今川の影
遠江をめぐる
しかし、
元々、遠江は今川家の領地であった。それを斯波氏に奪われていたのだから、今川側から見たらこれは侵略ではなく、領地の奪回作戦だった。
とはいえ、斯波氏もおめおめと遠江を取られるわけにはいかない。義寛の跡を継いだ斯波
だが、その結果は
「信秀は、よくやってくれた。
「で、ですが、駿河・遠江の二か国を領する今川家と再び対立するのは、危険では……。
昨年の六月、父・
義統は、尾張守護の座についたばかりの少年期には守護代・
「武衛様のおっしゃる通りですぞ、ケシカラン殿。仇敵との戦を恐れて何が武士でござるか。第一、そんなにも今川軍の脅威を大仰に心配する必要はないと
今川義元は二年前に異母兄との骨肉の争いに勝利して家督を継承したばかり。関東の
信秀が今川家の苦しい状況を
「なるほど。信秀は敵が動けぬことを知ったうえで、那古野を攻め取ったのだな」
と、はしゃぐように言った。
信秀はニヤリと笑い、左様でござると
ただ、「今川が今のところは攻めて来ない」と推測していたのは確かだが、実は、
(遠くない未来、義元の領国経営が安定したら、今川軍は松平広忠の軍勢を
とも、内心では
義元の弟・
しかし、戦の経験が無い武衛様にそんな戦略上の複雑な話をしてもよく理解できないだろうし、何が原因で弱腰になるか分からないと信秀は考え、そのことについては耳に入れるつもりは無かった。
「さすがは尾張随一の武将、信秀じゃ。そういうことならば、今川が北条との戦に釘つけになっている隙を狙って、我らのほうから三河に侵攻し、遠江奪還を狙うことも可能ではないか。遠江の領地を回復したら、次は越前じゃ。加賀の一向宗を扇動して、逆臣の朝倉氏から越前国を取り戻してやる」
今川の隙を突いて三河に侵攻するというのは分かるが、遠く離れた越前を扱いが難しい一向宗を利用して奪い取るというのは少し発想が
やはり、義統には尾張国統一の象徴となってもらい、軍事に関しては信秀に一任してもらったほうがやりやすい。義統がやる気を出しすぎて戦争の指揮をとりたがるようにならないよう、今のところは祈るしかない。
「武衛様の
信秀が武衛様に調子を合わせつつもやんわりと釘を刺すと、義統はその言葉の裏の意味に気づく様子もなく、ワッハッハッと上機嫌に大笑した。
信秀も、どうやら気づいてもらえなかったな、と思いながらも微笑する。基本的には、領土拡大に旺盛な意欲を見せる若き国主のことを好いてはいるのである。
義統は二十六歳、信秀は二十九歳。二人とも、身の内に燃え盛るような野望を宿す青春期の真っただ中だった。未来に明るい夢を描ける若者同士ゆえに気が合うのであろう。
そんな若者たちに因幡守達広や
大膳はわざとらしくため息をつき、「今川義元という男が凡将だったらいいのですが、そんな簡単に事が運ぶでしょうか……」と呟く。
反抗的な大膳に腹を立てた義統は、「くどい奴め、まだ言うか……」と苛立った口調になって大膳を睨みつけた。
再び険悪になりかけた場の空気を多少和らげさせたのは、一人の老人の穏やかな声だった。
「まあまあ、武衛様。お腹立ちもご最もですが、気をお鎮めくだされ。大膳も武衛様の身を案じるあまり、つい無礼な物言いになっただけですので」
この老人こそが、信秀ら
昔は少年の義統を言いなりの操り人形にしようとしたり、台頭してきた信秀を叩き潰そうとしたりもしたが、近頃は年老いて己の限界を感じ始めたのか、若い信秀の血気盛んな働きぶりを静かに見守る立場を取っていた。年寄りが出しゃばるよりは、若い世代の者たちに任せておいたほうが尾張国のためになると悟ったのである。
「因幡守、大膳。そなたたちも、もうそれぐらいにしておくがいい。尾張に危機が迫れば、信秀が尾張の諸侍を指揮して戦ってくれるから安心するのじゃ。なあ、信秀よ」
「ははっ。尾張を守るためならば、どんな強敵でも打ち破ってご覧に入れまする」
(それが嫌だと言っているのだ。なぜ、我ら尾張の侍が信秀ごときに
因幡守達広は内心舌打ちした。しかし、武衛様と主君までもが信秀に味方をしている現状、これ以上は何も言えない。
「……し、しかし、今川と戦になった場合、背後を美濃の軍に襲われたらどうします。昨年に美濃国の守護代家を継いだ
まだ納得しきれない大膳は、身のほどもわきまえず、
しかし、またもや信秀の味方が現れ、大膳の戦意もとうとう
「北の守りは
「……い、
評定の間ずっと黙っていた上四郡守護代の織田伊勢守
(話にならぬ。俺と大膳以外は、みんな信秀の一味ではないか。もはや、尾張は信秀の国と言っても過言ではないぞ)
こんな茶番の評定なんてやっていられるか、と因幡守達広は思った。
(もう一刻の
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