異形の神

 牛頭天王ごずてんのうは、インドにある祇園ぎおん精舎しょうじゃの守護神だという。


 津島には、いつ制作されたか分からない、十六・五センチぐらいの大きさの「木造もくぞう牛頭天王ごずてんのう倚像いぞう」が現在も伝わっている。津島牛頭天王社(現・津島神社)がかつて所蔵していて、明治の神仏分離令以後は神社とのゆかりが深い興禅寺こうぜんじに移されて今日に至るが、特別な公開時期以外は人々の目に触れることはない。筆者も実際にその木像を見たことはないが、写真で見る限り、それはまさしく異形の姿をした神だと言っていい。


 まず、顔が三つ、腕が十三もある。左右の顔は忿怒ふんぬの面。真ん中の顔は馬面で、頭には牛の頭をいただく。たくさんある手は、月輪がちりんほこ弓箭きゅうせん・斧などをそれぞれ持っている。そして、足元を見ると、両足は四本指――鳥の足だ。


 ちなみに、他の地域で信仰されている牛頭天王の像は馬面や鳥足ではないので、津島の牛頭天王はなおいっそう謎めいた姿をしている。五歳の吉法師きっぽうしが「化け物」と呼んでしまっても、やむを得なかっただろう。





 津島天王てんのう祭の「宵祭よいまつり」が行なわれる当日。


 吉法師と姉のは、平手ひらて政秀まさひでに護衛されて、牛頭天王社の宝物が安置されている部屋を訪れていた。が「宵祭を見物する前にお天王てんのう様(牛頭天王)の木像を拝んでおきたいわ」とわがままを言ったからである。


「お天王様は、相変わらずおっかないお顔をしているわねぇ。……おや? そんな不機嫌そうな顔をしてどうかしたのですか、吉法師殿? この間から何だかご機嫌斜めみたいですけれど」


 牛頭天王像を五、六秒見て飽きてしまったが弟の顔をのぞきこむと、吉法師は「姉上の嘘つき!」と言った。


「え? 私が嘘つきですって?」


「そうです。姉上が『牛頭天王は病を治してくれる神様だ』と言っていたから、母上の病気も天王祭でお祈りしたらきっとよくなると信じていたのに……。でも、大雲だいうん和尚様に牛頭天王の絵を見せてもらったら、そんな期待なんて無くなってしまいました」


 吉法師は、と目を合わせようとしない。大好きな姉にこんな態度を取るということは、よほど腹を立てているのだろう。姉弟の会話を黙って聞いている政秀は、


(あの悪戯和尚、また子供をからかって遊んだな。本当に、困ったお人だ……)


 と、あきれていた。


「ここの神社の木像は和尚様の絵よりも、もっともっと恐ろしい顔をしています。こんな不気味な見た目の神様が、病を治してくれるはずがありません。逆に母上の病気がますます悪くなるのでは、と心配なのです。もしそんなことになったら……絶対に、吉法師はこの神を許さない」


 吉法師は、牛頭天王像をギロリと睨み、物騒なことを口にした。


「この神を許さない」と言った瞬間の吉法師の表情は、や政秀が思わず息を呑むほど凄みがあり、二人とも驚いた。たかが五歳の幼児がこんな顔をできるのか、と思ったのである。いつもの優しくて愛嬌のある吉法師とはまったく別人で、荒ぶる神の牛頭天王に憑依ひょういされてしまったのではと心配になるほど、人を戦慄させるような恐ろしい剣幕だった。


「吉法師様。憎しみの心でお天王様を見つめてはいけませぬ。お天王様は、己を敬わぬ者を皆殺しにする激しい性格の神様だと言われています。

 しかし、尊崇の念をもってまつれば、その荒ぶる神力をもって災いから守ってくださいます。その異形の姿に惑わされることなく、我ら織田家の人々を長年に渡ってお守りくださったお天王様を信じるのです」


 政秀は少しきつめの口調で吉法師を諭した。

 織田家の人間にとって牛頭天王は特別な神様なのである。次期当主である吉法師が牛頭天王に悪感情を抱きかけているのは、荒ぶる神の祟りの前触れかも知れず、早急に考えを改めさせる必要があった。


「織田家の家紋が木瓜紋もっこうもんだということは、先日お教えしたはずです。木瓜紋はお天王様の神紋であり、織田家がお天王様を篤く信仰していたゆえ、当家の家紋としたのです。

 ……お天王様にまつわる、こんなお話があります。

 お天王様は嫁取りのための旅の途中、ある裕福な男に一夜の宿を求めたそうです。裕福な男は性根がねじ曲がった人物だったので断り、その男の兄で貧乏だった蘇民将来そみんしょうらいがお天王様を粗末な家でもてなしました。

 その後、お天王様は、自分を泊めなかった裕福な男とその一族五千人ほどを皆殺しにして、男の妻が蘇民将来の娘であったため、蘇民将来の娘だけは命を助けました。そして、

を作り、蘇民将来の子孫と書いた護符を付けていたら末代までも疫病から逃れることができるであろう』

 と娘に教えたと伝わっています。

 信じる者には繁栄をもたらし、そうでない者には祟りをなす。それが、荒ぶる神であるお天王様なのです。織田家はお天王様を篤く信仰し、先祖代々、お天王様の加護を受けてきました。吉法師様も、どうかお天王様をご自分の守り神として敬ってくださいませ。たしかに恐ろしい神様ではありますが、そのふところにかき抱いた者たちには慈悲をくださるお優しい一面もあるのですから……」


 政秀はそう語ると、牛頭天王像を伏し拝んだ。も政秀にならい、異形の神に手を合わせ、「ほら、吉法師殿も拝みなさい」とうながした。しかし、吉法師はまだ抵抗があるようだ。


「……その蘇民将来の昔話、お徳から聞いたことがある。でも、蘇民将来が家に泊めたのは須佐之男命すさのおのみことだとお徳は言っていたぞ? 平手のじいが神様の名前を間違えて覚えたのではないか?」


「いえいえ、それがしもお徳殿も間違ってはおりませぬ。お天王様は須佐之男命でもあるのです。ここ津島では、神農しんのうという神様(薬作りや農耕に長じた中国の伝説の皇帝)が、お天王様と同一神であると信仰されていますが、他の多くの地域ではお天王様と須佐之男命が同じ神様だと人々は信じているようです(津島で牛頭天王と須佐之男命が同一視されるようになるのは、江戸時代以降)。だから、話がごちゃごちゃになっているのではなく、同じ神様がやったことなのです」


「何だか、すごくおおざっぱだぞ。いいのか、それで」


「信じる心さえあれば、多少おおざっぱでも、神々は我ら人間の願いを聞き届けてくださるものなのでしょう。大切なのは信仰心なのですよ、吉法師様」


 幼い子供に指摘されて、(たしかに、おおざっぱだよなぁ……)と内心苦笑しつつ、政秀はそう言った。だが、神仏習合は大昔からの日本人の信仰のありかたなので、今さら文句を言っても仕方がない。


 この時代、あらゆる信仰は本質をたどれば全て同じであり、宗派の違う者同士が潰し合ったり、信仰を押しつけ合ったりするのは好ましくない、という思想が人々にはあったとされる。だから、おおざっぱでもいいのである。信仰心がありさえすれば。


「……分かった。牛頭天王を睨むのは、やめておく」


 吉法師はようやく納得したのか、いつもの愛らしい子供の表情に戻り、小さく頷いた。


 吉法師はまだ子供だというのに、どんなに怒っていても他人の言葉を頭の中で咀嚼そしゃくし、理解する冷静さを持っているようだ。政秀の「信じる者には繁栄をもたらし、そうでない者には祟りをなす」という言葉を聞き、


(牛頭天王という神様は、自分の恐ろしい姿を見た人間たちがどのような態度を取るのか試しているのかも知れない。吉法師が生意気な態度を取ったせいで母上の病気を悪化させられたら困る)


 と、考えていたのだ。


「吉法師は、お天王様が母上の病を絶対に治してくださると信じています」


 吉法師は、異形の神の木像に手を合わせ、宣言するようにそう言った。私は蘇民将来と同じようにあなたのことを敬っていますよ、と主張してみたのである。


「よし、よし。可愛い吉法師殿のお願いならば、お天王様もきっと叶えてくれますよ」


 は、弟の機嫌が直ったことにホッと胸を撫で下ろし、吉法師の頭を撫でてやった。


 吉法師はくすぐったそうにしながらも、その愛撫に身を任せている。姉から漂う少女特有の甘い香りが鼻をくずぐり、心地よかった。


 母親には甘えられず、堅物な性格のお徳は少し苦手であったため、吉法師が母性を感じている女性はだった。さすがに、信秀も姉弟が仲良くじゃれあっているのを見咎めたりはしないので、吉法師はにだけは父の目を気にすることなく甘えられるのである。ここ数日に対して怒っていたこともすっかり忘れて、


(ずっと姉上といたい……)


 と、吉法師は思うのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る