、お徳が信秀のそばにいられる時間を作ってやろうと考えたのだ。


 それに、信秀はここ最近忙しいせいか、少し顔がやつれたように見える。栄養のある食事など何かと細やかな心配りができるお徳が父のそばにいてくれたら、信長としても安心だった。


「側室? あははは。信長様、冗談はやめてください。俺の母が殿様の側室になどなるわけが……」


 主人の驚くべき発言を聞いた恒興は、信長がたちの悪い冗談を言ったのだと思い、そう笑いかけた。


 しかし、チラリと母の顔を見ると、うら若き十代の乙女が恥じらうかのごとく頬を真っ赤に染めている。


 もしかして……と思っていると、お徳がもじもじしながら、


「の、信長様……。いつから気づいていらっしゃったのですか?」


 と、言った。その反応を見て、鈍感な恒興もさすがに気がついた。


「は、母上? ま、まさか、信秀様の……。え……? えええぇぇぇ⁉」


 恒興は驚愕のあまり、絶叫していた。ポカン、と信長に頭を殴られる。


「うるさいぞ、恒興。お市がビックリしてまた泣き出したらどうするのだ。ちょっと落ち着け。

 ……そうだな。去年から薄々そのような気がしていたのだ。先ほどの父上とお徳の親密そうなやり取りを見ていて、ようやく確信できた」


「あ、あううう……。お恥ずかしいかぎりです。私、もう三十三歳なのに……」


「そ……そうですよ、母上! 三十三歳で体をくねくねさせて恥ずかしがっちゃって、なに考えてるんですか⁉ 三十三歳のくせして、生娘みたいな嬌態を取らないでください! 息子の俺が恥ずかし……あ痛っ⁉」


「三十三歳、三十三歳と言ってやるな、恒興。お前の母親も、れっきとした女子おなごなのだ。三十三歳の女が主君のお手付きになって何が悪い。三十三歳の未亡人であろうが、恋をしたっていいではないか。いくら自分の母親でも、三十三歳、三十三歳と連呼するな。失礼だろう」


「お……おい。二人とも、もうそれぐらいにしておけ。お徳が立ち直れなくなるぞ?」


 信秀にそう言われて信長と恒興が見ると、お徳は肉体から魂が抜け出たかのように虚ろな目で「ウフフ……。ウフフフフ……」と不気味に笑っていた。


「お前たち、女子の年齢を声高に何度も言うでない。二人ともいずれ妻や側室を持つ身なのだから、それぐらいはよく覚えておけ」


「……あっ。お徳、すまん」


「も、申し訳ありませぬ、母上」


「ウフフ……いいのですよ。信長様と恒興はまだ若いですからねぇ……。あなたたちも、いずれ年を取ったら、次の世代の若い武将たちに年寄り呼ばわりされるんですから……絶対に。ウフフフフ……アハハハハ……」


 お徳が立ち直るのには、半刻(約一時間)ほどの時間を要した。




            *   *   *




 那古野城への帰路。

 信長と恒興は、蒼天の下、二人で馬を駆っていた。結局、お徳は信秀の身の回りの世話をするために残してきた。


「う~む。父上はお徳に『女は三十代になってからのほうが、熟れて良い味がするものだ。若造たちにはそれが分からんのだ。そんなに気にするな』と言っていたが、本当であろうか」


「嘘に決まっているじゃないですか。俺の母を慰めていただけですよ。若いほうがいいに決まっています」


「だよなぁ」


 十四歳の信長と十二歳の恒興には、自分たちが三十代になった時のことなどまだ想像もつかない。今こうやって若駒を颯爽と疾駆させているように、乱世の下の青春をがむしゃらに駆けぬけることで夢中だった。


「……それにしても、信長様は、俺の母が信秀様のお手付きになっていたことによく気がつきましたね」


「フフン。俺ももう大人だからな。男女の愛の機微きびぐらい、ちょっとは分かるようになったのさ」


「男女の愛の機微……? ああ。近頃、生駒家のかえで殿とふみのやり取りを頻繁になさっていますからね。文通なんてまどろっこしいことをせず、出陣前に直接会いに行ったらどうなのですか?」


「……会いたいのはやまやまだが、俺は大事な初陣を控えている身だ。生駒の屋敷に遊びに行っているうちに父上からの出陣命令が下ったら、遅れを取りかねない。女に会いに行っていたせいで出陣に出遅れたなど、大将としてあるまじきことだ」


「信長様は真面目だなぁ~。……でも、生真面目な性格のわりには、ご自分の乳母がお父上と男女の仲だったことには怒らないのですね」


「何だ、恒興。母親が俺の父の側室になるのが嫌なのか?」


「い、いえ、家臣である俺がそんな出過ぎたことを言うつもりはありません。しかし、信長様のお父上と俺の母が夜な夜な愛し合っているのかなぁ……とか想像すると、ちょっと胸のあたりがもにょもにょするというか何というか……」


 恒興が顔を赤らめながらそう言うと、信長はワハハハハと大笑いした。


「まだ十二のくせして、ませた奴め。……まあ、いいではないか。父上の相変わらずの好色っぷりには俺も少々呆れてはいるが、これで織田家と池田家の絆は盤石だ。俺は、お前のことを堂々と『弟』と呼ぶことができるから嬉しいぞ」


 信長は、悪戯っぽくニッと微笑み、乳兄弟を見つめる。恒興は気恥ずかしいのか、さらに顔を赤くした。


「の……信長様には、信勝様という立派な弟君がいらっしゃるではないですか」


「信勝も大事な弟だ。だが、ここだけの話、戦場であいつに背中を預けるのは恐いような気がする。今の信勝は俺のことを慕ってくれているというのに情けない兄だとは思うが、仲が悪かった幼い頃のことをついつい思い出してしまってな。俺が戦場で背中を預けたいと思う『弟』は――お前だよ、恒興」


 父と乳母が男女の仲であったという事実に、思春期の信長も多少は動揺と興奮をしているのだろう。いつになく多弁で素直だった。


 一方、物心がついた頃から兄のように慕っていた信長に「一番信頼している弟はお前だ」と言われた恒興は、嬉しさのあまりちょっと泣きそうになっていた。

 しかし、意地っ張りな性格なので、信長様の前で子供みたいに泣くわけにはいかぬと考えて、唇をキュッと噛む。


「黙っていないで何か言えよ、弟」


「……で、デアルカ」


 長い台詞を言ったら泣き出しそうだったので、恒興は苦し紛れにそう言った。


 俺の口癖を真似するな馬鹿、と笑いながら信長は恒興の背中をバシンと叩く。


 恒興は、けほっ、けほっ、と咳き込みながら、


(気難しくて仕えにくいところもあるが、信長様に褒められたり認められたりすることほど、この世で嬉しいことはない。なぜか、不思議と心が強く惹きつけられる……。俺は、この人のためならば、おのれの全生涯を捧げられるだろう。いや、捧げきってみせる)


 そう心に決めるのであった。

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