悩める戦国ティーンエイジャー

 信清を見つけるのは簡単だった。

 信清には、何か嫌なことがあると城のやぐらにのぼり、明け方近くまで星空を見上げている、という習慣がある。見張り番の兵がそのたびに櫓から追い出され、城の警備を担当する内藤ないとう勝介しょうすけがとても迷惑がっていることも信長は知っていた。


 案の定、信長が南櫓にのぼってみると、信清は夜天に輝く星々を睨んでいた。

 その瞳には、何かしらの激しい感情が燃え上がっている。……ように信長には見える。


「おい、信清。どうかしたのか? 祝言の間、ずっと不機嫌そうにして」


 横に並んで信清の顔をしばらく見つめていたが、何の反応もしてくれなかったので、信長はそう言って声をかけた。信清は、煩わしそうに信長をチラリと横目で見る。


「別に……何でもない」


「何でもないということはないだろう。俺たちは幼い頃から共に学問を学んだ仲ではないか。悩み事があるのならば、言ってくれ。必ず力になる」


「お前に助けてもらうことなど、何もない」


 突き放すようにそう告げると、信清は信長の真っ直ぐな眼差しから逃げるように顔を背けた。


(いったい、どうしたというのだ? 信康叔父上が戦死してから、信清は少しずつ俺から距離を置こうとしているような気がするが……)


 信清は昔から粗暴で、信長とも度々喧嘩をしていた。同年代である家臣の息子たちには尊大な態度を取り、たまに理不尽な暴力を振るうこともあった。善良な性格とは言えない少年である。


 しかし、幼少期の信長が母をめぐって弟の信勝に激しい敵意を向けられ、信勝が猛獣みたいに手に噛みついてくるたびに、信清は(過度な暴力ではあったが)信勝に仕返しをしてくれた。

 父親の信康が頭を悩ませていたほどの乱暴者だが、信長のことだけは大事な友だと思ってくれていたのだろう。信長は、そう信じている。


 だが、信康が死んだ二年前から、信清は信長を避け始めた。信長の兄弟や姉妹たちにも、よそよそしい態度を取っている。それは、今宵妻となったお里に対しても例外ではなかった。


「信清。父が死んで悲しいのは分かる。……しかし、だからこそ、我ら一門の者を頼って欲しい。俺は、我が織田一族と家臣たち――尾張国の人々を守れるような、牛頭天王ごずてんのうのごとく強い男になりたいのだ。だから、独りで苦しんでいるお前を捨て置くことなどできぬ。話してくれ、お前が何に苦しんでいるのかを」


 信長は信清の肩に手を置き、熱の入った強い口調でそう語った。

 生真面目な性格ゆえに、おのれの信念と使命に何の疑いも持っていない。皆を守りたいと言う信長の顔は、カラリと晴れた雨上がりの青空のように迷いの色がなかった。


 しかし、信長の手は荒々しく払われた。「……俺のことなど、放って置けばいい」と信清は刺々しい声で言う。


「俺はどうせ、使い捨ての駒だ。亡き父と同じなのだ。替えのきく駒のことなど、捨てておけ」


 陰のある笑みを浮かべ、信清は信長にようやく眼差しを向けた。その笑みが自虐的なものであることに信長は気づいたが、彼の瞳の奥底にある仄暗き敵意までは察することができなかった。


「なぜ、そんなことを言う。大切な身内であるお前のことを俺が捨て駒だなどと思うはずがないだろう」


 心外なことを言われ、腹が立った信長が語気を荒げた。それでも信清は信長に心を開くつもりはないらしい。「話はこれまでだ」と吐き捨て、櫓を降りようとする。


「待て、信清。話はまだ終わっていない」


 信長は信清の袂をつかみ、引き止めようとした。信清はチッと舌打ちする。


「放せ、馬鹿野郎。俺に気安く触れるな」


 二人は、櫓の上で揉み合いになった。


 取っ組み合いをしつつも、最初の内は本家の跡継ぎである信長に対してわずかに遠慮があったが、だんだんと頭に血がのぼってくるとそんな配慮はできなくなってくる。信清は、「しつこいぞ、信長ッ」と叫ぶと、拳を振り上げようとした。


「やめろ、信清殿! 兄上に何をする!」


 信長が殴られる直前、一人の少年が信清の腕にしがみついた。信清を止めたのは、信長の同母弟・信勝だった。


「このチビ。いつの間に、櫓に……。ガキは寝ている時間だろうが」


「星が綺麗だったので夜の散歩をしていたら、二人の口論の声が聞こえてきたので、慌てて駆けつけたのですよ。

 それよりも、信清殿。いくら一門衆とはいえ、次期当主の兄上を殴ろうとするとは何事ですか。分をわきまえてください」


 信勝はよほど急いで梯子はしごをのぼってきたのか、息が上がっている。そんな信勝の様子を見て、信清はハンと鼻で笑った。


「お前、ここ数年で兄想いの弟に豹変したが、元々は兄の身を心配するような奴じゃなかっただろう。春の方様(信長・信勝の生母)の愛情を独り占めにして、信長を遠ざけようと必死だったではないか。何を企んでいる?」


「何も企んではいません。あなたは、なぜそんなにも人の心をねじ曲げて解釈しようとするのですか。そんなのは、幼い頃の話ですよ。私だって体が成長したら、心も成長します。昔の兄への非礼を猛省して、次期当主である兄上を支えようとしているだけなのです。心を入れ替えた私の気持ちを曲解しないでください」


 信勝はそう憤りながら、信清の腕を巧みにねじって押さえ込もうとする。信清は堪らず「い、いたたたた!」と悲鳴を上げた。信清のほうが数歳年上で身長差もあるというのに、まったく抵抗ができない。


 昔は病弱なうえに陰気な性格で、父の信秀や重臣たちからは、


「この子は神の手の内から離れる七歳までに早世するやも知れぬ」


 と半ば見放されていた信勝だったが、本人が剣や馬術の修行で心身を必死に鍛えたこともあり、成長するにつれて健康な肉体を手に入れていた。

 今では、文武両道の若様として家中でも評判がいい。特にはやし秀貞ひでさだの弟の美作守みまさかのかみと親しくしていて、信清を押さえつけたこの技も、武勇に秀でた美作守から教わったものである。


「痛い! 痛いぞ、クソガキ! 放しやがれ!」


 信清がそう訴えたが、信勝は技を解こうとしない。


「チッ。お前は、昔に比べたら社交的で明るい性格にはなったが……。執拗に敵を痛めつけたがる攻撃性は幼い頃のままのようだな。い、いてて! いたたた!」


 信清の悲鳴を耳にした信勝が、ほんの一瞬だけいびつに笑った。信長には、そう見えた。


 あれは、自分に噛みついてきた時と同じだ。狂った獣の目だ。昔の恐怖と忌々しい記憶が蘇り、信長はわずかに眉をしかめる。

 弟は変わったようで、昔と変わっていない部分がある。今では親しく言葉を交わせる兄弟になれたが、時おり信勝のことが不気味に思えてしまうことがあり、そんな時には弟とどう接していいのか分からなくなってしまう。


「……もういい。兄は無事だ。やめてやれ」


「ハハッ。兄上がそう言うのならば」


 信勝は兄の言葉に素直に従い、信清の体を自由にした。


「くそっ。まだガキのくせして……。幼童だった頃に、俺に何度か蹴飛ばされたことを覚えていて、復讐しやがったな? 畜生、執念深い奴め」


 信清はそう悪態をつくと、信勝を荒々しく押しのけ、櫓を降りていった。


 信長は、遠ざかっていく従兄弟の背中を櫓の上から心配そうに見つめ、


「信清は父親を美濃のまむしに殺されて以来、ずっとああやって荒れているんだ。理解してやってくれ」


 と、信勝に言った。


「……兄上。信清殿は、兄上に憎しみを抱いています。あまり気を許さないほうがいいと私は思います」


「あいつが、俺を憎んでいるだと? まさか。俺と信清は従兄弟同士だぞ」


「兄上が家族や家臣たち……身内に対して深い愛を抱いていることは、私も承知しております。それは、人の上に立つ者に欠かせぬ人徳なのでしょうが……。

 しかし、同族の間でも殺し合いをするのが戦国の世なのです。少しは警戒心を持ってください。信用できるのは、同じ腹から生まれた弟の私だけですよ」


「お前のことは、もちろん信用している。頼もしい弟に育ってくれて、俺は嬉しく思っている。きっと母上も……」


 そこまで言いかけて、信長は口をつぐんだ。

 二人きりでいる時は、両親の話題を極力しない。それが、この兄弟の暗黙の掟だったのである。


 幼少期、信長と信勝は仲のいい兄弟ではなかった。原因は両親の愛をめぐる互いの嫉妬にある、と信長は考えている。


 幼児の頃から利発で健康優良児だった信長は、父の信秀に後継者として大いに期待され、他のどの兄弟よりも父親と多くの時間を過ごしてきた。

 一方の信勝は、ひ弱な子供であったため、八、九歳頃まではずっと館の奥で母親の春の方と暮らしていた。父に剣術を教わったり、馬の乗り方を教えてもらったりした記憶はほとんどなく、信勝の愛の執着は母親ただ一人へと向けられたのである。


 信長が父を独占したように、信勝は母を独占しようとした。母の愛を欲した信長が春の方に近寄ろうとすると、幼児とは思えないほどの苛烈な攻撃性を見せ、狂犬のごとく兄の手に噛みついたのである。


 信長は同じ母から生まれた弟を憎みたくはなかった。

 だから、兄は父に愛され、弟は母に愛されるという「棲み分け」をすることで、兄弟の衝突を避けるようになったのである。


 信勝に対しては、自分が母に感心を抱いていないように振る舞い、母恋しの心をなるべく抑えるように努力した。

 元服前の少年期に信長が春の方のそばに長くいられたのは、父が出陣して城を留守にしている時ぐらいだった。その時だけは、次期当主として父の代わりに城を守る立場にあるため、城内の女たちの管理者である母と色々と相談するために面会する機会があったからである。

 それ以外では、子供を甘やかしすぎる春の方に信長が近づくのを快く思わない信秀の手前もあったし、母とはできるだけ距離を置いていた。


 この「棲み分け」が功を奏したのか、信勝は成長するに従って獣じみた敵意を信長に向けることはなくなった。それは、単純に嬉しいことだと思う。


 ……だが、あれだけ目の敵にしていたはずの兄のことを、この弟はいつの間に慕うようになったのだろうか? 自分が気づいていないだけで、何かきっかけがあったのだろうか?


 信長には分からない。しかし、昔は険悪な仲だった弟が「兄上、兄上」と慕ってくれている事実に変わりはないのだ。下手にかき乱すようなことはしないほうがお互いのためだと思い、兄弟のすれ違いの原因であった両親については弟と話題にしないよう気をつけているのだった。

 信勝のほうも似たようなことを考えているのか、信長に対して「母上が」「父上が」と言うことは滅多にない。


(これで、いいのだろう。たぶん……)


 しばらくの間、櫓の上で弟と星空を見上げながら雑談しつつ、信長は自分にそう言い聞かせていた。


 何だか、とても疲れている。信清と言い争ったからだろうか。信長はそう思ったが、実際は、隣で微笑んでいる弟に対して無意識に気を遣ってしまっていることが原因だった。


 そのことを十数年後になって「ああ、そういうことであったか……」と信長は気づくのだが、それは自らの手で信勝を殺害したしばらく後のことだった。


 今のところは、兄弟が想像すらしていない、未来の話である。




            *   *   *




「くそっ……くそっ……。どいつもこいつも、俺のことを軽く見ていやがる。俺は、親父のように捨て駒になったりはしないぞ……」


 お里との初夜の行為を終えた信清は、暗闇の中で天井を睨み、何度もそう呟いていた。


 信秀の娘などねやでいたぶってやろうか、と考えていたのだが、できなかった。信清がいたぶるまでもなく、気弱なお里は乱暴者の信清と初夜を迎えることにひどく怯えていて、哀れなほど憔悴しょうすいしていたのである。


 信清は、粗暴な性格ではあるが、すでに弱りきっている人間をさらに追いつめる残虐さまでは持ってはいなかった。それどころか、心のどこかで、あまりにも儚げなお里のことを案じてしまっている自分がいる。


(そんな中途半端な優しさなど、この乱世を生き残るのに何の役にも立たない。とっとと捨ててしまいたい)


 と、信清は思っている。非情な男になりきり、妻の父である信秀や弟の信長に反逆する勇気を持ちたかった。過去の自分が大切だと思っていた人々を裏切ってでも、おのれの運命を自らの力で切り開く武将になりたかったのである。


「……俺の親父は、信秀が逃げる時間を稼ぐために、斎藤さいとう利政としまさ道三どうさん)と戦って死んだ。思慮深く、文武に秀でた武将だった親父が……最後には一族の棟梁のために捨て駒となったのだ。親父は、そんな死に方をするべき人ではなかった。俺の親父は誰よりも立派だったんだ。なぜ、美濃の戦場でまむしごときに殺されなければならなかったのだ……」


 父の信康に対して反抗的な態度ばかり取っていた信清だが、本当は父親のことを尊敬していた。いつかは、父のような優れた武将になりたいと思っていたのだ。こんなにも早く死に別れてしまう運命だったのなら、もっと父の言うことを聞いておけばよかった。……今は、そう後悔している。


「親父と俺は、織田弾正忠だんじょうのちゅう家の一門衆だ。血族だからこそ、他の家臣たちよりも当主に対する忠義を強く要求される。親父が信秀のために死んだように、いずれは俺にも信長のために命を投げ出さなければならなくなる時が来るかも知れない。

 ……いや、確実に来る。俺を犬山城の城主にするだと? ふざけるな、あそこは美濃との戦では最前線となる城ではないか。親父と同じように、美濃の蝮に殺されろと言うのか?

 そんなのは、ごめんだ。俺の人生は誰の物でもない。信秀は自分の娘で俺を縛り付けて、御家のために働かせようとしているのだろうが、思い通りになどなってやるものか」


 信清は心の中でそう呟いていたつもりだったが、ずっと声に出して喋っていたらしい。気がつくと、隣で眠っていたはずのお里の視線を感じた。信清の独り言のせいで、目が覚めてしまったのだろう。


「信清様……。眠れないのですか?」


 どうやら、独り言の内容までは聞こえていなかったらしく、夫の信清のことを心配しているらしい。

 お里の声音は、抱く前に比べたら幾分かくつろいでいて、信清への恐怖がわずかだが薄らいでいるようである。


(……フン。閨で少し優しくしてやったら、もう俺のことを信用するようになったのか。お人好しなところは、弟の信長に似ているな)


 信清は心の中でお里のことを小馬鹿にしつつも、「何でもない、もう寝ろ。他人の心配をせず、自分の病弱な体の心配をしろ」とぶっきらぼうに言い、寝返りを打って妻に背を向けた。


(親父。俺は、あなたのようにはならない。信秀や信長のために死んでたまるか。絶対に、捨て駒になどならないぞ。いつか必ず、信長を後ろから斬りつけてやる)


 まずは、弾正忠家の本家と距離を置くことだ。独立を目指すのならば、信秀・信長の領地から遠く離れた犬山城は最適な拠点となり得るかも知れない。


 犬山城を、信秀父子のために戦う城ではなく、俺が自由を勝ち得るための城にする――。


「これで行こう、俺の生きる道はこれだ」


 信清は、再び闇の中で呟いていた。


 お里はまだ眠らず、心配そうに夫の背中を見つめている。

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