第7話 バレンタイン交差点

気分を落ち着かせるためにチョイスした音楽の筈なのに、耳に入る曲、入る曲がかえってわたしの鼓動を早くし、緊張感を増幅させているみたいだ。音楽の効果が無い訳ではない、私の精神状態が、その波長に合わせる事を拒んでいるんだろう。私がこんなにドキドキするのはいつ以来だろう......高校生の時以来か?いや、大学......まあ、とにかく何とも言えない気分だ。渡せるだろうか......

"なんでこんな選択肢を私は選んだ?なんで?......こんなに緊張するなんて......"


東京駅のほど近く、船型の建物が特徴的な国際フォーラムの目の前にそびえるtokiaビル。地上33階・地下4階建ての高層オフィスビル。地上3階から地下1階部分はレストラン、ショップなどの施設が入り、ビル内のオフィスに勤める人や商業施設に行きかう人々で、賑わいをみせている。丸の内の中心部に堂々とそびえ建つtokiaビル。郊外や、ちょっとした田舎であれば、ランドマーク的な威風堂々とした存在感を主張するが、ここは丸の内。この界隈は高層ビルの博覧会か、と思ってしまうほどの個性的な高層ビルの密集地域。その中に入ってしまうと特に異彩を放つようには見えず、にそこにあるようなビルになってしまうのが不思議である。そのtokiaビルの一階ビル入り口付近は、ビルや鉄道、アスファルトで周りをがっちりと固められた大都会の中に、少しでも彩りを与えるかのように、まるで、パスタやハンバーグなどの料理に彩りとしてちょこんと加えるパセリのように、草木が植えられている。その草木の植えこまれているが、人と待ち合わせをしたり、はたまた、人を待ち伏せする時にはちょうどいい物影をいたる所に作り出している。そのちょうどいい物影で、音楽を聴き、緊張しながら待ち伏せをするひとりのOLがいた。


高城 紬たかしろ つむぎ25歳。彼女はある人物を待っていた。心待ちに......緊張しながら。逃げ出したくなる気持ちを抑えながら。


 高層ビルの建ち並ぶこの界隈は、ビル風も名物の如く吹き荒れる。少しでも風の強い日には気を付けないと、ビルとビルの間に差し掛かった時に突風に煽られ、せっかくセットしたヘアースタイルも台無しになる事は日常的な事だ。この界隈で働くつむぎはしっかりとその事が頭に入っている。仕事中は肩甲骨辺りまである癖のないストレートの黒髪を一本に束ね、仕事で外回りに行く際も、一本のゴム紐と、仕事用の地味めのシュシュによって守られていて、気にもならないが、今日は、特に今はそういう訳にはいかない。

この日の為に、前髪を整え可愛らしさをアピールし、自慢のまっすぐなストレートの黒髪に、この日、この時の為に、わざわざ自宅から持参したヘアアイロンを、会社の更衣室で人目を盗みながらかけ、軽めにウエーブを作り出し、仕事の時との差をより印象付けるようにした。決意の結晶であるその髪を絶対的に守る為に、ビル風の影響を受けず、なおかつ待ち人を、待ち伏せするのにふさわしいベストなポジションを、紬は前もって徹底的にリサーチしていた。おかげで紬のヘアスタイルは、そよ風程度にほどよくなびき、ビルの照明や街路灯などの都会の夜の演出には欠かせない脇役たちが、そのポジションに立つ紬をいい女として演出するのに一役買っていた。眉毛もきりっと、でも、きつい印象を与えないように、少しだけ丸みを持たせ、紬が嫌いな部分でもある、どこか幼く見え、何となく守ってあげたくなってしまう、ほどよい大きさの丸く少しだけたれ気味の一重の目には、一重がより映えるブルーのシャドーをほんのり乗せ、目の下には、白目をより綺麗に魅せるホワイトアイライナーが、ほんのりとさりげなく入れられ、紬の嫌いな部分に武装を施し、目の周りを華やかに総合演出していた。ふっくらと可愛らしく膨らむ唇も、ディオールのパールピンクのルージュを纏わせ、ピンクに溶け込むパールの相乗効果で、紬の可愛らしい唇に、最大限の自然で健康的な血色感を引き出していた。そして、頬に淡くほんのり乗せられたピンクのチークが、紬の可愛らしさを決定づけていた。

さらにスーツの上にコムサ・イズムのキャメル色のトレンチコートを羽織り、ATAOの黒のショルダーバッグを肩にかけ、幼さを中和し、大人の女感も静かに演出していた。


"神様、どうか無事に渡すことができますように。"

紬が、通りすがりの人々に目立たぬように、右手だけ胸にそっと押し当て、手作りチョコの入った、緑のリボンがポイントの赤い小さめの紙袋を左手で握り締め、目をつむりながら心で呟いた。


そう、今日はバレンタイン。


お菓子屋が勝手に作った日ではあるが、全世界的にこの日に乗じて、女性が好きな男性に堂々と告白できる一年でたった一日だけのスペシャルdayである。そこに紬も乗っかた。かねてから想いを寄せる同じ会社の二つ上の先輩、金田 春海かねだ はるみに一年に一日だけ、恋する女子の頼もしい味方となる、手作りチョコを従わせ、春海に想いを告げようとしていた。



2月12日(火)

「いやあ~、日が今年もやってきますな。」

そう話しかけたのは、紬のひとつ上の先輩の沙羅さらだった。会社の中では同じ部署で働いていた二人は、会社帰りに、たまに一緒に飲みに行ったり、食事をする仲で、プライベートでは会った事が無く、いわば社内限定の友達みたいな関係だった。お昼休みにカフェで向かい合って座り、沙羅と紬は二人で昼食を食べていた。

「確かに。本命だけで十分なんですけど。」紬がうなずきながら、淡く微笑み沙羅に返した。

「まあ、今は便利な義理チョコもあるにはあるんだけどねえ。『一目で義理とわかる』とか何とか言ってさ。でも、いちいち買うのが面倒くさい。ホント、紬が言ったように、本命だけで十分だわ。」

そう面倒くさそうな表情で言った後、沙羅はパスタを頬張った。

「沙羅さんは彼氏さんに手作りチョコあげるんですか?」

。市販市販。付き合って半年だけど、そういうのは面倒くさいし。価格に差をつければOKでしょ。」

口に頬張ったパスタを呑み込みきらないうちに、沙羅が紬の質問に答えた。丈夫そうな顎でやわらかなパスタをしっかりと噛んで食べる沙羅の表情は、同性の紬から見ていても、どこか可愛らしく、自然と紬も笑顔がこぼれていた。その丈夫そうな、ややエラの張った顎を上手に隠すように、ナチュラルな緩めのパーマがかかったミディアムヘアーが沙羅のお気に入りの一つだった。ベース型の沙羅の輪郭を小顔に見せるのに一役買っているうえに、可愛らしさも演出している。少し太めの整えられた眉に、大きめのくりっとしパッチリした二重の目は、その気になればいくらでも妖艶な雰囲気を醸し出す、魔性の本性を包み隠しているようにも見える。スッキリ一本の綺麗な筋が通った鼻のすぐ下にある、可愛らしくぷっくりとした唇が、女もうらやむくらいの整った口元を静かに主張し、沙羅の顔全体を美しく魅せる総合監督的な役割を担っている。そのぷっくりとした唇をわずかに動かし、くりっとした目を流し目気味にしてパスタを食べる沙羅の姿は、モデルが食事をする姿を紬に連想させていた。

同時に、沙羅のその雰囲気は、どこか秘密含みな一面があり、自分をオブラートに包み込み、すべてを紬にさらしている訳では無いという事を暗に主張し、紬も沙羅のそういう部分には触れず、いい意味で、お互いの距離感を守っていた。沙羅には付き合って半年ほど経つ彼氏が居たが、彼氏がいるという事実だけ公表し、相手が誰だとか、彼氏と何があったとかは一切話さず、かといって、相手にも必要以上にはプライベートな事は聞かない、非常にサバサバした感じが沙羅の特徴でもあった。


「紬ちゃんは、誰に本命渡すの?」

パスタを呑み込んだ後、少し首をかしげ、淡く微笑み、くりっとした目をさらにくりっとさせ、どこか憎めない表情で沙羅が聞いてきた。

「......秘密です。うまくいったら話します。」少し考えたあと、ぱっとした表情で紬が答えた。

「うまくいくといいね。誰に渡したのか聞くの楽しみ。」笑顔で沙羅が返した。

「ホントですよ......誰なのか話したいですよ。うまくいったって事ですからね。私の一方的な片想いなんで......不安です。」

そう少し不安な表情を浮かべ話した後、紬は昼食のサンドイッチを一口頬張った。

「誰だって不安よ。私は、今の彼氏にだから、あまり言えた口じゃないけど......彼氏だって、私にコクる前は、不安だったと思う。逆でも私も不安だし、第一、私にコクる勇気なんてない。」

サンドイッチを頬張る紬を見ながら沙羅が言った。その沙羅の表情はどこか先生が心配そうに受験前の生徒を見守るような、うまく行くと信じる気持ちと、もしかしたら...という心配な気持ちが混じり合ったような、何か複雑な表情にも見えた。

「紬ちゃん。私、応援してるからね。」

沙羅が何かを吹っ切るような満面の笑みを浮かべ、紬に言った。

紬は、普段はサバサバしていて、感情もあまり表に出さない沙羅の、満面の笑みに乗せられて送られたエールが、とても嬉しく感じ、自然とテンションも上がった。

そして、紬の脳裏に、シュッと横分けにされ、若干耳と眉にかかるくらいの爽やかな印象を与えるショートのヘアスタイルに、そこから覗き込むような少し吊り上り凛々しいキレのある二重の目が、優しく紬を見つめ、薄めの唇を一文字に閉じながらも、少し口角を上にあげ、優しく淡く微笑みかける春海の姿を思い浮かべていた。春海のその優しい表情を思い浮かべただけで、紬の心はキュンとして、つかの間の幸せな気分が紬に訪れていた。

少し、顔を赤らめ、ふとうつむき、どこか恥ずかしそうに、上目気味に沙羅を見つめながら

「沙羅さんありがとう。報告できるように頑張ります。」

と紬が沙羅のエールに応えるように、満面の笑みで返した。




「うん。うまい!お姉ちゃんこれなら大丈夫だ。」

そう言ったのは、高城 祥太たかしろ しょうた21歳。紬の弟である。祥太は都内の大学に通う大学生。今日は姉である紬が、あさっての本番を前に、手作りチョコの試作品を作るにあたって、祥太をとして、紬の自宅に呼び、春海に渡す予定の手作りチョコレートを試食してもらっていたのだった。

姉の紬そっくりの丸く少しだけたれ気味の目を、さらにたれさせながら、満面の笑みで、紬の作った試作品のチョコレートを頬張っていた。


「よかったあーっ。これで後は、本当に渡すだけだ。」

不安まじりの笑顔で、おいしそうにチョコレートを頬張る祥太を見つめながら紬が言った。

「お姉ちゃんのこのチョコを食べれば、相手もお姉ちゃんの事、絶対好きになるよ!俺もこんなの渡されたら、一撃でやられるね。」

祥太が笑顔で言った。その祥太の表情は、既に紬の恋が成就し、祝福しているような雰囲気をかもしだし、その雰囲気が紬に、春海と付き合って手を繋いでデートをしている妄想をさせていた。

「さすが、我が弟。いいこと言うねえ~。お姉ちゃん既に幸せな気分なんだけど。」

幸せそうな、おのろけた笑顔で祥太に言った。

「いいよな。羨ましいよ。俺もこんな手作りチョコ誰かくれねえかなあ~。」

天井を見上げ、小さく口を開けながら、淡い笑みを浮かべながら祥太が呟いた。

「今年のバレンタインデーで、祥太もお姉ちゃんも二人同時に恋人ができるといいね。」

天井を見上げる祥太に向かって、優しくにこりとしながら、紬が言った。

「ねえな......俺は。」ぼそっと祥太が呟いた。

「分からないよ。案外祥太も誰かが狙ってるかもよ。」

ぼそっと呟いた祥太の言葉を打ち消すように、紬が言葉をかぶせた。

「お姉ちゃんぐらいだよ、そうやってさ、励ましてくれるの。俺、本当に応援してるから。絶対うまくいくよ!我が姉は、とても優しく、とてもかわいいのです。弟の僕は、それを知っているからこそ、断言できるのです!」


実際、祥太は幼いころから、姉の紬にはよく可愛がられていた。幼少期、たまたま遊ぶお友達が誰もいなく、ひとりつまらなさそうに、さみしそうな顔をしていた祥太に対し、紬が相手になり一緒に遊んでくれた。しかも男の子が好む、戦隊物のヒーローのマネをする戦隊ごっこ、野球、サッカーなどなんでも、いくらでも付き合ってくれた。小学生になると、一緒に手を繋ぎ、親に内緒で、色々なところに連れて行ってもらい、楽しい思い出がいっぱいできた。しかも、親にバレ、怒られる時もいつも紬は、「わたしが嫌がる祥太を無理やり連れて行った」と嘘をつき、祥太に親の怒りの矛先が向かないようにし祥太を常にかばった。中学、高校生の時も、常に祥太の一番の味方であり、よき相談相手で、祥太が若気の至りで、悪い事をしでかした時も、親以上に本気で祥太を叱った。祥太は姉の紬に対して、感謝してもしきれない思いがあり、紬の為になる事であれば、出来る限りなんでもしたい思いが強かった。

だからこそ、姉の紬の幸せな笑顔を誰よりも望んでいた。

「祥太、ありがとう。祥太が弟でよかった。」うっすら涙目で、でも笑顔で祥太にお礼を言った。

祥太は何も言わず、ただ笑顔で何度か小さくうなずき、無言ではあったが力強い最強のエールを紬に送った。




紬はふとビルの向かい側にある、はとバスの総合発着場に目をやった。黄色のカラーが印象的な、はとバス。東京駅丸の内南口を出た所をすぐに左に曲がり、徒歩1、2分のところに、はとバス総合発着場はある。電車が行きかう高架下に総合案内場があり、その目の前に、はとバスの停留所が複数設置されている。日中のほとんどの時間帯に、何らかのツアーバスの発着があり、朝からツアーに参加する客で賑わいを見せている場所だ。夕方の時間帯は、都内の夜景を楽しむために企画された、都内の夜景名所めぐりツアーに参加する人々で、はとバス総合発着場の周りは、にぎやかムードだった。そこには二台のはとバスが乗客を乗せるために停車していて、その停車していたうちの一台の、二階建ての屋根を取り払ったオープンバスに乗客が乗り込み、各々が笑顔で会話を楽しみつつ、バスの発車を待つ様子が、紬の目に入った。


「私も、いつか金田さんと一緒に乗りたい。」


待機するバスの乗客たちの様子を見て、紬が無意識に言葉にしていた。

そして、再び紬が春海がいつも駅に向かう為歩いてくる方向を見た。すると......唐突にその時が......訪れた。

紬の視界に、駅に向かう為、国際フォーラム前の信号で、信号待ちをする何人かの人の群れの中に春海が映り込んだ。

紬の鼓動はさらに速度を速め、音楽を聴いている筈なのに、その音楽を遮り、耳の奥の方で紬の心音が、急激に主張をし始めた。"ドクッドクッドクッ"聴診器を当てている訳では無いのに、その心音は大きくなる一方で、紬は思わず一瞬、手のひらで口を押さえた。紬のふっくらとした唇に、手のひらのヒヤッとした感覚を感じ、ほんの少しだけ冷静になれた。そして、紬は聴いていた音楽を止め、ワイヤレスイヤホンを外し、コートのポケットに入れた。そして、そっと軽く目を閉じ、電車の音、車の走り去る音、この街の雑踏の中から絶え間なく生み出される、様々な音を自分にしみ込ませるように聞き、深く深呼吸をした。そして、


「すべてうまく行く」


そう呟いて、ショルダーバッグの位置を直し、チョコを入れた可愛らしい小さめの赤い紙袋をぎゅっと握り締め、一歩足を踏み出した。

同時に、国際フォーラム前の信号も青に変わり、春海が歩き出した。春海はまだ紬には気が付いていない。東京の中心地らしく人も多く、しかも今は帰宅の時間帯。春海だけに意識をして、春海にロックオンしている紬だけが、特定の個人を認識でき、意識をしていない春海をはじめ、他の通行人は、誰一人として紬に気が付いていない。雑踏の中を器用に人をよけながら、少しづつ、二人が距離を詰める、


"おねがい!私!一瞬でいい。一秒間の勇気を私にちょうだい!"


呪文のように言い聞かせ、紬は歩みを進める、みるみる春海が大きく、大きく、まるで春海の方から紬に迫ってくるようにも紬には思えた。鼓動がこれ以上はない程強まり、これ以上鼓動が強くなると、心臓が胸を突き破り飛び出てしまうのではないかと思うほど、紬の鼓動は力強かった。外は二月で寒いというのに、紬は熱いくらいで、特に耳のあたりが、紬から見えもしない筈の耳が赤くなっているのが分かるくらい、熱さを感じていた。

"コツコツコツ"と大都会の雑踏の中で、春海の足音が聞き取れるくらいまで接近した......そして


「あれ、高城......お疲れ、忘れ物か?」


ファーストコンタクトは、紬の存在に気が付いた春海からだった。

息が乱れ、白い息を吐きながら、会社の方向へ向かって歩いてきた紬に気が付き、その何か勇み足で急いでいるようにも見える紬に対し、春海が率直に思った事だった。春海から話しかけられ、問答無用で春海に、自身の想いと、紬の気持ちと祥太のエールの詰まった手作りチョコを渡し伝えるシチュエーションが整った。

紬は腹をくくってはいたが、いざ目の前に春海が現れると、いつもより春海が大きく見えるばかりか、春海の凛々しいキレのある二重の目が、より一層凛々しさと切れ味を増したようにも思え、春海がいつもよりも数段格好よく、紬の瞳に映り、その格好よさにやられ、紬が考えてきた言葉が吹っ飛んでしまっていた。


「いい、いいやあね、ち、ちがうんです。わす、忘れ物じゃ......。」


いつも以上に凛々しく見つめられている気がした紬は、自分でも予想だにしなかったほど、緊張し始めていて、自分をコントロールできなくなっていた。何を言おうかなどと考えられる状況では無かった。紬の顔はみるみる赤さを増し始め、可愛い女を演出する筈の、頬にほんのり乗せたピンクのチークが、その赤さをさらに強調させていた。緊張のあまり思わず春海から目を逸らした紬の表情は、どこか悲しげにも見える、何ともいえない表情だった。


「大丈夫?」


春海が何ともいえない表情で、顔を真っ赤にしながら目を逸らした紬を心配しだした。紬も"私は何をしてるの!?"と心で呟いていた。

「どこか、体調がすぐれないのか?」

先程まで、凛々しく紬を見つめていたはずの春海が、眉間にかるくうっすらと、しわを寄せ、目を少し見開き、紬を心配するような表情で紬の顔を覗き込んでいた。紬は、その優しい春海の一言と表情で、少し落ち着きを取り戻し始める事が出来た。

紬は、ぱっと顔をあげ、春海に目を合わせた。そして、今度こそ腹をくくった。


「あ、......あの、あの、金田さん、私......私......あの、で、す、ね。あのお!、私、金田さんの事が、前から気になっていて、え、......えっ、と、これ、受け取っていただけますか?一生懸命作りました。」


言葉に詰まりながらもなんとか春海の目を見ながら、想いを告げる事が出来、チョコの入った紙袋を春海に差し出すことが出来た紬。言えた満足感と安心感、いまだ続く緊張状態が、せわしくぶつかり合い、ドキドキしながらも、少し落ち着きはじめ、軽く前髪をいじり、可愛らしくブルーのシャドーと、ホワイトアイライナーの合わせ技を効かした、綺麗な白目を強調するかのような上目遣いで、春海を見上げ、上唇で下唇を巻き込み、頬を赤らめながら、不自然にならないよう、精一杯の可愛さをアピールした。

紬から気持ちを伝えられ、手作りチョコの入った紙袋を受け取った春海。


「あ、......お、おう。ありがとう。...ありがとな。何か、こういうの初めてで、突然で......びっくりした。」


春海の方も紬に待ち伏せされて、突然の告白に戸惑った表情を隠さなかった。しかし、紬が不安になるような表情ではなく、むしろ、戸惑いながらも嬉しそうだった。

「本当にこういうの初めてで......なんて言っていいか分からないけど、嬉しいよ。......あ、ぎり、義理ではないよな、これは......勘違いだったら恥ずかしいな。」春海もだんだんと事態を呑み込み、ドキドキし始めていた。

「ちがうよ!義理なんかじゃないです!一生懸命作った、たった一つのチョコレートです。」

紬は、義理だなんてとんでもないといわんばかりに、一瞬、先輩でもある春海にタメ口になりながら、今日この場で一番のしっかりとした口調で答えた。

春海は、嬉しさまじりの少し困惑した表情で、春海から手渡されたチョコを見つめ、考え込んだ。

紬は、その春海の表情と様子をみて、祈るような気持ちになっていた。

"おねがい!断らないで!『ごめんなさい』とか言わないで!"

と心で懸命に呟きながら、不安を隠さない表情で、紬が手渡したチョコをじっと見つめる春海の表情を覗き込んでいた。すると、春海が、一度目を閉じ、何か決断したように、ぱっと目を見開いた。その春海の目つきは、いつもの様な、凛々しくきりっと切れ味のある目つきに変わり、紬の目を見た。


「高城、ありがとう。申し訳ないけど......」


ここまでの一言でドキッとしながら紬は"嘘でしょお!やめてー!断らないでえ!!"と言葉に出てしまいそうになるくらい心で叫んだ。

「少し、時間くれないか。突然すぎて、すぐには返事が出来ない。ごめん......」

申し訳なさそうに、春海が言った。その言葉を聞いた紬は妄想の中で、そっと胸をなでおろしていた。

"よかったあ......な、なんとか希望は繋がった。"

そう心で呟き、紬は少したれ気味の目を、さらにたれさせ、安堵の表情を浮かべた。

「日曜日までには返事する。それでいいかな?」

「はい。構いません。待ちます。」

「ありがとう。気持ちは頂いたから、ごめんな。」

「いいえ!謝らないでください。私の方こそ、突然すみませんでした。」紬が、頭をさげた。

「いやいや、うれしかったよ、頭なんか下げないでよ。」頭をさげた紬をみて、慌てて春海が言った。

頭を上げた紬は、春海と目が合った。つい五分くらいまでの紬の胸を突き破りそうな、鼓動の高まりは随分と落ちつき、意外なほど冷静に春海の目を見る事が出来た。

「じゃあ、待ってます。お疲れ様です。」

そう春海に告げ、今の紬が出来る最大限の笑顔を作り、紬は春海の前から立ち去った。振り返ることなく......正確にいえば、振り返る事が出来ず、紬は駅とは逆方向に歩きだし、熱く火照りきった頭と顔を冷やしながら呟いた。


「渡せて良かった......お疲れ様、よく頑張ったね...。」


自分に賛辞を与えるように呟いた紬。返事を待たなくてはいけない身で、落ちつかない気持ちではあったが、春海にチョコと想いを渡せたことの安堵感が、紬に大きな賛辞を与えていた。極度の緊張状態から解放され、どっと疲れが押し寄せていた紬だったが、紬の歩様は、まるでマラソン競技の勝者が、これから表彰台に向かうような、嬉しさと疲れが入り混じった、充実感に満ちた軽いながらもしっかりと地面を踏みしめるような歩様だった。




~2月18日 月曜日~


「おはようございます!」


月曜日の朝だというのに、満面の笑みで元気に挨拶をしながら出社した紬。その紬の様子を見た沙羅が部署にいる他の人に聞こえないよう小声で紬に声をかけた。

「おはよう。その様子じゃ、恋が叶ったみたいだね!」

「はい!昨日、返事をもらいました!ありがとうございます!」

これ以上ないというくらいの笑顔で、頬をわずかに赤らめながら紬が答えた。

「じゃあ、今日のお昼、相手が誰か教えてよね。」

純粋に幸せそうで、嬉しそうな紬を見て、すこし羨ましそうな、どこか複雑な表情を浮かべ沙羅が言った。

金曜日に、無事に意中の相手にチョコを渡せた報告を受けていた沙羅だったが、返事が保留中という理由で、沙羅に渡した相手を教えずにいた紬。

「もちろんです。お昼一緒にいきましょう♪」

嬉しさを隠しきれない様子で、紬が沙羅に言った。


そして、お昼休み。


紬と沙羅はいつものカフェで向かい合って、昼食を食べていた。


「じゃあ、教えて。」


二人は食事を早々に済ませ、ひと段落し、食後のコーヒーを啜りながら沙羅がこの時を待っていたかのように、紬に聞いた。紬は頬を赤らめ、目をとろんとたれさせながら沙羅の目を見つめた。

「彼から、社内では恥ずかしくて、色々仕事に支障が出るから誰にも言うなって言われたんですけど、先に沙羅さんとは約束していたので、沙羅さんだけに言いますね。絶対内緒にしてくださいよ。」

紬が沙羅に顔を近づけて、小声でそう話した。

「うん。わかった。」そううなずきながら、沙羅が紬の口元に耳を近づけた。

「金田 春海」

小声で紬が囁いた。笑顔で沙羅の耳元から顔を離し、少し顔を赤らめながら上唇で下唇を巻き込み、可愛らしい表情で椅子の背もたれに紬が寄りかかった。

紬から、想いを告げ、成就した相手の名前を聞いた沙羅は、彫刻のように固まっていた。紬とは対照的すぎるくらい、真剣な表情で。そして、そのままの姿勢と表情で、自然と口を衝くように、ボソッと呟いた。「わたし、土曜日にフラれたの......」

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