兄と弟

 狂犬のような目つきで噛みついてきたその子供は、吉法師きっぽうしのすぐ下の弟――後のかん十郎じゅうろうのぶかつだった(幼名が不明なため、以降は信勝と呼称)。


 お里は、いつの間に自分の後ろにいたのだろうと驚き、目を白黒させた。


「な、何てことをするのですか? 吉法師殿はあなたのお兄様ですよ? おやめなさい」


 慌てて信勝を吉法師から引き離そうとしたが、無理だった。噛みついたら絶対にはなさないスッポンのごとく、信勝は兄の右手に喰らいついている。目は尋常ではないほど血走っていて、狼のような唸り声を上げていた。


「ううっ……ぐう……」


 吉法師は歯を食いしばって耐えていたが、そろそろ我慢ならなくなってきた。幼児のあごの力でそんなことはできないだろうが、もしかしたら信勝は吉法師の右手の肉を食いちぎろうとしているのかも知れない。


「や……やめ……」


 お里は涙声になって信勝の腕を引っ張るが、子犬のように小さい弟の鬼のような形相が恐ろしく、体に力が入らない。この場に勝ち気な性格のがいたら、強引に引き剥がしただろう。しかし、お里はとても気弱な少女だった。


 ――母上はお前の母上じゃない。私だけの母上だ。母上に近づくな。


 右手の感覚がだんだん無くなっていく中、吉法師は信勝の心の声が聞こえたような気がした。


(別に、お前から母上を取るつもりはないのに……)


 吉法師と信勝は、正室の春の方が産んだ男子だが、その境遇は全く違う。兄の吉法師は、後継ぎとして日頃から信秀の薫陶くんとうを受け、家臣たちの期待も一身に受けている。


 一方、弟の信勝はというと、信秀の息子たちの中でも一番ひ弱なうえに泣き虫で、卑屈そうなその目つきはまったく可愛げがない。ひどく人見知りで、年の近いきょうだいと遊ぶのすら嫌がった。心配した春の方が無理に遊ばせようとすると、熱を出して寝こむこともあった。


 この時代、幼児の死亡率は非常に高い。信勝は立派な武将になるどころか、神の手の内から離れる七歳までに死ぬかも知れない。いくら正室の子といっても、そんな将来の望みが薄い子供を盛り立てようとする家来はほとんどいなかった。信勝にとって、母である春の方の愛情だけが頼りだったと言っていい。


 自分を取り巻く複雑な環境を幼い信勝が頭で理解しているはずはないが、心の中では何となく察しているのだろう。物心がついて間もない頃には、信勝は自分の唯一の味方である母の愛情を独占することに激しい執着を見せるようになっていた。兄の吉法師が近づこうとするたびに、どこからともなく走って来て、吉法師の手を食いちぎろうとするようになったのも、この頃からだ。腹違いのきょうだいにはびくびく怯えて寄り付こうともしないのに、同母兄の吉法師に対してだけは異常なほど攻撃的だったのである。


 ――母上は、お前には渡さないぞ。


 という激しい憎悪に満ちた意思表示なのだろう。


 五歳の吉法師にも、父が自分をどの兄弟よりも大事に扱い、弟の信勝とは差をつけていることは何となく分かっている(その理由が「嫡男としての格をつけるため」だということは理解していないが)。


 だが、逆を言えば、吉法師は常に家来たちにかしずかれている代わりに、母の愛をほとんど知らない。嫡男として厳しく育てられ、けっして甘やかされているわけではなかった。


(母上が病気の時ぐらいは、お会いしたい。咳き込んで苦しんでいるという母上の背中をさすってあげたい)


 吉法師は切にそう思うのだが、信勝はそれを絶対に許したくないのだ。


 ――母上に甘えていいのは、私だけだ! お前はあっちに行け!


 兄の手を喰らいながら上目遣いで睨む信勝の充血した眼は、そう訴えていた。


 普段はひ弱なくせして兄にだけは牙をむくのか、と吉法師はさすがに頭にきた。


「い、いい加減にしろ!」


 左手を振り上げ、信勝を殴ろうとする。


 ……だが、しばし迷った後、握りしめた拳をゆっくりとおろした。


(兄は、弟を守るものだ。母上が、ずいぶん前にお会いした時にそう言っていた。弟は泣き虫で弱い子だから、兄であるあなたが守ってあげてください、と……。この吉法師の手を優しく握ってくれて、母上はそう言っていたのだ。それなのに、ここで殴ったら、母上を悲しませるかも知れない)


 信勝が噛み疲れて吉法師の手から離れた時、「人の手を噛んだら駄目だ」と、ちゃんと言い聞かせてやるのが、母が望む「弟を守ってやる兄」なのではないか。


 吉法師は、痛みに顔を歪ませながら、


(もう少し、辛抱しよう)


 と自分に言い聞かせた。


 だが、その次の瞬間、信勝は「うぎゃぁぁぁ!」と悲鳴を上げながら倒れ、吉法師の足元でのたうち回っていたのである。


 ずっと様子を見ていた信清が、見るに見かねて、信勝の小さな体を思いきり蹴飛ばしたのだ。


「こんな生意気なチビ、さっさと蹴り飛ばしてやればいいんだ。噛まれたのにやり返さなかったら、いつか本当に手の肉を食いちぎられるぞ、吉法師殿」


 得意げに信清がそう言う。吉法師は、信清の頭に拳骨を喰らわせた。


「い、痛っ! 助けてやったのに、なんで殴る⁉」


「年下の子供に対して、やりすぎだ。弟が頭を強く打って死んでしまったら、お前のせいだぞ」


 実際、蹴られた信勝が頭から転倒した時、ゴツンと鈍い音がした。同世代の子供たちの中では力が強いほうの信清が貧弱な体の信勝を本気で蹴ったら、大怪我をする可能性がある。


「大丈夫ですか? どこか怪我は……」


 お里がおろおろしながら、泣き喚いている信勝を抱き起こそうとした。強い風が吹けば倒れる非力な姉だけでは大変そうだったので、吉法師も信勝の腕をつかんで手伝う。


「いや! いや! さわるな!」


 信勝はそう言ってぐずり、二人の手から逃れようと足をジタバタさせた。


「ははうえー! あんじゃ(兄者)がいじめた! あんじゃがけった! うわぁぁぁん!」


「け、蹴ったのは吉法師ではないぞ。そんな嘘を大声で叫ぶな」


 とんでもないことを言われ、狼狽ろうばいした吉法師は手を放してしまった。ここは奥御殿に近いから母上に聞こえるかも、と思ったのだ。


 その隙を見逃さず、信勝はまたもや兄の右手をガブッと噛んだ。


「ぎゃっ⁉」


 不意打ちを喰らった吉法師は、思わず声を上げる。お里も唖然あぜんとして、信勝から手を放していた。


「あっ、またか。このチビ!」


 信清が拳を振り上げて信勝に飛びかかろうとしたが、信勝は廊下に転がっていた菓子の包を庭めがけて蹴飛ばすと、一目散に奥御殿のほうへと逃げて行った。


「なんて逃げ足の速さだ。あいつ、もっとチビの頃は病弱だったけれど、今はものすごく元気に見えるぞ。母親に甘えるために、ひ弱なふりでもしているんじゃないのか?」


「まさか……」


 吉法師はそう呟きつつ、庭の土の上に無残にも散らばり落ちている菓子を見つめていた。


(今頃はあいつが「あんじゃにいじめられた」と母上に言いつけに行っているだろうし、どっちみち今日はもう母上の所へは行けないな……)


 母に病魔退散の菓子を食べさせてあげるという口実によって、吉法師は母の元へ行く許可を父にもらった。でも、その菓子はもう無い。それなのに母に会いに行ったら、父に嘘をついたことになる。だから、今日は母には会えない。


 吉法師は、母のことになると諦めが早かった。

 吉法師が母にべたべたしたがる素振りを見せると、父・信秀の目が険しくなるからだ。父は吉法師が母に近づくことをあまり喜ばないみたいである。理由は話してくれないが、吉法師にとって強く勇敢な父は絶対的存在なので、父が望まない道に行くつもりはない。信勝が母の愛に執着するように、吉法師も偉大なる父に失望されることを恐れていたのだ。


「吉法師殿、手は大丈夫ですか? 私が手当をしてあげるので、その後で春の方様のところへ……あれ? どうして戻ろうとするのです?」


 奥御殿の方角から背を向ける吉法師に対して、お里が呼び止めた。吉法師は「もう、いいのです。母上にあげようと思っていた菓子は駄目になってしまったし」と言い、ぎこちなく微笑む。心に制御をかけ、母恋しの想いを頭の隅へと追いやろうとして必死だった。


「吉法師殿……。あっ、せめて傷の手当をしましょう。血が出ていますよ」


「そういうことは、乳母のお徳がやってくれます。お徳は、他の人間に怪我の手当をさせると、『私は吉法師様のお世話を殿様から命じられているのです。私の役目を他の者にさせるなんて、あんまりな仕打ちです。今度そんなことをなさったら切腹します』と泣き出すので、お徳以外の者にはさせられないのです」


「そ、そう……。物凄く堅物なひととはくら姫から聞いていたけれど、噂通りなのね」


 そんなカチコチな女の人では吉法師殿の母親代わりにはなれていなさそうだなぁ……とお里は吉法師のことを気の毒に思うのであった。

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