第8話 パンドラの箱

指と指を交差させ、絡み合うように手を繋ぐ。俗にいう『恋人繋ぎ』で手を繋ぎながら、二人は仲良く歩いていた。指が交差する事で意識して力を入れずとも、繋ぎっぱなしの手を維持できる恋人繋ぎだが、二人はさらに軽くぎゅっと握り合い、繋いだ手を軽く振りながらお互い笑顔で歩いていた。

「ねえ、武尊たける」裕子が隣を歩く武尊の顔を見上げ、笑顔で話しかけた。

「うん?」一言、武尊が眉をあげ、目を見開き、口を閉じたまま口角を上げ、淡く微笑みながら裕子に返した。


"チュッ"


裕子は歩みを進めていた足をいったん止め、かかとを浮かせ、少しだけ背を伸ばして、ふっくらとした唇を蕾のように小さくしながら、『うん?』といいながら隣を歩く裕子に顔をむけた武尊の唇に軽めのキスをした。

「おい!?ここは街中だぞ!」

顔を赤らめ、慌てた様子でまわりを気にしながら武尊が裕子に言った。しかし、慌てながらも武尊の表情は、嬉しさを隠しきれていなかった。

「いいでしょ。別に......したかったんだもん。」

武尊が焦り、照れながら頬を赤くし、目尻をさげ、口角をあげて裕子に話す様が、余計に可愛らしさと愛おしさを裕子に感じさせていた。裕子は武尊の腕にぱっと抱きつき、武尊の顔を見上げ、

「私たち、ラブラブだね。」

そう言いながら、武尊に再びキスをするのかと思わせるような、愛くるしい満面の笑みで武尊の顔に自身の顔を近づけさせた。

 武尊は街中で堂々と繰り広げられる、ラブラブ劇場に少し焦り、恥ずかしい気持ちでいっぱいだったが、裕子の愛くるしく、まるでハートの形が映り込んでいるような、大きめの黒目を上目め気味にして、惜しみなくラブラブ光線を放ちまくる、裕子のくりっとした瞳にメロメロだった。


一本の筋が入りシュッとした小粒な鼻と、さきほど武尊の唇に、かるいとばかりに、触れてきた裕子の唇は、蕾のようにすぼめなくても、小さめでふっくらとしている。その唇にのせられた華やかなピンクのリップが、またかわいい裕子の唇を、これでもかというくらい強調していた。

丸顔のふっくらもちもちしたフェイスラインは、武尊からしてみれば、裕子のかわいらしさがあふれる、ちょうどいい、ふっくらもちもち加減だったが、裕子にとっては、太ってみえるとコンプレックスな部分であった。そのコンプレックスをうまく隠すために全体をすいて、髪のボリュームを抑え、前髪は目にかかるくらいの長さにし、自然に分けめを入れ、サイドはエラを上手に隠し、コンプレックスの丸顔をうまく包み隠していた。サイドの毛先からは、ドッロプピアスの先端部分の丸いブルーのターコイズが、ちょこんと見え隠れし、裕子に控えめな女の色気を持たせていた。

自然な色合いに染められた、やや赤みがかった栗毛のボブヘアーは裕子のコンプレックスを中和させ、武尊はもちろんの事、会う人に対して好感のもてる爽やかさと可愛らしさを上手に演出していた。

身長160センチで、ほどよい細身の体型に、黒のニットのセーターにカフェオレ色のロングスカートを合わせ、明るめのグレーのチェスターコートを羽織り、こげ茶のブーツでコーデをし、首にチェック柄のマフラーを巻き、童顔ながらも大人っぽさを感じさせている。そんな裕子が武尊にとっては可愛く、眩しいくらいだった。


武尊と裕子は付き合って三か月ちょっと。それなら、ちょうどラブラブ真っ盛りのいい時期で、このような状態でも不思議では無いと考える。しかし、武尊と裕子は、つい最近ラブラブになったのかけ出しだった。


二人は会社の同僚で裕子が26歳。武尊は一浪して大学に入学したため、27歳だった。

二人は新卒で中堅の商社に入社した。研修を経て、同じ支店の同じ営業部に本配属となり、同じ時間を共に過ごしてきた。一年目は、仕事を覚える事と、成果を出す事、様々な研修などに追われ、二人とも余裕がなく、どころでは無かった。二年目に入り何となくペースを掴みだし、仕事にも慣れ、心に余裕もできはじめ、同期の二人はたまに時間が合えば、一緒に飲みに行ったりすることもあった。三年目も同じような時の流れをすごし、四年目に転機が訪れた。裕子も武尊もそろって別々の支店に異動になったのだ。

別々の支店といっても、同じ都内にある支店への異動だった為、離れ離れになるという訳でもなかったが、淡い恋心を抱いている者は、勝手が違う。


「明日から別々だね」眉毛をすこし下げ気味に、さみしそうな表情を浮かべながら裕子が武尊に言った。

「そうだな......俺たちは、同期で唯一同じ支店の同じ営業部に配属されたから、ちょっとさみしいな。」

「ちょっと?......ちょっとだけ?」


武尊の『ちょっとさみしい』という言葉を聞いて、すこし食いつき気味に裕子が言った。

先に淡い恋心を抱いていたのは裕子の方だった。同期として入社して、三年以上の月日を共に過ごし、同期ならではの同じ悩みや苦労を共有し、仕事や仕事以外の場面で、何かと一緒に居る機会の多かった二人には、自然な流れとも言えた。

時間をかけてじっくりと育まれた一つの感情は、裕子が思っている以上に成長を遂げていた。

『ちょっとだけ?』という発言をした後に、はっと"わたし何言ってるの"と心の中で呟き、気が付かなかった、武尊に対して抱いていた、淡い恋心の成長に初めて気が付いたのだった。


「えっ。なんで?さみしいよ俺だって。」

武尊は裕子がくいつき気味に言ってきた『ちょっとだけ?』という言葉に困惑の表情を浮かべ返事をした。

武尊も同期である裕子の事は意識をしていたが、恋愛感情とまでは発展していなかった。いや、発展する事をあえて、拒んでいた。


 裕子の容姿ははっきり言って可愛い。そして、するとまで言ってもいいだろう。黒目が大きく、くりっとした裕子の優しさあふれる目を、ずっと見てしまうと、に引き込まれそうで、二秒以上は直視できなかった。裕子に似合いすぎるボブヘアーも武尊にとっては、裕子の可愛さを決定付ける確定要素になり、ますます裕子ゾーンに引き込まれそうな自分を、必死に引き留めていた。それは、圧倒的な筋肉を誇るマッチョ集団に、マッチョでは無い、中肉中背の武尊がひとりで綱引きを挑もうとするぐらい、武尊にとっては無謀な事でもあった。

武尊は特に自分に自信が無いというほどでは無かったが、自分にとって裕子は高嶺の花的存在だと思っていた。


 武尊は時計の針が十時十分を差すような、キレのある角度が特徴的な太めの眉毛に、少しほり深な切れ長でやや細い奥二重の目。一見冷たさを感じそうだが、不思議と何処かに優しさを忍ばせている雰囲気が、武尊の目にはあった。すっと野性を感じる筋の通った存在感がある鼻に、けっして大きくは無いが真一文字の口にぴったり合うような、厚めの唇は武尊の男らしさをしっかりと作り上げ、さらに頑丈そうな顎、男らしいキレのあるフェイスラインがその男らしさを際立たせていた。

そして、武尊のアイデンティティともいえるのが、そのの雰囲気作りに大貢献している髪型だった。中学から柔道を始めたが、柔道をするにはどちらかと言えば軽量級の選手で、身長も柔道選手としては低く、レギュラークラスの選手でもなかった武尊は、高校までで柔道を辞め、大学時代は特に何もしなかった。

しかし、髪型だけは、柔道をしていた中学時代から一貫していた。慣れ親しんだという事と、床屋で希望の髪型を言う際、ヘアカタログなどを見せ「こういう感じにしてください。」というのは、どこか照れくさく、柄ではないと武尊は思っていた。それに加え楽だからという理由もあり、今もその髪型だ。

その髪型は、頭全体がほぼ、どの角度から眺めても四角に見え、描写するにも苦労はなく、たった三文字の文章だけで、すべての読者に均一に、容易に想像させる事のできる、作者としてありがたい髪型。そう、武尊の髪型は、の角刈りだった。


 しっかりと、当たり前のように存在する太めのもみあげに、短めに統一感のあるカットは清々しさすら感じ、社会人としてもいい印象を相手に与えはするが、今の世の中では少数派といえば少数派の髪型だ(純粋な角刈りは)

ここまでくれば、もう、誰もが思い描いているであろう、武尊の中学時代から現在の社会人に至るまで、一貫してつけられている愛称は"ゴルゴ"であった。

武尊自身もその愛称に対して悪い気はしなかった。ましてや、何処に行っても言われ続けていた事もあり、もはや、なんの違和感も感じていなかった。

 見た目とちがい、温和で人当たりもよく、ましてや、後ろに人が立ったからといって、いきなり投げ飛ばすような野蛮な事はしない(ゴルゴ13 小学館/リイド社参照)

武尊はシャイで口数も少なかった。なので、裕子と一緒に飲みに行っても、裕子の愚痴や雑談に余計な口をはさむこともなく、ひたすら頷きながら「そうだよな」とか言って同調していた。

裕子の相談事もひたすら聞く姿勢を崩さず、答えられる相談には答えたが、自分でも分からないと時は、正直に「分からない」と告げ、励ましの言葉をかけるにとどめていた。

つまり、武尊はシャイで口数が少ないが、その温厚な人柄も幸いし、本人は一切気が付いていないが、天性のであったといえる。ここに、恋の落とし穴があり、裕子は知らず知らずのうちに『この人は私の事を分かってる!』と感じ、裕子の恋が芽生え始めていたのだった。


 

 武尊が『えっ。なんで?さみしいよ俺だって。』といった後、二人の間には少し沈黙の間が生まれていた。裕子は小さくうつむき何か考え事をしているように見えた。武尊は、そんな裕子を見て、少し困惑し、何と声をかけていいのか分からなかった。そうこうしていると、ふと裕子が顔をあげ、武尊に向かって呟いた。


「ねえ、武尊は私の事、同期の仲間としか見てないの?」

「私、可愛くない?可愛い?」

「ねえ、武尊は私の事、どう思ってるの?」


矢継ぎ早に立て続けに質問をした。これには武尊も困惑の表情を隠せず、口を堅く真一文字に結び、十時十分の眉毛が九時十五分になり、眉間にうっすらとしわを寄せ、細かなまばたきを繰り返した。


"何だよ、いきなり、仲間とか、可愛くないのとか、どう思ってるとか......どう思ってるって......裕子こそ、裕子にとって俺は単なる同期だと思ってるくせに......何だ裕子のこの思わせぶりな態度は。"


武尊は心底困惑した。裕子はモテると思っていたし、現に武尊は、今まで裕子に言い寄ってきた男を何人か見ていた。どの男もイケメンで、あの手この手で裕子にアタックしているのを目撃したり、裕子から直に言い寄ってきた男について相談された事もあった。自分なんか相手になる訳がないと決めつけていた。しかし、不思議と裕子は誰とも付き合った形跡や感じはしていなかった。"俺はなんて答えれば..."と武尊が困惑しながら考え込んでいると、業を煮やしたように裕子が武尊の肩を、ポンッと叩いた。

武尊が、うん?という表情で裕子の顔を見た。そして驚いた。

裕子が、ふっくらした丸顔をさらにふっくらとさせ、口を蕾のようにすぼめて、ふてくされた表情で、じっと武尊を睨むように見つめていた。


「なんで、何にもいってくれないの!?女の子がここまで言ってるのにい!」


裕子が頬を膨らませなが言った。裕子のそのふてくされた表情は、武尊の脳裏に一瞬にして焼き付くほど可愛らしく、『なんで、何にも言ってくれないの!?...』という裕子の言葉も口調もズバッと胸に突き刺さった。この一瞬でいくらシャイで、裕子が自分にとっては高嶺の花だと思っていた武尊も、さすがに空気を読まずにはいられなかった。さらにいえば、武尊の心は、完全に裕子ゾーンに引き込まれ、がっちりと掴まれていた。急激に心拍数が上がりだした武尊は、


「ゆ、裕子......お、おれは、裕子のこと、す、す......その......」


そこまで言いかけると、あからさまに武尊は頬を赤らめ、睨む裕子の目から逃れるように天を見上げた。間髪入れずに裕子が、「目を逸らすな!ちゃんと私の目を見て言え!」とかわいらしい口調で

武尊は恐る恐る視線を裕子に戻し、裕子のふてくされた表情を見ると、『嘘だろっ!!!』と驚愕するくらい、裕子が普段の何倍も可愛く映って見えた。"かわいすぎるっ!"心拍数はどんどん上がり、震えも感じるようになった武尊だったが、裕子にここまで言わせてしまった、という妙な責任感も感じ始めていた。


「おれ、ごめん......裕子のこと好きだ。」


一直線に硬直し、その面構えからは想像できないくらい、恥ずかしそうに顔を赤らめ、問答無用で勇気を振り絞らされた武尊。そんな武尊を、裕子は、胸がきゅんきゅんする思いで、武尊を"かわいい"と思いながら見ていた。そして、ちゃんと言わせたかった一言を言わせるための仕上げの誘導をした。


「好きだから?......どうするの?」


裕子はふてくされた表情から、今度は、ファイナルウエポンとばかりに大きな黒目で武尊を見上げ、小さく首をかしげ、口を閉じ口角をあげ、意地悪な可愛い小悪魔的な表情を武尊に魅せつけながら、武尊の一言を待った。

もはや武尊の目と脳裏は一体化し、裕子の表情のひとつひとつが、余すことなく脳裏に焼き付けられ、それはもう寄生といってもかまわないくらい、瞬く間に裕子が武尊に寄生した。そして、


「付き合ってください!」


一直線に硬直したまま目を固く閉じ、腹をくくったように、武尊はその一言をきっぱりと言い切った。


「よろしくおねがいします!」


満面の笑みで裕子は即答で返事をした。裕子自身こんなに積極的に男に言い寄ったのは人生で初めての事だった。普段の素の裕子なら、絶対にここまでしない。三年間、同期として武尊と共にすごし、武尊の性格を把握していたからこその行動で、いつも自分の話をひたすら聞いてくれ、けっして器用ではない、けど仕事も遊びも一生懸命やる武尊の事が、いつの間にか気になり始め、それが恋に発展し、異動という出来事が、裕子のさみしさの扉をノックし、武尊と離れたくない気持ちを強め、積極的行動に裕子を駆り立てていたのだった。でも、やっぱり『付き合って』という一言は男に言って欲しい願望があり、いささか強引ではあったが、言わせることに成功した。

こうして、武尊と裕子の交際はスタートした。......が、



交際がスタートし、武尊は遠慮なく裕子に寄り添い、手を繋いだり、キスをしたりする権利を獲得したにもかかわらず、行動や態度に出すことは無かった。

裕子と映画を見に行ったり、レンタカーを借り、ドライブに行ったり、水族館やディズ二ーリゾート、デートの王道はすべて通ってきた。そして、大人の恋人同士なら自然ともいえるキスなどのスキンシップをはかるチャンスは、そこかしこに転がっていたはずなのに、いっさい物に出来なかった。たまに手を繋ぐ程度で、それもいつも裕子から繋ぐ形で、武尊から手を繋ごうという意思表示は一切なかった。


付き合って一ヶ月が過ぎた頃くらいまでは、何もしてこない武尊に対し裕子は、『シャイな性格の問題』とか、『自分は大切にされている』などと、とらえる事ができ、自分に言い聞かせる事ができたが、それが二ヶ月を過ぎたあたりになると、『不安』という感情が顕在化し始めていた。


裕子は特にスキンシップが苦手とか、性欲が無いという訳ではない。女として、生物として、それなりにそれらの欲は備わっている。プラトニックな関係を望んでいる訳でもない。恋人として普通に寄り添い、仲良くしたい。

告白は、半ば強引に武尊に告白してもらった。裕子が誘導するようなかたちで。手を繋ぐのも自分からいかないと、武尊からは繋いでくれない。それ以上の事は、せめて、武尊との初めてのキスやセックスは、武尊から誘導して欲しいと思っていた。だから、裕子は待った。武尊のシャイで、口数が少ない性格も踏まえて、気長に待ったが、不安という感情が顕在化し始めた今となっては、どうすればいいのか分からなくなり始めていた。

異動で、勤務場所が別々となった今は、一緒に働いていた時に比べて格段に武尊と顔を合わせる時間も短く、会っても、裕子に対して「好きだとか」「可愛い」とか言ってくれたことも無い。

不安は募る。不安や不満などネガティブな感情は、一度でも顕在化してしまうと、納得いくように解消されるまでは、遅かれ早かれ延々と成長をしてしまう。

武尊の部屋に泊りに行った事も何度かあれば、武尊が裕子の部屋に泊りに来たこともあるが、いずれも、のように何もなく朝を迎えていた。


交際から二ヶ月が過ぎ、三か月になろうとしていた......が、相変わらず進展はなく、いよいよ裕子の不安と不満は、大きく存在を強調するようになっていた。もともと口数の少ない武尊だが、この口数の少なさは、付き合った者が相手に対して不安を抱いた時に、もっとも辛い不安要素の一つだ。


『どうして、何も言ってくれないんだろう。どうして、いつも私ばかり手を繋ぐの?武尊はそういうの嫌いなの?私と無理に付き合ったの?だれか、他に好きな子とかいるの?』


友達の時は心地よかった、武尊の口数の少なさが、ここにきて、裕子にとっての一番の脅威となっていた。友達時代には全く気にならなかった事が、関係がより深くなった途端に気になり出し、時に自分を追い込む要因にもなる。恋愛心理の面白い部分でもあり、怖い部分でもある。


そして、今日も不安を抱えながら、"今日こそ、来てくれるかな"と淡い期待と強めの不安を抱きながら、裕子は武尊の部屋に泊まりに来ていた。しかし、無情にも、適当に会話をし、ご飯を食べ、お互い別々にシャワーを浴び、床に就くという、普段と変わりない段取りで、時間は経過した。


 時間は深夜一時。裕子は寝つけずにいた。『今日も何もなかった......せめて"ちゅう"ぐらいしたっていいじゃん。』そんな事を心で呟きながら、綺麗に正確に整えられている角刈りの髪型が、一切の乱れることなく隣で寝ている武尊の顔を、裕子は眉をひそめ、悲しい目をしながら見ていた。

「だめだ、寝れない。」

そういって裕子は、ばっと布団をはぎ、上体を起こした。振り向き不満げな表情で武尊の顔をみた時、ふと武尊の頭の先に目がいった。そして、裕子の目に武尊のスマホが映り込んだ。

武尊のスマホをじっと見つめ、少し間が空き、裕子は首を激しく横に振った。

「だめだめ!絶対ダメ!」

小声で言い聞かせるように呟いた。裕子の心に、ふと武尊のスマホを覗いてみたいという衝動が走ったのだ。


『武尊のスマホにはどんな情報が詰まっているのだろう?ひょっとして他の女と何かやり取りして......だから、私には何もしないの!?武尊の一途な性格ならあり得る。他に女がいる事を、私が半ば強引に『付き合って』とか言わせたから、武尊はなかなか私に言い出せなくて、でも、絶対に私には手を出さない。だから、私には一切手を出さないのか?他の女って......だれ?』


溜まっていた裕子の不安と不満が、裕子の想像以上に膨張し始めていた。

冷静な判断が出来る状態なら、こんなバカバカしい憶測は考えもつかない。しかし、誰に相談する事もせず、ひとりで抱え込んだ不安は、裕子の思考をあらぬ方向へと導きだし、止まらなくさせていた。憶測が憶測を呼び、一度は思いとどまったが、圧倒的な勢いで押し寄せてくる衝動を、裕子は抑えきることが出来なかった。


裕子に悪魔が舞い降りた.....


裕子は小さく震えながら、慎重に武尊の頭の先にあるスマホへ手を伸ばし、掴んだ。

そして、スマホを自分の下に持ってきて、スマホの電源キーを押した。ぱっと明るくなった画面を目を細め、細かくまばたきをしながら見つめた。待ち受けが表示され、何処かの山が映っている日本では無い景色の壁紙だ。ロックはされてはいない。

「ごめんね、武尊。」

そう呟いて息を呑み、裕子はいよいよ『パンドラの箱』を開けた。

まずは、一般的によろしくない証拠が羅列されるLINEを開いた。女の名前のアカウントを片っ端から開いたが、やり取りは一切なく、仕事関係の物がほとんどだった。そもそも履歴の順番にアカウントが表示されるLINE。最初に表示されたアカウントは『裕子』だった。

ひとつ深い息を吐き、目をつむりながら裕子は天を見上げ、"よかった"と心で呟き安堵した。

そして、次にメールチェックしたが、ほぼ企業の広告やお知らせで怪しい物は無かった。

だらんと腕をおろし、布団の上にスマホを持った手を置いた。

「結局何も出なかった......ごめん」

下を向き、急に自分がした事の罪悪感と虚しさに包み込まれ始めた裕子。何かを誤魔化すようにスマホを持つ指を動かし適当にスクロールをしていた時、裕子の目に留まるアプリがあった。

「無地日記?」

首をかしげ、不穏な表情で呟き、そのアプリをクリックした。

すると、武尊が毎日ではないが、まめに更新した日記がそこには残されており、無意識のうちに裕子は読み始めていた。


『11/2 裕子と付き合う事になった。なんもいえね!嬉しい!』

『11/3 裕子と早速初デート。裕子が可愛すぎて、倒れなかった事が不思議だ。』

『11/5 今日から新しい勤務地。不安だけど、裕子が僕の彼女になった事が心強く、僕に不安はない。』

『11/7 この部署で初めての失敗。裕子が話を聞いてくれた......救われた』

.

.

.

『12/2 裕子と付き合って一ヶ月。充実してる。僕からも手を繋げるように頑張りたい。いつも裕子から手を繋いでくる。ごめん、恥ずかしくて勇気がないんだ。』

『12/22 もうすぐクリスマス。楽しみだけど、僕は未だに裕子と手が繋げない。繋ごうとすると、緊張で、固まってしまう......裕子が可愛すぎるから......クリスマスは手を繋いで、キスでもできればいいな。』

『12/25 裕子と過ごした初めてのイブ。最高だった。でも最低だった。僕は結局手を繋ぐことも、キスも出来なかった。裕子は終始笑っていたが、ふと見せた寂しそうな表情が忘れられない......ごめん。』


「無地日記」に綴られている事は、殆どが裕子に対する思いで埋まっていた。そこに書かれていた事は、まさしく裕子が抱えていた問題そのものの内容だった。武尊の見えなかった気持ちが、文字となり裕子の目に入り、武尊が自分の事をどれだけ好きなのかも、シャイで緊張しいで、勇気がなく、なかなか一歩が踏み出せない、苦しい心の内が、余すことなく書き記されていた。裕子の心に深くつき刺さり、不安のあまり武尊を疑ってしまった自分を責めはじめていた。


『12/31 今年は最高な年だったな。裕子が隣に来てくれたから。』

『1/1 年が明けた。年明け早々に隣に裕子がいる。一緒に新年を迎える事が出来て幸せだ。ずっと大切にするからな。 』

.

.

.

『1/26 もうすぐ裕子と付き合って三か月だっていうのに、僕は手すら繋げない......何やってるんだ。裕子の表情が曇りがちなのは、僕のせいだ。どうして、こんなに緊張するんだろう。どうしてこんなに恥ずかしいのだろう。』

『2/14 裕子の手作りチョコちょっと砂糖の分量間違えたな(笑)スゲー甘かった。でも、一生懸命さはビシビシ伝わってきた。僕にとっては世界一のチョコだ。』


「えっ!うそっ!?『すげーうまい!』って食べてくれたのに......隠してくれたんだ.....私の失敗を......ギリギリになっちゃって、ろくに味見なかったから」

申し訳ない気持ちで一杯だった。でも、武尊の優しさがすごく嬉しかった。裕子は読めば読むほど武尊の自分への愛情が伝わる日記を読んで、自分の抱いていた不安や不満が一気に解消されだし、代わりに一つの想いが急激に芽をだし根を張り始めていた。


『2/18 もうダメかもな......どうしても一歩が踏み出せない自分が嫌になった。裕子は、あんなに可愛い表情で、いつも僕を癒してくれるのに、僕には手を繋ぐ勇気すらない。なぜ、僕に「付き合って」とか言えたんだろう......告白の方がずっと勇気がいる筈なのに......裕子がうまく僕を誘導してくれたからだ......情けない......けど、裕子が僕に一瞬の勇気をくれたから、僕は言えたんだ......勇気が欲しい。』


"私がリードするしかない"裕子は決心した。

角刈りで、その見た目からも男らしさあふれる武尊だが、その見た目とは裏腹に、極度のシャイなのだという事を裕子は日記を読んで理解した。昭和を通り越し、大正か?明治か?それでも足らず、江戸か?とツッコミを入れたくなるほどシャイで真面目な武尊。パンドラの箱を開けてしまった罪悪感、あらぬ疑いをかけてしまった罪悪感、パンドラの箱から溢れ出た、武尊の自分に対する思い。裕子の決断に迷いはなかった。

そして、スマホの画面を消し、スマホが置いてあったところにスマホをそっと戻し、寝ている武尊に向かって呟いた。


「こんなに愛してくれてありがとう。私が迷わずあなたをリードしていけば、私たちはうまく行くのね。」


そう呟き、裕子は深く呼吸をしながら目を閉じた。そして、決心したように目を見開き、着ていた寝間着を脱ぎはじめ、下着姿となった。


裕子は武尊の布団に入り込み、武尊に寄り添いながら、寝ている武尊を揺すり起こした。「う...うん?」眠っていた武尊は片目だけ開け寝ぼけながらにそう呟いた。裕子はそんな武尊を愛おしそうに見つめ、武尊の耳元でそっと呟いた。


「ねえ......しよっ。」

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