異形の神
津島には、いつ制作されたか分からない、十六・五センチぐらいの大きさの「
まず、顔が三つ、腕が十三もある。左右の顔は
ちなみに、他の地域で信仰されている牛頭天王の像は馬面や鳥足ではないので、津島の牛頭天王はなおいっそう謎めいた姿をしている。五歳の
津島
吉法師と姉のくらは、
「お天王様は、相変わらずおっかないお顔をしているわねぇ。……おや? そんな不機嫌そうな顔をしてどうかしたのですか、吉法師殿? この間から何だかご機嫌斜めみたいですけれど」
牛頭天王像を五、六秒見て飽きてしまったくらが弟の顔をのぞきこむと、吉法師は「姉上の嘘つき!」と言った。
「え? 私が嘘つきですって?」
「そうです。姉上が『牛頭天王は病を治してくれる神様だ』と言っていたから、母上の病気も天王祭でお祈りしたらきっとよくなると信じていたのに……。でも、
吉法師は、くらと目を合わせようとしない。大好きな姉にこんな態度を取るということは、よほど腹を立てているのだろう。姉弟の会話を黙って聞いている政秀は、
(あの悪戯和尚、また子供をからかって遊んだな。本当に、困ったお人だ……)
と、あきれていた。
「ここの神社の木像は和尚様の絵よりも、もっともっと恐ろしい顔をしています。こんな不気味な見た目の神様が、病を治してくれるはずがありません。逆に母上の病気がますます悪くなるのでは、と心配なのです。もしそんなことになったら……絶対に、吉法師はこの神を許さない」
吉法師は、牛頭天王像をギロリと睨み、物騒なことを口にした。
「この神を許さない」と言った瞬間の吉法師の表情は、くらや政秀が思わず息を呑むほど凄みがあり、二人とも驚いた。たかが五歳の幼児がこんな顔をできるのか、と思ったのである。いつもの優しくて愛嬌のある吉法師とはまったく別人で、荒ぶる神の牛頭天王に
「吉法師様。憎しみの心でお天王様を見つめてはいけませぬ。お天王様は、己を敬わぬ者を皆殺しにする激しい性格の神様だと言われています。
しかし、尊崇の念をもって
政秀は少しきつめの口調で吉法師を諭した。
織田家の人間にとって牛頭天王は特別な神様なのである。次期当主である吉法師が牛頭天王に悪感情を抱きかけているのは、荒ぶる神の祟りの前触れかも知れず、早急に考えを改めさせる必要があった。
「織田家の家紋が
……お天王様にまつわる、こんなお話があります。
お天王様は嫁取りのための旅の途中、ある裕福な男に一夜の宿を求めたそうです。裕福な男は性根がねじ曲がった人物だったので断り、その男の兄で貧乏だった
その後、お天王様は、自分を泊めなかった裕福な男とその一族五千人ほどを皆殺しにして、男の妻が蘇民将来の娘であったため、蘇民将来の娘だけは命を助けました。そして、
『
と娘に教えたと伝わっています。
信じる者には繁栄をもたらし、そうでない者には祟りをなす。それが、荒ぶる神であるお天王様なのです。織田家はお天王様を篤く信仰し、先祖代々、お天王様の加護を受けてきました。吉法師様も、どうかお天王様をご自分の守り神として敬ってくださいませ。たしかに恐ろしい神様ではありますが、その
政秀はそう語ると、牛頭天王像を伏し拝んだ。くらも政秀にならい、異形の神に手を合わせ、「ほら、吉法師殿も拝みなさい」とうながした。しかし、吉法師はまだ抵抗があるようだ。
「……その蘇民将来の昔話、お徳から聞いたことがある。でも、蘇民将来が家に泊めたのは
「いえいえ、それがしもお徳殿も間違ってはおりませぬ。お天王様は須佐之男命でもあるのです。ここ津島では、
「何だか、すごくおおざっぱだぞ。いいのか、それで」
「信じる心さえあれば、多少おおざっぱでも、神々は我ら人間の願いを聞き届けてくださるものなのでしょう。大切なのは信仰心なのですよ、吉法師様」
幼い子供に指摘されて、(たしかに、おおざっぱだよなぁ……)と内心苦笑しつつ、政秀はそう言った。だが、神仏習合は大昔からの日本人の信仰のありかたなので、今さら文句を言っても仕方がない。
この時代、あらゆる信仰は本質をたどれば全て同じであり、宗派の違う者同士が潰し合ったり、信仰を押しつけ合ったりするのは好ましくない、という思想が人々にはあったとされる。だから、おおざっぱでもいいのである。信仰心がありさえすれば。
「……分かった。牛頭天王を睨むのは、やめておく」
吉法師はようやく納得したのか、いつもの愛らしい子供の表情に戻り、小さく頷いた。
吉法師はまだ子供だというのに、どんなに怒っていても他人の言葉を頭の中で
(牛頭天王という神様は、自分の恐ろしい姿を見た人間たちがどのような態度を取るのか試しているのかも知れない。吉法師が生意気な態度を取ったせいで母上の病気を悪化させられたら困る)
と、考えていたのだ。
「吉法師は、お天王様が母上の病を絶対に治してくださると信じています」
吉法師は、異形の神の木像に手を合わせ、宣言するようにそう言った。私は蘇民将来と同じようにあなたのことを敬っていますよ、と主張してみたのである。
「よし、よし。可愛い吉法師殿のお願いならば、お天王様もきっと叶えてくれますよ」
くらは、弟の機嫌が直ったことにホッと胸を撫で下ろし、吉法師の頭を撫でてやった。
吉法師はくすぐったそうにしながらも、その愛撫に身を任せている。姉から漂う少女特有の甘い香りが鼻をくずぐり、心地よかった。
母親には甘えられず、堅物な性格のお徳は少し苦手であったため、吉法師が母性を感じている女性はくらだった。さすがに、信秀も姉弟が仲良くじゃれあっているのを見咎めたりはしないので、吉法師はくらにだけは父の目を気にすることなく甘えられるのである。ここ数日くらに対して怒っていたこともすっかり忘れて、
(ずっと姉上といたい……)
と、吉法師は思うのであった。
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