織田が多すぎる

「さるほどに尾張国八郡なり」


 とは、太田おおた牛一ぎゅういち(信長の側近だった男)が著した『信長公記しんちょうこうき』首巻の冒頭の一文である。


 八つの郡は北と南に分かれて、二人の守護代しゅごだい(国主である守護の下に置かれた代官)がそれぞれ治めていた。


 北の上四郡が、丹羽にわ郡・葉栗はぐり郡・中島なかしま郡・春日井かすがい郡である(異説あり)。守護代の織田伊勢守いせのかみ家は、岩倉いわくら城を拠点にしていた。


 南の下四郡――海東かいとう郡・海西かいせい郡・愛知あいち郡・知多ちた郡(これも異説あり)――は、もう一人の守護代である織田大和守やまとのかみ家が支配し、清須きよす城に居を構えていた。


 尾張国の守護、つまり国主であったのは斯波しば氏だ。斯波氏の当主は尾張の人々から、


えい様」


 と呼ばれ、大和守家の当主と共に清須にあった。「武衛」とは、兵衛府ひょうえふの唐名(中国風の呼び方)で、斯波氏が代々、兵衛督ひょうえのかみ兵衛佐ひょうえのすけに任官したのが由来だ。


 さて、これがこの当時の尾張の情勢である。実際にはこんなにも綺麗な領地の線引きはされていなかったとも言われているが、『信長公記』の記述に従ってざっと記してみた。


 では、我らが信長の父・信秀はこれらの内のどこに属していたかというと――彼は下四郡の守護代・大和守家の家来に過ぎなかった。言わば、尾張国主の家来の家来、陪臣ばいしんだ。


 そんな男が、今、尾張国を一つにまとめあげる中心的人物となりつつあったのである。



            *   *   *




 古野ごや城を奪取した信秀は、この一件を「武衛様」の斯波しば義統よしむねと主君である守護代・織田大和守達勝みちかつに報告するべく、清須城に登城していた。


 城には、那古屋での異変を聞きつけて、大和守家の重臣たちだけでなく、上四郡の守護代・織田伊勢守信安のぶやすまでもが岩倉城から駆けつけていた。


弾正忠だんじょうのちゅう(信秀)。なぜ、我らに何の相談も無く、事を起こしたのだ。けしからんぞ」


 清須城内の守護館に集まった織田一族の中で最初に発言したのは、信秀の同僚の織田因幡守いなばのかみ達広みちひろだった。すると、これもまた信秀の同僚である織田藤左衛門とうざえもん寛故とおもとが「いきなり喧嘩腰はやめぬか、因幡守」とたしなめた。


「だが、けしからんではないか。独断で兵を動かすなど、けしからん!」


「けしからん、けしからんと、おぬしはけしからんしか言えぬのか。これからは、ケシカラン殿と呼ぶぞ」


「だまらっしゃい! 骨ばった顔と手足が哀れな痩せぎすの骨左衛門ほねざえもん殿が、偉そうに言うな!」


「ほ、ほね……」


「おぬしは、いつの間に弾正忠の手下に成り下がったのだ。我ら三奉行は、元々は対等な関係であっただろう!」


「私は、別に信秀殿の家来になったわけでは……」


 弾正忠家

 因幡守家

 藤左衛門家


 この三家は、下四郡守護代の大和守家に仕える重臣たちで、俗に清須三奉行と呼ばれている。


 信秀の弾正忠家は、父・のぶさだ(信定)の代から成長目覚ましく、三奉行の中で人望・武力・経済力の全てにおいて一頭地を抜きん出ていた。いや、その実力は守護代すら凌駕りょうがしているだろう。


 藤左衛門家は信秀の生母・含笑院がんしょういん(いぬゐ)の実家だが、急速に成長してきた信秀のことを以前から警戒していた。だから、含笑院が亡くなると、主君の大和守達勝と手を組んで信秀を攻撃したのである。


 戦いは一年ほど続いた。信秀は主君の軍勢を相手にしても一歩も引かず、かといって主君を追いつめようという本格的な攻勢には出ようとはしなかった。あくまでも、


「私は殿様と戦いたくはないのですが、向こうから攻めて来るので仕方なくお相手させて頂いているだけです」


 という態度を崩さなかったのだ。


 攻めあぐねた達勝は、信秀の居城・勝幡しょうばた城の西方(尾張~伊勢の境界付近)で勢力を拡大させていた一向宗と連携し、信秀を挟撃きょうげきする計画を立て始めた。達勝は以前から一向宗の総本山の本願寺ほんがんじと親密な繋がりがあったのである。


 だが、そんな時、見計らったかのように信秀の重臣・平手ひらて政秀まさひでが使者として清須城に現れたのだった。


 政秀は、信秀にとってまさに切り札と言うべきたぐいまれなる外交官だった。


「このまま延々と身内同士が争っていては、尾張の国が疲弊ひへいしてしまうことは必定ひつじょうでござる。武勇の誉れ高い我が主君・信秀様を潰すことよりも、尾張の国のために活かすことをどうかお考えください。百戦錬磨の信秀様が中心となって尾張の軍を集結させたら、隣国の脅威など恐れるに足りません。尾張国の繁栄のため、賢明なるご決断をぜひともお願いいたしまする」


 と、持ち前の情熱と誠実さで説き伏せ、


「仲間割れをするよりも結束するほうが得策なのではないか……」


 ということを、主君達勝やその当時の藤左衛門家の当主に気づかせたのである。


 そういった経緯で、今では藤左衛門家と弾正忠家は和解し、新たな縁組の約束までしていた。今の藤左衛門家当主・寛故は、もはや信秀の一味と言っていい。


 だが、数年前の身内同士の戦では傍観を決め込んでいた因幡守達広だけは、


(このままでは信秀めが尾張の主におさまるのではないか)


 と危惧きぐしていたのである。


 達広自身が、尾張を我が物にしたいという野望を抱いていたからこそ、「あいつも野心があるに違いない」と疑っていたのだ。




            *   *   *




「藤左衛門殿。因幡守殿が怒るのは最もなことですぞ」


 達広に加勢したのは、短躯たんく肥満ひまん蹴鞠けまりのようにコロコロした体つきの男だった。


 この蹴鞠男は織田氏ではない。坂井さかい大膳だいぜんという名で、大和守家のさい(家長に代わって家政を取りしきる職)を務めている重臣である。大膳は、いまや尾張において少数派となった反信秀派の一人である。


「那古野城主であったうじとよは、今川いまがわ義元よしもとの弟です。今川家の領地だった那古野を弾正忠殿が奪い取ったことで、我らは義元の恨みを買ったことでしょう。いずれ今川家の勢力が西に伸びた時、尾張における今川領回復の名目で攻め込まれる恐れが生じてしまいました」


 大膳は、蹴り飛ばしたら蹴鞠みたいに遠くへ飛んで行きそうな体形だが、その声はとても重々しくて凄みがある。また、目つきは毒蛇のように妖しく光り、正直言って気色が悪い。この蹴鞠男の不気味さに、信秀を擁護していた藤左衛門寛故はたじろぎ、押し黙ってしまった。


 責められている当の信秀はというと、


(今すぐ顔面に蹴りを喰らわせてやりたいなぁ、こいつ。ポーンと館の外まで飛んで行きそうだ)


 などと内心思いながらも、余裕を崩さずに笑みを浮かべている。信秀の味方は寛故だけではないからだ。


「今川との戦は望むところじゃ。我が斯波家と今川家は、遠江をめぐる因縁があるからな」


 評定の間に、若々しい声が響き渡った。


 発言したのは、なんと「武衛様」である斯波義統だった。ふてぶてしい態度で弁舌を振るっていた大膳もこれには驚き、慌てて口をつぐんだ。








<付録:1538年時点での尾張守護・斯波氏と織田一族の関係図>

名前の横の(  )には信秀との関係、続柄を記しています



        [上四郡守護代]

        織田伊勢守信安(妹の夫。義弟)


 [尾張守護・武衛様]

 斯波義統(大殿)

                    [清須三奉行]

        [下四郡守護代]     織田弾正忠信秀(本人)

        織田大和守達勝(殿様)…織田因幡守達広(同族だが詳細不明)

                    織田藤左衛門寛故(母の実家)



※藤左衛門家の寛故は、信秀の母・含笑院の父である織田良頼すけより(1516年頃の記録で藤左衛門家の当主だったことが確認されている)との血縁関係はよく分かりません。そもそも寛故が藤左衛門家の当主となった時期も不明なので、実際はこの時期(1538年)には別人が当主だった可能性もあります(汗)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る