尾張青雲編
一章 吉法師
城盗り
天文七年(一五三八)春。
ある男が、急病に倒れて苦しみ
「だ、大丈夫ですか、信秀殿」
この城の主である
信秀と氏豊には、共通の趣味があった。それは連歌である。連歌の会を開くために互いの城を頻繁に訪問しあうほど、二人は連歌に熱心だったのだ。少なくとも、氏豊はそう信じていた。
数か月前のこと。いつものように那古野城に姿を見せた信秀は、残念そうにこう言った。
「こちらの城に来る途中で、連歌の道具を川にうっかり落としてしまったのだ」
それを聞いた氏豊は気の毒がり、
(前々から思っていたが、連歌の会を開くたびに那古野と勝幡を行き来するのは面倒だな)
と考えた。そして、
「よかったら、私の城に何日でも滞在してください。ずっとここにいれば、いつでも連歌が楽しめるではありませんか」
と、信秀に提案したのである。信秀は大いに喜び、それからは那古野城で数日から十日ほどの長期滞在をするようになっていた。
そんな交流が続いていたある日、唐突に、信秀は那古野城で倒れてしまったのである。
「お……俺はもう駄目だ。う、氏豊殿、頼みがある。……聞いてくれるか?」
「何でも言ってくだされ。我らは友ではありませんか」
まだ十八歳の若者である氏豊は、涙と鼻水を
「身内の者たちに遺言を……託したい。貴殿の城に、俺の家臣たちを呼び寄せてもよいだろうか」
「そのようなこと、わざわざ問うまでもない。家臣だけでなく、お世継ぎの
「いや……
信秀はためらうかのように何か言いかけたが、氏豊は信秀が寝ている部屋から飛び出し、「急ぎ勝幡に使者をやれ!」と家臣に命令を出すのであった。
「チッ。困ったな。
信秀は独り病床でそう呟いていた。
* * *
その夜。那古野城には、信秀の叔父である
秀敏の傍らには、まだ五歳の嫡男・吉法師と乳母のお徳、そして、吉法師の腹違いの姉・くらまでもがいた。
「父上ぇ、父上ぇ、死んでは嫌です。死なないでください。うわぁーん」
そろそろ嫁に行ける年頃のくらは、まるで幼女のように泣き叫び、病床の信秀にすがりつく。信秀の胸のあたりに全体重をかけてすがりついているため、信秀は息苦しさのあまり顔をしかめた。
(なぜ、くらまで連れて来たのですか)
と、信秀が目で叔父に訴えると、秀敏は声を出さずに唇を動かし、
(ついて行くと言い張って駄々をこねたのだから、仕方ないではないか)
と言いわけをした。
「姉上、泣かないでください。吉法師がついています」
吉法師が、姉の袖を引っ張り、そう励ました。
幼いのでまだまだ滑舌は
(……少し様子がおかしいぞ)
駆けつけた織田弾正忠家の人々の様子を見て、氏豊は特に何の疑いも持っていないようだが、若い氏豊の補佐をしている家老は
信秀の子たちは心から父のことを心配しているように見える。しかし、叔父の秀敏や
(そして、何よりもおかしいと思うのは、信秀殿の弟たちが一人としてこの場にいないことだ。兄が今にも臨終しようとしている時に、なぜ駆けつけぬ……?)
氏豊の家老がそこまで考え、「まさか……」と呟いた直後、嫌な予感は現実のものとなったのである。
「と、殿! 城下のあちこちで火の手が上がっておりまする!」
氏豊の小姓が慌ただしい足音と共に現れ、
見ると、市場がある方角や
「いったい何者の兵なのだ……」
氏豊が呆然と立ち尽くしていると、「俺の兵よ」という声が背後からした。
「の、信秀殿⁉」
振り返った氏豊は
「おのれ! やはり、仮病であったか!」
氏豊の家老がそう怒鳴り、信秀に斬りかかった。しかし、刃が信秀に届く直前に、刀を握っていた家老の右手は宙を舞っていた。
大量の血しぶきが飛び、近くにいた吉法師の顔にかかる。くらが「きゃぁぁ!」と悲鳴を上げた。
家老の右手を斬り落としたのは、猛将の
「殿、お逃げくだされ!」
氏豊の小姓がそう叫び、刀を抜こうとした。だが、
「きゃぁぁ! きゃぁぁ!」
突然始まった
吉法師はくらとお徳の手をギュッと握り、目の前に転がっている腕を睨みつけていた。その手には刀がまだ握られており、「敵を殺してやる!」という氏豊の家老の怨念が宿っているようだった。
もしもあの右手が宙を浮いて斬りかかって来たら、自分が姉上とお徳を守らなければ。吉法師は気丈にもそんなことを考えていた。
「お徳。子供たちには目の毒だ。吉法師とくらを
血走った目の信秀がそう怒鳴ると、お徳は「は、はい」と
吉法師は掻巻の中でもがもがと何か言っている。敵の姿が見えなかったら姉上とお徳を守れないからこれをどけろ、と訴えているのだが、まさか幼子がそんなことを考えるとは想像もしていないお徳は、必死に二人を掻巻でおさえつけていた。
すでに、城主館は戦場と化している。氏豊の家来たちは主君を守ろうとして戦ったが、完全に油断していたため、館内で暴れ回る信秀の家臣たちの勢いを止めることはできない。
さらに、城下を放火して回っていた信秀の弟たち――
「あっはっはっはっ。織田孫三郎信光、推参なり!
城主館に、
氏豊を取り囲むように守っていた家来たちは、信光の手勢によって瞬く間に惨殺されていく。とうとう氏豊はただ一人になってしまった。
「の、信秀殿! 酷いではないか! 私は貴殿のことを信じていたのに……!」
氏豊がほとんど絶叫に近い声でそう喚くと、信秀は「黙れ!」と吠え返した。大量の返り血を浴びている信秀の着物は真っ赤に染まり、恐ろしい悪鬼のごとき姿になっている。
「
「ならば、殺してくれ! このような
「よし、望み通りにしてやろうぞ」
信光が氏豊に刃の切っ先を向けた。だが、信秀は弟を荒々しく押しのけ、
「お前のような男、殺す価値もないわ」
そう叫びながら氏豊を乱暴に蹴り倒したのである。
「駿河に帰るのが嫌なら、都で
「う、うう、う……」
「泣いていないで早く去れ! さっさとしなければ、本当に殺すぞ!」
氏豊は「おのれ、おのれぇ……」と泣きじゃくり、這う這うの体で夜の闇の彼方へと走り去っていった。
「馬鹿めが。なぜ、俺のような男を信用したのだ……」
信秀は氏豊が消えていった闇の向こうを睨み、誰にも聞こえないような小声でそう呟く。そんな父の背中を、吉法師は掻巻の隙間からじっと見つめていた。
(父上が元気になったのは良かったけれど、寒いのかな。肩が震えていらっしゃる)
吉法師は父のことを心配していたが、掻巻に覆われてまわりがほとんど見えないため、自分と姉の周囲におびただしい数の死体が転がっていることは知らないのであった。
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