布鉾のしずく
翌朝の
昨夜の津島五か村の祭り船は、朝祭用の飾りつけに改められている。その五艘の船に加え、朝祭では市江村が出す車楽船・市江車が登場して、この市江車が六艘の船の先頭になって
祭り船の新たな装いも、莫大な富が集まる港町の祭礼なだけあって、豪華絢爛であった。
屋台の上に能人形がそれぞれ飾られており、屋台の幕には牛頭天王の神紋「五つ
吉法師は、今日も信秀に肩車をしてもらって祭りを見物していた。
遊ぶ時はいつもそばにいてくれるはずのくらは、今は近くにいない。どういうわけか、離れた場所であの中年太りの
(姉上は、あんなオヤジと祭りの見物なんかして、楽しいのかな?)
吉法師も昨日の夜にチラリと顔を合わせたが、清兵衛にはくらと年が近い娘がいて、林秀貞の息子と婚約している。自分と同世代の娘を持つ中年男といても、話が合わなくて退屈するに決まっている。どうして、吉法師のそばにいてくれないのだろう?
「吉法師、何をぼんやりしている? そろそろ、
「あっ、はい。ちゃんと水を入れるお椀を持って来ています」
そう言っている間に、先頭の市江車に乗りこんでいた十人の若者が布で巻いた鉾を手に持ち、水柱を立てて川に飛びこんだ。この日のために水練に励んでいたのか、鉾持ち衆の彼らはすいすいと天王川を泳ぎ、あっと言う間に岸にたどり着いた。そして、「やぁっ」と雄々しい声を上げ、牛頭天王社へと疾走してゆく。
「父上。ここにいたら、布鉾のしずくが手に入らないのでは?」
「うん? あっ、しまった。ゆっくりと見物しすぎた。追いかけるぞ!」
せっかちな信秀は、息子を肩車したまま、見物人たちを押しのけて走り出した。吉法師は「う、うわぁ!」と叫んでのけぞり、危うく落ちそうになったが、父の頭にしがみついて何とかもちこたえた。
「吉法師。お椀を父に渡せ。こいつは俺が持っていてやるから、しっかりつかまっておれ。振り落とされるなよ?」
家臣たちには平気なふりをしていても、病気の妻のことが本当は心配だったのだろう。信秀は
* * *
その日の夜。祭りが終わり、
今回は、また弟の信勝に邪魔されるといけないので、くらにもついて来てもらっている。吉法師以外のきょうだいには怯えて近寄ろうとしない信勝は、元気いっぱいの大声でぺちゃくちゃ喋るくらが特に苦手だったのである。くらが部屋に現れると、春の方の背中に隠れて、
「母上、布鉾のしずくをもらってきました。胸に塗ったら、きっと咳も治ると思います。どうぞ使ってください」
寝床で上半身を起こしている春の方の前で折り目正しくあいさつした吉法師は、ハキハキとした声でそう言った。滅多に会うことができない母に、(吉法師はしっかりとした良い子だ)と安心してもらいたいので、普段よりも背伸びした話しかたになるのだ。
「吉法師、ありがとう。……ようやく母のもとに来てくれたのですね。ずっとあなたに会いたいと思っていましたよ」
春の方は、少し青白い顔に微笑を浮かべ、吉法師がこの世で知るかぎり最も優しげな声で囁くように言った。息子に心配させないため、咳き込まないように我慢して喋っているので、少々話しづらいようである。
春の方は、儚い桜の花を思い起こさせる美しい女性だ。美男美女の家系の織田家に生まれた夫の信秀も、光源氏もかくやとばかりの美男子である。二人の美貌を濃く受け継いだ吉法師は、将来が非常に楽しみだと城中の女性たちから囁かれるほど愛らしい顔をしていた。
そんな美しい母子が向かい合って語り合っている光景は、まるで絵巻物の一場面を切り抜いたようだった。付き添いのくらは、
(母上とお話できて、よかったわね)
と、しみじみ思いながら微笑んでいる。信秀がまだ十代半ばの時に側室として迎えられたくらの生母は、数年前にすでに他界していたのである。
「吉法師、もっと近くにおいで。風邪がうつるといけないから、抱きしめてあげることはできませんが、あなたの可愛い顔をもう少しじっくりと見せてください」
吉法師が侍女に布鉾のしずくが入ったお椀を手渡すと、春の方が白魚のごとき手で手招きをした。吉法師はパッと笑顔を輝かせ、母のそばに行こうとする。すると、
「ははうえ。おなかがいたい。おなかがいたくて、くるしい。おなかをなでてください」
くらに
「……まあ、大変。でも、母が触れたら風邪をうつすかも知れません。くら姫、すみませんがこの子のお腹を……」
「いやいやいや! ははうえじゃないといや! うわぁぁぁん!」
信勝は両腕と両足をジタバタさせ、駄々をこね始めた。優しすぎる春の方にとことん甘やかされているため、泣き喚いたら自分のわがままが通ると思っているらしい。
「吉法師殿は聞き分けのいい子なのに、困った弟殿ですねぇ。どれどれ、腹痛がおさまるまで、私が一晩中撫でてあげましょうか。わしゃわしゃわしゃー! っとね」
どうせ嘘泣きだ、懲らしめてやれ、と思ったくらが、ニヤリと笑いながら信勝に接近しようとする。くらのことを邪悪な鬼か妖怪だと勘違いしているのか、信勝は恐怖して「びゃぁぁぁ!」と悲鳴を上げた。
「……姉上、もういいです。弟の具合が悪いみたいなので、騒ぐのはよしましょう」
吉法師がくらの袖をつかみ、そう言って止めた。
(ずいぶんと大人ぶったことを言っちゃって……。大丈夫なの? 無理してない? 母上に甘えなくていいの?)
くらは目で吉法師にそう問いかけたが、吉法師は固い笑顔のままコクリと頷いた。
「母上、どうか早くお元気になってください。弟のためにも」
「あっ、吉法師。待って……」
春の方が信勝に気を取られている間に、吉法師はそそくさと寝所から出て行ってしまった。春の方が呼び止める暇もない。
「ねえ、ねえ、吉法師殿。本当によかったのですか? ちょっとぐらい、あなたも母上に甘えていいのに……。なんで、あの可愛くない弟殿は母親を独占しようとするのかしら」
慌てて追いかけて来たくらが、廊下をずんずんと歩いている吉法師の横に並んでそう言う。信勝のあの態度に憤慨してくれているようだ。吉法師は、大好きな姉が自分の味方でいてくれることに小さな慰めを覚え、くらの細い手をそっと握る。
「吉法師は、いつも父上を独り占めしています。だから、弟は母上を独り占めしたいのでしょう。母上は、弟だけの母上なのです。弟が母上と一緒にいられる時間を吉法師が取ったら、不公平になってしまうからこれでいいのです。
そう、自分に言い聞かせることにしました。そうしたら、あいつを……弟を憎いと思わなくてすみますから。兄は弟を守るものなのに、憎んだりしたら母上を悲しませてしまいます」
「吉法師殿……」
くらは、吉法師の小さな手をギュッと握り返す。本当に家族思いの子なのね、それなのに母親に甘えることを許されないなんて……と哀れに思い、涙が出そうだった。
「それに、吉法師には姉上がいます。ずっと姉上が吉法師のそばにいてくれたら、吉法師は寂しくありません」
吉法師は姉を見上げ、ニッと笑う。
だが、笑い返してくれると思っていたくらは悲しそうに顔を歪ませ、「それは……それはね……」と苦しげに言った。
「それは無理なのよ。ずっとは一緒にいられないの、ごめんね。いつ吉法師殿に言おうかと悩んでいたのだけれど…………私、お嫁に行かないといけないの」
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