平手政秀の帰還

 平手ひらて政秀まさひで青山あおやま与三右衛門よそうもえん那古野なごや城に帰還したのは、信秀とお徳が男女の関係になってから数日後のことである。


「平手のじいが、京や大坂おおざかの様子を父上に報告しているらしい。俺も旅の土産話を聞きに行って来る」


 父親譲りで好奇心が旺盛な吉法師きっぽうしは、上方にはどんな市場があり、人々がどのような暮らしをしているのか興味津々なのである。朝餉あさげを勢いよくかっ食らうと、慌ただしく部屋を飛び出そうとした。落馬事件後すぐに回復した吉法師は、もうすっかり元気いっぱいである。


「吉法師様、お待ちください!」


(うっ、しまった……)


 お徳に呼び止められ、吉法師は眉をしかめた。


 行儀作法にうるさいお徳は、「ご飯はよぉく噛んでお食べくださいませ」といつも口やかましく言っている。それなのに、平手の爺の話を早く聞きたくてついつい急いで食べてしまった。


 これはお説教が始まるな、と吉法師はげんなりとなった。しかし……。


「ちょっとこちらに顔をお寄せください。可愛らしいほっぺたにご飯粒がついていますので、取って差し上げますわ。オホホホ」


 お徳はニコニコ笑いながら、吉法師の右頬についていた米粒を取り、パクリと食べたのである。説教をするどころか、ひどく上機嫌だった。うふふ、うふふ……とずっと幸せそうに微笑んでいて、正直言って気持ち悪い。


(おい。お前の母親の様子がおかしいぞ。病気か?)


 お徳のことが少し心配になった吉法師は、まだ朝餉を食べきれていない池田いけだ恒興つねおきにそう耳打ちした。恒興も不審に思っているらしく、不安そうに首を傾げる。


(さ、さあ……どうなのでしょう。実は、数日前からずっとこんな感じなのです。不気味なほど機嫌がよくて……)


(ちょっと怒られるようなことをしてみろ)


(えっ、嫌ですよ……)


(お前の母親のためだ。病気のせいで性格が豹変することもあるらしいから、試してみろ)


 吉法師にそう命令された恒興は、恐るおそる下腹部に力を込め、ブッと放屁ほうひした。食事中におならをするなんて、普段のお徳だったら絶対に激怒するだろう。場合によっては木にくくられるかも知れない。ごくり、と唾を飲んで吉法師と恒興はお徳の反応をうかがったが……。


「あら、ヤダ。食事中に放屁するなんて、お行儀が悪いですよ? いつまで経っても子供なのだから、困ったものねぇ。うふふふふ」


(やっぱり、気持ち悪い……)


 吉法師と恒興はブルルっと身震いした。

 これは絶対に病気だ、後で城に薬師くすし(医者)を呼んで診察してもらおう。吉法師はそう思うのであった。




            *   *   *




 帰国した平手政秀が語った京都の様子は、吉法師が期待していたような面白おかしいものではなかった。面白いどころか、京都の庶民たちの惨状は聞いただけで気分が悪くなるほどだったのである。


 京都をそのような生き地獄にしたのは、室町幕府の管領かんれいである細川ほそかわ晴元はるもと。そして、晴元に踊らされて畿内きない周辺で過激な宗教戦争を繰り広げた仏教勢力たちだという。


「そんな目先の利益にしか関心のない奴が管領なんてやっているから、京都が荒廃してしまったのだ。俺が将軍だったら、もっと頭が良くて働き者の家来を重職につけるのに……。

 それに、京や周辺の国々には、大雲だいうん和尚おしょう様のような徳のあるお坊様はいないのか? 乱世を生きる人々の荒んだ心を信仰で救うべき僧侶たちが、なぜそんな地獄をつくるのだ」


 政秀の話を聞いていた吉法師は、無責任な為政者と凶暴な仏教勢力にだんだん腹が立ってきて、興奮ぎみにそう言い放った。


 やんちゃなところはあるが、吉法師という少年はすこぶる真面目な性分である。織田弾正忠だんじょうのちゅう家の当主としての自覚をもって日々学問に励み、剣術や馬術の稽古も欠かさない。また、恒興ら側近の少年たちにも、自分と同様に、尾張を守る立派な武士になるための努力をすることを求めていた。努力してしくじる仲間には「もっと頑張れ」と励ましたが、吉法師の目を盗んで怠ける者がいたら、怒って拳骨を喰らわすことがしばしばあった。ここまで怠惰を嫌うようになったのは、


「人の上に立つ者が下の者よりも何倍、何十倍も働かなければ、下の者たちは動こうとしない。君主こそが、最も働き者であるべきだ」


 という信秀の口癖を幼少より聞いてきた影響かも知れない。その怠惰を憎む心は、今では父の信秀よりも強く、激しくなっているようである。だから、おのれの役割を全うしていない細川晴元や悪僧たちの所業は許し難い、と義憤に燃えたのだった。


「おのれの私欲のためにいたずらに兵乱を起こす者はいずれ自滅する。平手の読み通り、細川晴元様の天下はそう長くはないやも知れぬな。……吉法師よ、そなたは天下を乱す姦雄かんゆうになってはならぬぞ。乱世を鎮める英雄となれ」


「はい。俺は父上のような武将になりたいです。細川晴元のような、管領の地位にふんぞり返っているだけの怠け者は嫌いです。そして、仏に仕える身でありながら破戒のかぎりを尽くして世を乱す悪僧どもも、許せません」


「うむ。……ただ、我らの領地の西にある一向宗(本願寺)の門徒たちにはけっして手を出すな。平手が語ったように、一向一揆は凄まじい。まるで嵐のようだ。奴らが領国で暴走したら滅亡の危機すらあり得る。近づきすぎず、疎かにせず、適度な距離を保つのだ」


 信秀は、吉法師が幼少期に「母上の病気を悪化させたら、牛頭天王ごずてんのうでも許さない」などと畏れ多い発言をしたことがあると政秀から聞いていたことをふと思い出し、少し心配になってそう釘を刺した。


「向こうから喧嘩を吹っかけてこないかぎり、寺を攻撃などしませんよ」


「喧嘩にならないように、細心の注意を払うのだ。一向宗を攻撃したら、何千何万という門徒たちを敵に回すことになる。いいな、吉法師。奴らにだけは気をつけろ」


(父上がここまで念を押すということは、一向一揆というのは相当恐ろしいのだな……)


 信秀が主君の織田大和守やまとのかみ達勝みちかつと一時期争っていた時、一向一揆に背後を突かれそうになったことがあることは前から聞いていた。吉法師が生まれる前のことなので詳しくは知らないが、その時に信秀はよほど一向一揆に対して危機意識を持ったのだろう。


 そんな危険極まりない仏教勢力は懲らしめてやったほうがいいのではないかと軽く考えていたが、下手なことをやって父や母、兄弟姉妹、家臣たちを滅亡の淵に陥れるのは不本意である。吉法師は、自分が大切だと思っている人々を守りたい。それが織田弾正忠家の跡継ぎとしてのおのれの使命だと信じている。一向宗と問題を起こすことでみんなを危険に追いこんでしまうというのならば……。


「分かりました。父上のお言葉、深く胸に刻んでおきます」


 吉法師は素直にうなずき、そう言った。


「うむ、良い返事だ。お前は賢い子だ」


 信秀は吉法師の頭を撫でると、政秀と顔を見合わせ、二人は安堵のため息をつくのであった。


 生真面目な性格の吉法師は、自分が「悪」だと認識した対象に激しい嫌悪感を持つところがある。それは、人であれ、神仏であれ、関係ないらしい。優れた人間には好意を持ち、ありがたいご利益のある神仏には敬意を払う。それと同じように、怠惰な人間は軽蔑し、人々を救わない神仏は激しく罵倒する。生真面目だからこそ、何事も平等なのである。


 信秀と政秀は、成長した吉法師が一向一揆を扇動する本願寺教団を「自分が倒すべき悪」だと見定めて敵対してしまったら……と心配だったのである。


(この子は正義感が非常に強いのだろう。いい子に育ってくれたとは思うが、手綱をしっかりと握る補佐役が必要だな。そろそろ、元服後の吉法師に付ける家老たちを決めておくべきか……)


 ふとそう思いついた信秀は、翌日、はやし秀貞ひでさだ、平手政秀、青山与三右衛門、内藤ないとう勝介しょうすけを招集するのであった。

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