天王祭
現在の津島は、愛知県の内陸部にある。
しかし、信長の時代には
津島の人々は町の自治組織・
信貞は、津島港から北東、一里(約四キロメートル)しか離れていない勝幡城の主だった。彼は、時には津島の町を焼き払って「服属せよ」と
前に説明したように、貿易港は莫大な富を生む。津島港を手に入れた織田
津島は、信秀軍の力の根源と言っても過言ではなく、信秀はこの港町と町に住む人々の
だから、
* * *
日が落ちると、
天王祭では様々な行事があるが、大別すると
これは余談だが、昔の津島牛頭天王社(現・津島神社)は、佐屋川(木曽川水系)とその支流の天王川によってつくられた砂州に鎮座していた。しかし、佐屋川は明治期に廃川となり、江戸期にはすでに浅瀬となっていた天王川は川を堰き止めて天王川公園として生まれ変わっている。現在の津島天王祭も、この天王川公園で祭り船を出しているのだ。
「ねえ、平手。橋の上が何だか騒がしいのだけれど?」
大橋のすぐ近くまで来ると、くらが橋の上で騒いでいる人々を指差した。橋には大勢の見物人が集まっているが、その騒ぎの中心にいる男たちは政秀が見覚えのある者たちばかりだった。
「
政秀が眉をひそめて困惑していると、夜目がきくくらが、
「わっしょい、わっしょいと担がれているのは、牛頭天王社の神主殿ではないかしら?」
と言った。それを聞いた吉法師が面白がり、「天王祭では、神主が神輿になって担がれるのですか?」と姉にたずねる。
「あははは。そんなわけないじゃない。……でも、本当に何やっているのかしら?」
そんなふうに会話をしながら橋のたもとまで歩いていくと、やがて騒いでいる人々の声がはっきりと聞こえてきた。
「お、おろせ! 頼むからおろしてくれ、信秀殿! もう逃げない、逃げないから!」
「
「……だ、だって、祭りのどさくさに紛れて夜逃げしたら、しばらく誰にも気づかれないだろうと思ったから……」
「
「ひ、ひいぃぃ! ごめんなさい、ごめんなさい。祭りの間は逃げないから、もう許してくれ!」
牛頭天王社の神主である
「はぁ~……。もういい。勝介、与三右衛門、おろしてやれ。借金のことは、俺が何とかしてやるから」
呆れかえってもう何も言えなくなった信秀は、深々とため息をつき、勝介と与三右衛門にそう命令した。
事情の詳細は不明だが、氷室広長は神主という立場でありながら多額の借金に苦しんでいた(祭りは織田家の保護のもと毎年行われているし、祭り船は津島の村々が用意していたので、たぶん個人的な借金だったのかも知れない)。
この二年後、広長はとうとう夜逃げを実行してしまい、津島の町衆に迷惑をかけた。信秀は「神事ができないから、早く戻って来い」という手紙を送り、広長が神社に戻れるように色々と根回しをしてやったようである。この津島神主の借金騒動は信長の代までも続き、
「神主が借金を返せないという理由で神事が疎かになっていると聞いた。借金の元金を十年賦で少しずつ返済していくようにしなさい。
という手紙を信長が出す事態にまで至った。
はるか後年に自分までこの神主の借金騒動に煩わされるとは想像もしていない五歳の吉法師は、広長の醜態を見て、姉のくらと一緒にゲラゲラと無邪気に笑っていた。
「……氷室殿、大丈夫ですか?」
「やれやれ、人騒がせな神主殿ですなぁ」
「我ら津島衆に一言相談ぐらいしてくれてもよかったのに……」
広長が橋の上へ乱暴に放り落とされると、温厚な
津島衆には
また、七党の一人である服部平左衛門には、後に歴史に名を残すことになる息子がいる。桶狭間の合戦で今川義元に一番槍をつけた勇士、服部
彼ら津島の四家七党は、南北朝争乱期に
そういう歴史的な強い繋がりがある津島衆の結束力は、四方に敵がいた若き日の信長にとって貴重な軍事力となっていくのだが、それはまだ先の話のことである。
「清兵衛殿。宵祭が始まる前から、ずいぶんと賑やかなのですね」
「こ、これはこれは、くら姫様! ご、ごごごご機嫌麗しゅう存じまする!」
くらに話しかけられた大橋清兵衛は、なぜか満面に朱をそそぎ、早口であいさつをした。
(こんな中年太りのオヤジと姉上は仲良しなのだろうか?)
と、吉法師は不思議に思ったが、橋の上にいる人々が「祭り船が来たぞー!」と歓声を上げたため、注意はそちらにそれた。
「吉法師、こちらに参れ。父が肩車をしてやろう」
せっかちな性格の信秀は、そう言い終える前に、自分から吉法師に近づいて息子を持ち上げた。
「どうだ、よく見えるか」
「はい! 提灯の灯りがとても綺麗です!」
吉法師は、あまりにも美しく、雄大な祭り船の光景に驚き、大声でそう叫んでいた。
津島の五か村から毎年出す五艘の
そんな珍しい祭り船たちが、星空の下で笛や太鼓を奏でながら悠然と漕ぎゆき、天王川を提灯の光で赤々と焦がしている。
それにしても、あの提灯の多さはどうであろう。吉法師には数えきれなかったが、一艘の船につきざっと四百を超えていた。
船の屋台の上に設置された、「坊主」と呼ばれている半球状の巻藁の台には、提灯をつけた長さ一丈(約三メートル)ほどの竹竿を半円形に飾り付けている。その数は、旧暦の日数と同じ三百六十個だ。
中央に立てられている九間半(約十七メートル)の
「船の屋台の幕や赤い提灯に、織田家の
「ああ、そうだ。牛頭天王の神紋であり、我らの家紋でもある、五つ
「母上の病も治りますか?」
「もちろんだ。お天王様は、
「鬼神は、敵無し。どんな邪悪な者でも……」
吉法師の瞳に、二千余の提灯の火が焼きつく。
この炎は、吉法師たちを邪悪な病魔から守ってくれる牛頭天王の聖なる火なのだろうか。父の肩の上から橋や川岸を見回すと、侍や町人、農民の区別なく、数多の見物人たちが巻藁船に手を合わせ、夜の闇に燃え輝く提灯の光を見つめている。みんな、牛頭天王の神威の前に
「父上……。吉法師は、分かりました。父上がいつも『たくましい武将になれ』と吉法師におっしゃっているのは、『牛頭天王のようにみんなに恐れられ、頼られる武将になれ』ということなのですね」
「……む?」
信秀は、幼い息子が自分の頭の上で急に大人びた声で話し出したため、少し驚いた。吉法師はそんな父の小さな動揺に気づくことなく、夢中になって語り続ける。
「吉法師は、父上や母上、くら姉上たち家族を守りたい。平手の
「あ……ああ、そうだな」
驚いたな、何という大それたことを言う奴だ、と信秀は心の中で呟いていた。
たしかに、信秀は、強くなれ、強くなれと吉法師に毎日のように言っている。だが、「神のごとき男になれ」とは一言も言っていない。さすがの信秀でも、そんな畏れ多いことは考えたこともない。それなのに、吉法師は「神と同じくらい強くなってみせる」と豪語した。この五歳児は「人間も強くなれば、神の領域に近づける」とでも思っているのだろうか……?
もしもそうならば、この子は父を遥かに凌ぐ英雄の器かも知れない。英雄とは、人の世を超越して数百年先まで語り継がれる、まさに神の領域に達した者のことなのだから。
「吉法師。お前なら、必ずやなれるぞ。牛頭天王のごとく、逆らう敵をことごとく
「はい! その時は、父上のことも絶対にお守りいたします!」
吉法師は、天王川に浮かぶ五艘の提灯船を眩しそうに眺めながら、父と約束するのであった。
牛頭天王のごとき武将になる。そう決意したこの夜が、後に織田信長となる少年の本当の意味での人生の始まりであった――。
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