大雲和尚
兄弟の間でそのような事件があって数日経ったある日。
信秀は、
大雲は、尾張東部の
信秀は、今川義元が臨済宗の名僧・
今日は、嫡男の吉法師を大雲に会わせることが目的だった。吉法師は赤ん坊の頃に何度か大雲と会い、抱いてもらったこともあるが、きっと覚えていないだろう。吉法師が武将として成長したあかつきには、信秀がそうであったように、大雲には吉法師の相談役として支えになってもらいたいのである。
「おお、この子が吉法師か。ずいぶんと大きくなったではないか」
吉法師と対面した大雲は、心に深く沁み込むような
吉法師は、いささか緊張している。大雲は自分の大伯父にあたる偉いお坊様らしいが、長年山籠もりの修行をしてきた剣豪のように見えた。
ゆったりとした僧衣からでも、
ただ、生きてきた年数だけの
「和尚様、お会いできて嬉しゅうございます。信秀の嫡男、吉法師です」
吉法師は、緊張しながらも、城を出立する前にお徳から教えられていたあいさつの言葉を丁寧に言った。
「うむ、きちんとあいさつができて偉いぞ。だが、こんなおっかない顔のじいさんと会うよりも、津島の港町で遊ぶほうが嬉しいであろう?」
「それは、まあ……い、いえ! そんなことは無いです!」
吉法師は慌てて言い直したが、信秀に「こら、吉法師。和尚様に対して失礼だぞ」と叱られてしまった。
「ハッハッハッ。よい、よい。子供は素直なのが一番じゃ。幼い内から嘘をつくことを覚えたら、ろくな大人にはならないからな」
「申しわけありませぬ、伯父上」
「何を言っておる、信秀よ。お前、元服してからは殊勝な態度を取るようになったが、子供の頃は
「う……ぐっ……。あの頃は、俺も生意気盛りの悪ガキでしたので……」
いつも
「……ところで、信秀。
ついさっきまでふざけていた大雲が、急に真面目くさった顔になる。こういう時はだいたい説教をされるのがお約束なので、信秀は少し身構えた。
「はい。かわいそうだとは思いますが、吉法師は後継ぎとしての特別な教育を施さねばならぬのです。一族を背負って立つ責任がある者には、甘えは許されません」
「甘やかす、甘やかさないの話をしておるのではない。もう一つ聞くが、吉法師には友達はいるのか。何人ぐらい、家臣の息子たちを吉法師のそばに仕えさせている?」
「お徳の息子(
信秀が怪訝そうに聞くと、大雲は「吉法師はもう五歳なのに、やることが遅いぞ。兵法者や学のある僧侶につきっきりで修行させることだけが、お前の子供の教育なのか。早々に家臣たちの子を集めて、吉法師に仕えさせなさい。そして、なるべく同世代の兄弟や家来の子たちと共に学ばせるのだ」と語った。
「我々禅僧は、集団で生活して修行をしている。
「……いえ、分かりませぬ」
「修行とは、
人間は自分以外の人間と一緒にいると、自分の欠点や至らぬところに気づくことができる生き物じゃ。他者は、己の欠点を映し出してくれる鏡と言っていい。人間は、そばに他者を置いてこそ、本当の意味で自分を磨くことができるのじゃ。
後継ぎとして他の子供とは違う特別な教育を施したいというお前の気持ちも分かるが、兄弟や友人たちと共に同じことを学び、時には遊ぶ経験を吉法師にもさせてやりなさい。大人たちに囲まれ、一人で剣術や学問をさせてばかりいたら、吉法師が周囲の言うことに耳を貸さない傲慢な殿様になってしまうぞ」
「他者は、己を映す鏡……。たしかに、おっしゃる通りです。俺は、戦は得意ですが、子育てとなると、どうも勝手が分からなくて……。恥ずかしい限りです」
信秀はうなだれ、苦しげな声で言葉を絞り出した。押しも押されもせぬ尾張随一の武将となった信秀だが、少年時代に幾度となく拳骨を喰らわされた伯父に説教をされると、未熟だった子供の時分に戻ったような感覚に襲われる。
「誰でも最初は父親の初心者じゃよ。……それに、お前は十六歳で父を、十七歳で母を亡くしてしまった。『何事にも
慰めるような優しい口調でそう言うと、大雲はポカンとした表情で二人の会話を聞いている吉法師の頭を撫でてやった。そして、辛気臭い話はここまで、と切り替えたように吉法師に明るく話しかける。
「そうじゃ、吉法師。今度、津島の
「はい! 母上の病が治るようにお祈りするのです。牛頭天王は病を治してくれる神様だとくら姉上が言っていました」
「ふむ、そうか。母者が早くよくなるといいのう。……そういえば、吉法師は牛頭天王がどんなお姿をしているのか知っているか?」
「いいえ」
吉法師がそう答えながら頭をふるふる振ると、大雲は悪戯っぽくニヤリと笑った。
「ならば、儂が絵に描いてやろう。病を治してくださるという神のお姿をな」
「きっと、とても優しそうなお顔をしているのでしょうね。ぜひ見てみたいです」
好奇心が強い吉法師は、目を輝かせながらそう言う。大雲は「よし、よし」と頷き、興禅寺の僧侶に紙と筆を持って来てくれるよう頼んだ。
(……子供にあの
信秀はそう思ったが、大雲が楽しそうなので黙っておいた。もうずいぶんな年なのに、子供をビックリさせて面白がる困った性格は健在らしい。
やがて、大雲は紙にサラサラと流麗な筆遣いで絵を描き始める。吉法師はワクワクしながら、牛頭天王はどんな姿をしているのだろうと想像を膨らませた。
「よし、できた。これが、牛頭天王様じゃ」
大雲は吉法師の顔の前で紙を広げ、墨で描いた牛頭天王の絵を見せた。
吉法師の眼に焼きついた、その癒しの神の姿とは――。
「ば、化け物だぁっ‼」
吉法師は驚きのあまり、ひっくり返りそうになってしまった。
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