三章 乱世の下の青春

祝言の夜

 天文十五年(一五四六)初夏。

 何日も続いた卯の花くたしの長雨が止み、星々が久しぶりに顔を見せたその日の夜のこと。尾張国の那古野なごや城では、華燭かしょくてんが賑々しく行われていた。


 花嫁は、信長の姉の一人であるお里。信秀は、亡き弟・織田信康のぶやすとの約束を守り、信康の子の織田十郎左衛門じゅうろうざえもん信清のぶきよと自分の愛娘を結婚させたのである。


 この祝言には、遠方の犬山城の主である寛近とおちかおきな(織田与十郎寛近。尾張上半国守護代・織田伊勢守家の一族)が祝いの言葉を述べるためにわざわざ駆けつけてくれていた。


「ふぉふぉふぉ。信康殿の息子が、嫁をもらう年頃になったか。月日が流れるのは早いのぉ。……わしはすでに高齢でいつ死ぬか分からず、跡取りがいない。信清殿がもうちっと成長したら、犬山城を信清殿に譲りたいと思うのじゃが……。信秀殿、どうじゃろう?」


「おお、それは願ってもいないこと。亡き弟も草葉の陰で喜んでいることでしょう。誠にありがたい。

 されど、弟の宗伝そうでん殿と相談もなく決めてもよろしいのですか? 彼にもあの名城を受け継ぐ権利があるでしょうに」


「あ~、駄目じゃ。あいつはいかん。弟には、尾張と美濃の国境にある重要なあの城を守れるだけの器量はない。勇猛な性格の信清殿に任せたほうがいいじゃろう」


 寛近の翁はそう言い、カラカラと笑った。城を譲るなど、尾張国内の権力闘争に興味が一切ないこの老人だからこそできる大盤振る舞いである。


 美濃攻めの重要拠点となる犬山城が将来は信清の物となると聞き、織田弾正忠だんじょうのちゅう家の重臣たちは「おおっ、それは祝着至極!」と声をそろえて喜んだ。


「うぃ~、ひっく! いやぁ~、めでたい! 今年はめでたきことばかりじゃ! 信長が年の初めに元服して、そして今日は信清とお里の祝言! 数年の内には犬山城も当家の城となる! 息子が出世して、信康もこれで安心して成仏できるじゃろう。めでたい、めでたい!」


「あはははは‼ そうでございますなぁ、秀敏ひでとし様。今年は良き年じゃ、良き年じゃ。うぃ~、げっぷ」


 めでたい雰囲気が満ち満ちる中、ぜいを尽くした料理や酒がたくさん振る舞われ、祝言の宴はあっと言う間にどんちゃん騒ぎになっていった。


 一番騒々しかったのは、織田玄蕃允げんばんのじょう秀敏(信秀の叔父。信長の大叔父)と平手ひらて政秀まさひでである。

 秀敏は弾正忠家では兄の大雲だいうん永瑞えいずいに次ぐ高齢者で、普段は経験豊かな頼もしい老将なのだが、非常に酒癖が悪い。ちょっと飲んだだけで、へべれけに酔っ払い始めていた。


 一方の政秀は、本願寺ほんがんじ証如しょうにょに「一段大酒(大酒飲み)」と日記にわざわざ書き残されるほどの飲兵衛のんべえだ。宴の初っ端から浴びるように飲み、主君の叔父にあたる秀敏と肩を組んで小唄を大声で歌ったりしている。家中随一の才覚人と呼ばれている政秀だが、今は見る影もない。


(しまった……。祝いの席だからといって、酒を飲ませすぎたわい。この爺さんたちは、酒が入るとたちが悪くなるからなぁ……)


 信秀は眉をひそめ、はやし秀貞ひでさだ内藤ないとう勝介しょうすけをチラリと見た。「あの酔っ払いたちを何とかしろ」と目配せしたつもりだったが、二人は主君の視線から逃げるようにスッ……と顔を背けた。秀貞と勝介も、飲兵衛の爺さんたちに極力関わりたくはないのである。


 嫡男の信長はというと、酔いどれの老将二人が歌っているのを見て、楽しそうに微笑んでいた。生真面目な性格のわりには、信長にはやんちゃな一面がある。こういう酒の席での悪ふざけは嫌いではないようだ。


「おい、権六ごんろく。おぬしも何か芸をやりゃんか。踊れ、踊れ。うぃ~、ひっく!」


「えっ……。そ、それがしが、でござるか?」


 だんだん呂律が怪しくなってきている秀敏にからまれ、一人の若い武将が迷惑そうな顔をした。


 秀敏に「権六」と通り名で呼ばれたのは、柴田しばた勝家かついえという男である。まだ二十五歳の若者だが、つい最近、父・柴田勝義かつよしから家督を譲り受けて下社しもやしろ城(現在の愛知県名古屋市名東区陸前町)の主となっていた。


 勝家にとって、今夜の宴が、織田家の重臣の一員として初めて公の場に出た記念すべき日だったのだが、いきなり主君の叔父に「みんなの前で踊れ」と強要され、


(り、領地に帰りたい……)


 と、早くも心が挫けそうになっていた。現代風に言うと、宴会の席で上司にパワハラを受ける新入社員の図である。


「……では、我が家に代々伝わる剣舞を披露いたしまする」


 武骨な性格の勝家が、人を笑わせる宴会芸などできるはずがない。しかし、ここで拒否して場の空気を悪くするのも気が引ける……。そう考えた勝家は、渋々ながら立ち上がり、さらりと愛刀を抜いた。


「…………ふぅ~、ふぅ~……。ほわぁぁぁ‼」


 ぶぅーん、ぶぅーん、ぶぅーん……と白刃を力任せに振り回し始める。勝家の左右に座っていた重臣たちは、「おわぁー⁉」と悲鳴を上げながら飛び退いた。剣舞に集中している勝家は周囲の雑音が耳に入っていないのか、構わずに刀を振るい続ける。


「ちょえーーーい‼」


「ぎゃぁぁぁ!」


「でりゃーーー‼」


「ひぃぃぃ!」


「そぉーーーいっ‼」


「や、やめろぉぉぉ!」


 勝家も少し酔っ払っているのだろう、ひょろひょろの足取りだった。あっちへふらふら、こっちへよろよろと歩き回り、剣を乱舞させる。そのたびに、誰かが危うく斬られそうになり、中には丁髷ちょんまげをちょっとだけ切られてしまった者もいた。さっきまで賑やかだった宴会の場は、阿鼻叫喚の地獄と化していた。


 花婿である信清は思いきり渋面を作り、勝家を不快そうに睨みつけている。

 一方、花嫁のお里はというと、気の弱い少女なので、涙交じりの目でプルプルと震えていた。赤鬼のごとき形相で剣を振り回す勝家のことが恐ろしいらしい。


 独特なユーモアセンスの持ち主である信長の目にはこの惨状が滑稽に映るのか、さっきからゲラゲラと腹を抱えて笑っている。だが、花嫁の父である信秀はすでに我慢の限界だった。


「よさぬか、たわけッ! 祝言の宴で刀を振り回すとは何事だ! 場をわきまえろ!」


 そう怒鳴りながら、信秀は炎を吐き出した噴火山のごとく猛然と立ち上がった。そして、素早く勝家に迫って手刀で刀を叩き落とし、勝家の巨体を得意の組討の技で屋敷の外へと放り投げたのである。


 勝家は「ぎゃっ⁉」と叫びながら庭に落ち、雨が上がったばかりでまだ濡れている地面と接吻せっぷんをした。


「も……申し訳ありませぬ! し、しかし、何か芸をやれと秀敏様に命令されたので……」


わしぁ、剣を振り回せとは一言も言っておらんぞ? なあ、平手?」


「はい。他人のせいにするのは良くないと思いまする」


「う、うぐぅ……!」


 秀敏と政秀に見捨てられた勝家は、情けない声を上げた。


(よ、酔っ払いジジイたちめ……)


 と恨んでも、新入りの若造なので、激怒する主君の前ではひたすら平身低頭するしかない。


「しばらくの間、そこで正座して反省しておれ」


 信秀にそう命じられ、勝家は「は、はい……」と弱々しく返事をした。ちょっと可哀想だな、と信長は思ったが、一度爆発した信秀の怒りはなかなか収まらないので仕方がない。


「…………少し気分が悪くなったので、夜風に当たって来ます」


 花婿の信清が、苛々した口調で急にそう言い出し、席を立った。別に顔色は悪くなさそうだが、この場にいたくないという雰囲気をその全身から漂わせている。


 信秀は「むっ……そうか」と言い、祝言の宴を中座しようとする花婿を特に止めようとはしなかった。

 信清の我がままはいつものことであるし、父親の信康を美濃攻めで死なせてしまって以来、信秀は信清に対して後ろめたい気持ちがあった。だから、勝手気ままな信清に多少の不作法があっても目を瞑っていたのである。


「お里も少々顔が青いな。疲れただろうから、部屋で休むといい。婿殿が宴の席にいないのに、そなた一人がむさ苦しいジジイたちに囲まれていても辛いだけだろう」


 信秀は病弱な娘を気遣い、お里にそう告げた。従順な性格のお里は「はい……」と答えると、父の言葉に大人しく従い、侍女たちに連れられて奥の部屋へと下がっていった。


「あらら……。花婿と花嫁がいなくなってしもうた。せっかくの祝言の宴なのに……」


「権六があんな場違いな剣舞を披露するから、気難しい性格の信清様が怒ってしまわれたのだ。権六の阿呆め、めでたい宴に水を差しおって」


 織田家の重臣たちが大声で陰口を叩き合っているのを耳にして、庭に座らされている勝家はシュンと落ち込み、「領地に帰りたい……」と呟くのであった。


(権六のせい……ではないようだな。信清は、信康叔父上が亡くなってからずっと元気がなかった。祝言の日が近づくにつれて、苛立ちが増しているようにも見えた。何か、思い悩んでいるのか?)


 従兄弟の異変を敏感に察していた信長は、新郎新婦がいなくなった後も馬鹿騒ぎをしている酔っ払いたちを放置して、自分も宴からこっそり脱け出すのであった。

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