大雲和尚

 兄弟の間でそのような事件があって数日経ったある日。


 信秀は、吉法師きっぽうしを連れて、勝幡しょうばた城から近い津島の興禅寺こうぜんじ(現・愛知県津島市に所在)に来ていた。この寺に、伯父の大雲だいうん永瑞えいずいが昨日から仏事のため滞在していたからである。


 大雲は、尾張東部の曹洞宗そうとうしゅうの寺・雲興寺うんこうじ(現・愛知県瀬戸市に所在)の住職で、名僧として尾張の人々の尊敬を集めている人物だった。

 信秀は、今川義元が臨済宗の名僧・太原たいげん崇孚そうふ雪斎せっさい)を自らの補佐役としたように、大雲に軍事や政治の実権を与えることはしなかったが、悩みごとがある時はこの伯父にあれこれと相談に乗ってもらうなど精神的支柱として頼りにしていたのである。


 今日は、嫡男の吉法師を大雲に会わせることが目的だった。吉法師は赤ん坊の頃に何度か大雲と会い、抱いてもらったこともあるが、きっと覚えていないだろう。吉法師が武将として成長したあかつきには、信秀がそうであったように、大雲には吉法師の相談役として支えになってもらいたいのである。


「おお、この子が吉法師か。ずいぶんと大きくなったではないか」


 吉法師と対面した大雲は、心に深く沁み込むような寂声さびごえでそう言い、穏やかに微笑んだ。


 吉法師は、いささか緊張している。大雲は自分の大伯父にあたる偉いお坊様らしいが、長年山籠もりの修行をしてきた剣豪のように見えた。


 ゆったりとした僧衣からでも、いわおのごとくたくましい肉体であることが分かる。白いものが混じった太眉の下では、剃刀かみそりのように鋭い眼が爛々らんらんと輝いており、荒武者として武名をはせている内藤ないとう勝介しょうすけ青山あおやま与三右衛門よそうえもんら信秀の家臣たちが可愛く見えてしまうほどの威厳が大雲にはあった。


 ただ、生きてきた年数だけのしわが整った顔に刻まれていて、その皺が大雲の凄みのある容貌に柔らかさを多少だが与えているようだ。若い頃は今以上に迫力があったことだろう。


「和尚様、お会いできて嬉しゅうございます。信秀の嫡男、吉法師です」


 吉法師は、緊張しながらも、城を出立する前にお徳から教えられていたあいさつの言葉を丁寧に言った。


「うむ、きちんとあいさつができて偉いぞ。だが、こんなおっかない顔のじいさんと会うよりも、津島の港町で遊ぶほうが嬉しいであろう?」


「それは、まあ……い、いえ! そんなことは無いです!」


 吉法師は慌てて言い直したが、信秀に「こら、吉法師。和尚様に対して失礼だぞ」と叱られてしまった。


「ハッハッハッ。よい、よい。子供は素直なのが一番じゃ。幼い内から嘘をつくことを覚えたら、ろくな大人にはならないからな」


「申しわけありませぬ、伯父上」


「何を言っておる、信秀よ。お前、元服してからは殊勝な態度を取るようになったが、子供の頃はわしに向かって『坊主のかっこうをした赤鬼め!』などと悪態をついていたのを忘れたのか? あれに比べたら、吉法師は可愛い、可愛い」


「う……ぐっ……。あの頃は、俺も生意気盛りの悪ガキでしたので……」


 いつも豪放ごうほう磊落らいらくな信秀が、大雲の前ではずいぶんと大人しい。向かうところ敵なしの武将である父でも頭が上がらない人がいるのだな、と吉法師は驚いていた。


「……ところで、信秀。秀敏ひでとし(大雲の弟。信秀の叔父)から聞いたが、吉法師は同じ城にいるのに他の兄弟と顔を合わせることがあまりなく、毎日寂しそうに一人で剣術や学問を教わっているそうではないか。たまに、姫が信広(信長の庶兄)を強引に連れて来て、吉法師の剣の修行につき合わせていることはあるらしいが……」


 ついさっきまでふざけていた大雲が、急に真面目くさった顔になる。こういう時はだいたい説教をされるのがお約束なので、信秀は少し身構えた。


「はい。かわいそうだとは思いますが、吉法師は後継ぎとしての特別な教育を施さねばならぬのです。一族を背負って立つ責任がある者には、甘えは許されません」


「甘やかす、甘やかさないの話をしておるのではない。もう一つ聞くが、吉法師には友達はいるのか。何人ぐらい、家臣の息子たちを吉法師のそばに仕えさせている?」


「お徳の息子(池田いけだ恒興つねおき)を、もう少し大きくなったら吉法師に近侍させようと思っています。他にも、重臣たちの中で利口そうな子息がいないか探している最中ですが……。それがどうかしましたか?」


 信秀が怪訝そうに聞くと、大雲は「吉法師はもう五歳なのに、やることが遅いぞ。兵法者や学のある僧侶につきっきりで修行させることだけが、お前の子供の教育なのか。早々に家臣たちの子を集めて、吉法師に仕えさせなさい。そして、なるべく同世代の兄弟や家来の子たちと共に学ばせるのだ」と語った。


「我々禅僧は、集団で生活して修行をしている。坐禅ざぜんを組むぐらい一人でできるのに、なぜ集団しゅうだん修道しゅうどうを行うのか、お前には分かるか?」


「……いえ、分かりませぬ」


「修行とは、己事究明こじきゅうめい(自分とは何か見極めること)じゃ。だが、たった一人で修行を続けていたら、自分のことしか考えられなくなる。自分勝手な人間になってしまい、最後には己を見失ってしまうものなのじゃ。だからこそ、共に修行し、己の傲慢を指摘してくれる他者が必要なのだ。

 人間は自分以外の人間と一緒にいると、自分の欠点や至らぬところに気づくことができる生き物じゃ。他者は、己の欠点を映し出してくれる鏡と言っていい。人間は、そばに他者を置いてこそ、本当の意味で自分を磨くことができるのじゃ。

 後継ぎとして他の子供とは違う特別な教育を施したいというお前の気持ちも分かるが、兄弟や友人たちと共に同じことを学び、時には遊ぶ経験を吉法師にもさせてやりなさい。大人たちに囲まれ、一人で剣術や学問をさせてばかりいたら、吉法師が周囲の言うことに耳を貸さない傲慢な殿様になってしまうぞ」


「他者は、己を映す鏡……。たしかに、おっしゃる通りです。俺は、戦は得意ですが、子育てとなると、どうも勝手が分からなくて……。恥ずかしい限りです」


 信秀はうなだれ、苦しげな声で言葉を絞り出した。押しも押されもせぬ尾張随一の武将となった信秀だが、少年時代に幾度となく拳骨を喰らわされた伯父に説教をされると、未熟だった子供の時分に戻ったような感覚に襲われる。


「誰でも最初は父親の初心者じゃよ。……それに、お前は十六歳で父を、十七歳で母を亡くしてしまった。『何事にもせんだつはあらまほしきもの』と言うが、子育てとはどういうものか教えてくれる両親がいないお前は苦労が多いやも知れぬな。困ったことがあったら、秀敏や同じように息子を持つ弟たちと相談するがよいぞ」


 慰めるような優しい口調でそう言うと、大雲はポカンとした表情で二人の会話を聞いている吉法師の頭を撫でてやった。そして、辛気臭い話はここまで、と切り替えたように吉法師に明るく話しかける。


「そうじゃ、吉法師。今度、津島の天王てんのう祭を初めて見物するそうだな」


「はい! 母上の病が治るようにお祈りするのです。牛頭天王は病を治してくれる神様だと姉上が言っていました」


「ふむ、そうか。母者が早くよくなるといいのう。……そういえば、吉法師は牛頭天王がどんなお姿をしているのか知っているか?」


「いいえ」


 吉法師がそう答えながら頭をふるふる振ると、大雲は悪戯っぽくニヤリと笑った。


「ならば、儂が絵に描いてやろう。病を治してくださるという神のお姿をな」


「きっと、とても優しそうなお顔をしているのでしょうね。ぜひ見てみたいです」


 好奇心が強い吉法師は、目を輝かせながらそう言う。大雲は「よし、よし」と頷き、興禅寺の僧侶に紙と筆を持って来てくれるよう頼んだ。


(……子供にあの異形いぎょうを見せるのは、刺激が強すぎるのではないかな?)


 信秀はそう思ったが、大雲が楽しそうなので黙っておいた。もうずいぶんな年なのに、子供をビックリさせて面白がる困った性格は健在らしい。


 やがて、大雲は紙にサラサラと流麗な筆遣いで絵を描き始める。吉法師はワクワクしながら、牛頭天王はどんな姿をしているのだろうと想像を膨らませた。


「よし、できた。これが、牛頭天王様じゃ」


 大雲は吉法師の顔の前で紙を広げ、墨で描いた牛頭天王の絵を見せた。


 吉法師の眼に焼きついた、その癒しの神の姿とは――。


「ば、化け物だぁっ‼」


 吉法師は驚きのあまり、ひっくり返りそうになってしまった。

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