第6話 じれったい想い

「それは、何の関係があるんですか。」


田上 卯之助たがみ うのすけが、目の前に座る女性に向かって、どこか説教じみた口調で言った。目の前に座っている女性の名前は上谷 奈緒かみや なお45歳バツイチの独身で、卯之助と一緒の会社で働く、卯之助の上司である。

爽やかさと、出来る女を感じさせる耳が隠れる程度のショートカット。髪の先端から申し訳なさそうに出ている耳たぶに、宝石がちりばめられたゴールドのピアスが、静かに控えめな自信を持たせている。奈緒のアイデンティティでもあるショートカットを、しっかりと自分の武器として手なずけている小顔。まだまだ若さを保っている瑞々しい肌は、しっかりと手入れが行き届き好感が持てる。眉毛も美しく整えられ、小顔にマッチしたつぶらな二重の瞳にさらなる躍動を与え、スラっとした綺麗な鼻筋と、奈緒の大人のセクシーさを上手に演出するピンクのルージュに彩られた唇が、奈緒の魅力的な雰囲気を一層高めていた。身長は160センチで、体型も日頃からの自己管理を感じさせ、ほどよく筋肉が付きほどよく脂肪もつき、身に着けるスーツをしっかり着こなしている。女性が憧れる、働く女性向け雑誌の読者モデルみたいな雰囲気をもっている。性格もどちらかと言えばサバサバしている方だが、人当たりはいたってマイルドで、そのサバサバ感は、仕事でのみの性格と言える。


奈緒と卯之助は仕事を終え一緒に飲みに来ていた。

卯之助は2年前に、奈緒が部長を務める部署の配属になりやってきた。

最初の一ヶ月ほどは、卯之助が部署の仕事に慣れることが精いっぱいで、それこそ部長と単なる部下の関係で、仕事の会話以外に特に会話も無かった。二人が仲良くなったきっかけは、卯之助が部署に配属になって、二ヶ月以上がたったある日、奈緒と一緒に仕事の打ち合わせをしに、得意先へ出掛けた時だった。

タクシーに乗り晴海通り沿いにある、トリトンスクエアへ向かっている途中、歌舞伎座の前でタクシーが渋滞のため停車した時に、歌舞伎座の案内板に張られていたポスターを眺めながら卯之助が

「二月大歌舞伎 『名月八幡祭』......玉三郎か」

と呟いた一言に、奈緒が食いついた。奈緒も歌舞伎が好きでよく歌舞伎座に足を運んでいたからだ。

「田上君、歌舞伎好きなの?」意外そうな表情で奈緒が聞いた。

「はい。母が亡くなった勘三郎の大ファンで、僕も影響を受けました。僕は個人的に『大和屋』推しです。」卯之助が満更でもない様子で答えた。


 伝統芸能である歌舞伎の世界には「屋号」というものが存在する。これは、江戸時代の士農工商制度の下で身分の低かった当時の歌舞伎役者。しかし、大衆娯楽として市民に支持されはじめると、その人気の上昇と共に、経済力が豊かになり、それに伴い発言力も増し、幕府も無視できない程になった。

そのような経緯から、歌舞伎役者は商人などしか住めなかった"表通り"に住むことが認めれた。当時は表通りに住むのは商家と決まっていた事もあり、役者たちはこれにならい、商売を始めた事をきかっけに役者を屋号で呼ぶようになったといわれている。有名な屋号として市川海老蔵の『成田屋』、中村勘九郎の『中村屋』等がある。

『大和屋』は初代坂東三八の実家の屋号が大和屋だった事に由来し、卯之助が先程呟いた坂東玉三郎の屋号だ。


「へえ。私も歌舞伎よく見に行くのよ。成田屋贔屓ひいきよ。」

奈緒が嬉しそうに返した。当時二十代だった卯之助は、現代っ子らしく『推し』という言葉を使ったが、歌舞伎ファン歴の長い奈緒は、歌舞伎ファンらしく『贔屓』という言葉を自然に使っていた。

「ねえ、田上君確か下の名前『卯之助』よね。」奈緒が何か期待含みで卯之助に聞いた。

「はははは。実は、母が、それつけた名前みたいで......歌舞伎役者と一緒は恐れ多いと、でつけられました。」

笑顔交じりで、少し複雑そうに卯之助が話した。

「それでも僕は、結構気に入ってます。」卯之助はきっぱりと言い切った。

「うん。私もいいと思う。じゃあ、この際、今から田上君じゃなくて、卯之助君と呼ぶわ。」

急激に、奈緒の中で、卯之助に親近感が湧きだし、『卯之助』と呼びたくなった。

「構いませんよ。なんなら、今度一緒にいきます?『名月八幡祭』」

「えっ。いこういこう!このところ歌舞伎行ってなかったし、卯之助君とゆっくり話がしてみたいし」

卯之助の誘いに、間髪入れずに乗っかった奈緒。その後、とんとん拍子で二人は距離を縮めていくが、付き合うまでには至らなかった。なぜなら......


二人に一歩を踏み出す勇気が無かったから。


卯之助は31歳。身長は169センチ。170センチに1センチ及ばす、それが彼のコンプレックスだった。髪はベリーショートで、ワックスでふんわり適度に遊ばせ、なかなか雰囲気のいい髪型で、卵形の輪郭に、きりっと太めの整えられた眉。目力で男らしさをストレートに感じさせる鋭くもどこか優しさを期待させる奥二重の目。大きく存在感はあるが、決して主張しすぎない高めの鼻。大きめでほどよい厚さの唇。全体的に男らしさがあり、なおかつ清潔感も感じさせるその出立は、ハンサムで歌舞伎役者を連想しても失礼には当たらないと思わせる風貌だった。

性格は困っていたり、弱っている人を見ると放っておけない人情味ある性格で、情に厚く涙もろい一面もあり、どちらかというと昔かたぎな性格だった。奈緒と一緒に映画や歌舞伎を鑑賞して、奈緒よりも先に泣き出すという所が、また奈緒には魅力的に感じる一面であった。その風貌と性格から一見男気があるように思えるが、臆病な一面があり、その一面こそが奈緒との関係にストッパーをかけていた。

卯之助は、奈緒が好きであり、交際したいとも考えていた。しかし、彼には告白できない理由が二つあった。


 一つは彼が奈緒に告白する事で、うまくいけばいいが、うまく行かなかった時に、今の関係がを何よりも恐れていた。

仕事で上司として彼女を慕い、楽しい時も辛い時も、奈緒の存在無くては考えられないほど、彼女の存在が卯之助を支え、卯之助が会社に出社する一つの大きなモチベーションでもあった。仕事を離れれば、最低でも週に一回、多い時は「今日も行っちゃう?」などと言いながら、毎日一緒に飲みに行っていた。部署内でも二人は付き合ってるのかと思われるほどの仲だった。プライベートでも、お互い独身で、奈緒はバツイチだったが子供は授かっていなかったので、割と自由に卯之助に時間を合わせられた。二人の共通の趣味である、歌舞伎鑑賞のほかに、映画鑑賞、野球観戦、など趣味が一緒だった。普通に考えれば、付き合っても不思議ではないシチュエーションだったが、もし、ここで告白して、万が一にでも断られるような事があれば、かなりの高い確率でこの居心地のいい二人の関係に歪が生まれ、ギクシャクしてしまい、今まで楽しかった関係が維持できなる事を卯之助は何よりも恐れていた。


 そして、二つ目の理由は、一度告白しそびれると、起こりがちな問題が『友達期間が長すぎた』問題だ。二人は意気投合してから約二年、少しづつ距離を詰めての二年ならまだしも、割と早い段階で一気に距離が縮まり、というタイミングが何度かあったはずなのに、逃し続けているとこの問題が大きくクローズアップされる事になってしまう。すごく仲のいい関係で、ある日突然告白された。しかし、友達関係が長すぎたため、相手をどうしても恋人として、異性として意識できなくなる現象である。これは、いかに告白するが大事かという事を指示さししめす。

いわゆる『友達以上恋人未満』という片想い中の男女とも、最も避けたく、聞きたくない中途半端な立場を意味するこの言葉。これを奈緒に言われてしまう事が卯之助は怖かった。


 この二つの恐怖心は、卯之助の心に、恐怖という名の大きなダムのような堤防を作り、溢れそうな想いを塞き止めていた。この恐怖心を克服しない限り関係性を進展させる一歩は踏み出せない。


 一方の奈緒も卯之助の事は好きだった。もちろん恋人としても見る事は出来る。しかし、彼女もまた、自分で自分の想いに大きなダムを形成していた。奈緒も卯之助と同様に二つの理由で、卯之助に対する想いをあふれさせる事が出来ないでいた。


一つは自分がバツイチだという事......といっても、離婚歴そのものは全く気にしていない。彼女が気にしている事は、その離婚に至った理由にトラウマがあった。

前夫とは、奈緒が31歳の時、つまり今の卯之助と同い年の時に、一つ年上の前夫に出会った。二人は別の会社で働いており、合コンで知り合い一年半の交際ののち、結婚した。同棲はしておらず、お互い結婚後初めて一緒の家で過ごすことになった。二人ともすでに実家を出て、それぞれ一人暮らしをし、『炊事洗濯もすべて自分でやっていた』。ここに思わぬ落とし穴があった。

 

 それは、一緒に暮らし始めてすぐに起った。前夫が、奈緒の洗濯の仕方にケチをつけたのが、『夫婦いざこざ劇場』の幕開けだった。

洗濯物の干し方、たたみ方が気に入らず、難癖をつけたのだ。言われた奈緒も黙ってはいなかった。

「じゃあ、あなたがやればいいでしょ!!」悔しくてつぶらな瞳を真っ赤にしながら奈緒が言った。

「分かった。でも、お前ちゃんと俺のやるところ見て。」

出ました。いただきました。「俺を学べ」男。

もうちょっと、別の言い方が無いだろうか?と思うのだが......。

なんなんだこいつはと奈緒も思ったが、新婚ホヤホヤで、これ以上こじらせたくなかった奈緒は、一歩引いて、前夫の言葉を呑んだ。

しかし、それだけで事は収拾せず、同じ日に、次は前夫が洗濯は奈緒がやったから、料理は俺がやるとばかりに、張り切ってキッチンに立ったことで事件が起きた。

調理中に、奈緒が前夫のやり方と味付けにケチをつけた。別にやり返した訳では無い。自分とのやり方との大きな隔たりがどうにも我慢できなかったのだ。奈緒は量りや計量をきっちりやらない派だった。

全て経験で、自分好みの味付けと分量を把握していた奈緒は、お菓子作りや、繊細な味付けが求められる和食以外の料理は、大体目分量と大ざっぱだったのに対し、前夫はきっちりと几帳面にはかるタイプだった。当然、同じ炒め物を作るのでも、前夫と奈緒では味がまるで違う。

奈緒は洗い物もすぐに使う用途が無ければ、食後にまとめてやるタイプで、とりあえずシンクに洗い物を溜めてしまうタイプだった。調理器具を置く位置も、自分の使いやすいように、に置かれていた。

しかし、前夫は調理中であっても、使い終わった器具などはすぐに洗い、なるべくシンクには物を溜めないタイプで、調理器具を置く位置もこれまたにきっちり定位置になければ前夫は気が済まなかった。

そこが奈緒は息苦しくやり辛くて仕方がなかった。


「ちょっと細かくやり過ぎじゃない?」


この一言で第二ラウンドの開始である。

「はあ?何言ってるの?口に入れるものなんだからよ、きっちりやるのは当たり前だろ!」

「そこまで細かくやらなくても、おいしく出来るでしょ。味をみながら作るんだから。」

「ふっ。どうりで、君の料理は大味な訳だ。」前夫が皮肉たっぷりに言った。

「はあ?その大味な料理を『美味しい』って食べてたのは誰よ!?」

「美味しいって言わなければ、作ってくれた人に失礼だろ。ましてや恋人なんだから。結婚したら話は変わるんだよ。そのくらい理解しろよ。」

「なに言ってるのあんた......」そう言って、またもや奈緒がつぶらな瞳を真っ赤にした。

「お前こそ、俺が料理を作ってるのに、何で横槍ばかり入れてくるんだ!」元夫もイラつきを隠さず言った。

「あなただって、私が洗濯した物にいちいちケチつけたでしょ!!」

「お前さあ......」

泥沼の戦いである。こんなことが、毎日。些細な事が引き金になり言い争いが絶えない。

はたから見ると、細かいとか、くだらない、小さな事でとか思うかもしれないが、これは、一人暮らしが長かった人に起こりがちな現象で、今まさにこの問題に直面している人も多いのではないだろうか?

奈緒と元夫もまさに、一人暮らしが長かった。『炊事洗濯もすべて自分でやっていた』が為に起きてしまったいざこざだ。一人暮らしが長ければ長い程、が確立されてしまう。

この自分流が実は、元は他人同士の二人が一緒に生活し始めた時に、最初にでくわす問題と言える。特に、社会的に自立し、自分の考え方、やり方がしっかりと確立されているとこの傾向は強い様だ。

今まで、誰に何を言われる事なく行ってきた自分流に、突然横槍が入ればそれは面白くない。自分が良いと思ってやってきた事や習慣を否定されるのだから。

そして、それはいつしか、その人自体を否定する事に発展し、結果として、何でこんな価値観の違う人と結婚してしまったのだろう。という後悔の感情に陥ってしまう。

最初の些細なすれ違いが、様々な事に飛び火し、まるで江戸中を瞬く間に火の海にした、明暦の大火の如く大炎上をおこし、瞬く間に燃え広がり、修復を困難にして、結局は『価値観の相違』という理由で離婚してしまう要因になってしまうのだ。

まさに奈緒もそうだった。その些細な溝はやがて大きな川になり、岩肌を削り取ってしまうくらいの激流に変わり、結婚生活に破綻をきたしたのだ。


奈緒は自分の、この自分流の価値観の違いに、直面する事が怖かった。もし、目の前にいる卯之助と、そんなことになってしまうと考えるだけで怖かった。


 そして、奈緒にとっての一番の問題は、卯之助との歳の差の問題だった。奈緒は45歳。卯之助は31歳。実に14歳の歳の差があった。奈緒は普段は卯之助と一緒に居ても歳の差は気にならないが、恋人として見た時にどうしても意識してしまう問題だった。奈緒は卯之助が気の合う仲間として、自分と一緒に居てくれるのであって、14も年上の、言い方は悪いが"おばさん"を、まだ20代を卒業したばかりの卯之助が恋人として、彼女として見てくれるはずなど無いと

しかし、奈緒も卯之助が好きだった。年齢や、価値観さえどうにかなるもんなら、卯之助の彼女になりたかった。でもどうしても、この二つが邪魔をして踏み切れないでいた。


奈緒と卯之助に大きく立ちはだかる二つの大きな壁。この時点で二人とも仲良く二つの壁に行くてを阻まれて悩んでいたのだ。しかも二人ともいい加減、彼女と彼氏の関係になりたかった。ここまでくれば、どちらか早く言ってしまえよ!と言いたくもなるが、二人は真剣にお互いの事を想うからこそのである。


ふたりは行きつけの居酒屋のテーブル席で、向き合って飲んでいた。

いつものように、お互いどちらからともなく、仕事や趣味の話で盛り上がっていたが、今日は二人とも様子が少しだけおかしかった。

それはお互いが、このじれったい二人の関係に限界を感じ始めていたからだ。限界を感じている時点で、友達感情以外の好きか、実は嫌いかの感情が、お互いの心をノックしていたということになる。

ここで勇気ある一歩を踏み出さなければ、二人に付きまとうじれったさ感は、この先もずっと解消できない。

そこに終止符を打つべく、それとなく、さりげなく切り出したのは、奈緒からだった。


「あ、...あのさ、卯之助君ってさ、もし、もしだよ......」

勇気を振り絞って、やっと、この重い一歩を踏み出した奈緒だったが、そのあとの一言がなかなか出てこなかった。お酒を飲んでいることもあり、多少は頬は赤くなっていたが、その赤さ以上に体温の上昇を奈緒は感じていた。

そんな奈緒の様子を見て、卯之助は何となく感じるものがあった。その感じるものが、卯之助の心の巨大な堤防をわずかに壊し始めた。


「奈緒さん、な、ななんか、どうしたんですか?も、もし、なんですか?」


卯之助も、自分の体温が上がり始めたのを感じていた。言葉にも現れていたが、あからさまな、いつもとは違う空気感だった。ここで一歩を踏み出すチャンスだと感じていたが、奈緒のその顔を赤らめながら、一生懸命に何かを伝えようとしている姿があまりに可愛くて、もう少し見ていたい気持ちになり、すこし、ほんの少しだけ、奈緒に意地悪を言った。


「そんな、か、かか可愛い表情して、何を言おうとしたんですか?」


意地悪したかった卯之助だが、自分こそ緊張してしまい、大事な、大事なフレーズを噛んでしまっていた。

しかし、それは、奈緒も一緒の事。『可愛い表情』というフレーズが、彼女の心でいたずら好きの天使たちが、騒がしく何か、鳴り物を鳴らしてるかのように、"きゅんきゅん"して仕方がなかった。


「あ、あのね。14も年が上の女が、彼女って......無いよね。恥ずかしくて、人に言えないよね。」


顔を赤らめながらも少し、自信がなさそうな態度で奈緒が言った。その言葉を聞いた卯之助が、やや表情を曇らせた。敏感にその表情をとらえた奈緒は、やっぱり年が離れすぎているのかと、奈緒の可愛さをさりげなくアピールする、ピンクのルージュで彩られている唇を"きゅっ"と噛みしめた。

「なんか、ごめん。急に変だよね私。こんなこと言い出すなんて、45のおばさんが、変な事聞いちゃった。」

曇り気味になった卯之助の表情をみて、急に自分に自信を無くし始め、自分の「彼女」という発言が恥ずかしくなり、発言を取り消すようなことを言った奈緒。その言葉を聞いた、卯之助は眉をひそめ、さらに表情を曇らせた。その表情を見てどうしていいのか分からなくなった奈緒は思わず下を向いた。その瞬間、ようやく卯之助が口を開いた。卯之助は、先程とは違い、冷静にそして少しだけ熱く語りだした。


「それは、何の関係があるんですか。」


この物語冒頭の言葉だ。その少し説教じみた言葉を聞いた奈緒は、"えっ?"という表情で下を向いていた顔をあげ、奈緒の見え隠れする不安を象徴するような目つきで、卯之助の、男らしくも優しさのある目を見た。


「関係ないでしょ。齢の差なんて。誰が決めたんですか?そもそも45のって、どうして自らそんなこと言うんですか?」


先程までの緊張は何処かに吹き飛び、卯之助は熱く語りだした。卯之助のその言葉に、奈緒はただ、じっと卯之助の目を見つめることしか出来なかった。


「40越えたら恋愛しちゃダメなんですか?恋愛すると誰に迷惑がかかるんです?幼稚園児だろうが、80越えたお婆さんだって、恋してる人は恋してますよ。相手が誰であれ気にすることなく、好きになった人に夢中ですよ。これが、おかしいですか?恥ずかしいですか?」


卯之助のその言葉に、奈緒は何も言い返すことが出来なかった。そもそも、卯之助の恋愛概念には年齢制限など無く(さすがに未成年は対象外だ)『好きになった人が大切な人』という概念しかなかった。その概念に当てはめれば、いま奈緒が卯之助に言ったことは愚の骨頂だった。そして、卯之助は、やさしく奈緒に語りかけた。


「確かに世の中、理想論として『年上、年下、同い年がいい』とか『守備範囲は何歳まで』とか言う人も居ますけど、そんなこと決めていたら、自分の幸せの価値観が限定されてしまう。そこに何の根拠があるんですか?年齢に関係なく、『好きになった人が自分が幸せと思える大切な人』でいいと僕は思います。僕の考え方はおかしいですか?」


奈緒はつぶらな瞳をうるうるさせながら、首を横に何度も振った。

いま、卯之助に言われたことに対して、返す適当な言葉がなにも見つからなかった。自分の年齢と卯之助との年齢差ばかりに気を取られ、いままで考えも思いもしなかった事だからだ。

見事に卯之助の言葉に奈緒の心は打ち抜かれていた、もうこれ以上、ためらう物がない程に。そして、次の卯之助の言葉が、今まで抱えてきた奈緒の不安をすべて払拭し、奈緒の心からためらいを消し去った。


「今まで、僕は奈緒さんとの関係が壊れてしまう事が、とても怖くて、...とても不安で......長すぎた奈緒さんとの友達の関係が、僕の事を奈緒さんが、恋人として見れないのではないかという不安と恐怖も重なって、なかなか前に進めませんでした。

もちろん、奈緒さんにだって、僕と付き合う事に奈緒さんなりに抱えている不安や、心配事がいっぱいあると思うんです。

でも、生きている限り、誰にだって不安や心配事、恐怖心はついてまわるじゃないですか。だったら、その度に、ひとつひとつ解決していけばいい......」




『僕とふたりで。』

今まで自分が抱えてきた不安。そして、奈緒だって不安や心配を抱えて生きてきた。どうすれば二人が長く、一緒に仲良く過ごせるのだろうか。懸命に考えた。

どうすれば、お互いが居心地良いまま、これから長く一緒に過ごせるか。懸命に考えた。

奈緒が自分との、年の差の事を気にしていたのは薄々気が付いていた。だから、そんなのは関係ない事だと早く奈緒に言いたかった。

卯之助が奈緒との事を大切に考え、思いやり、ここでやっと、その想いをあふれさせたのだった。

奈緒は、卯之助のその言葉と想いに、自然と涙があふれ出ていた。すぐ近くにいる、目の前にいるはずの卯之助の姿が霞んでよく見えなくなってしまうぐらい。言葉も発せられなかった。

"ひとつひとつ、解決していけばいい。僕とふたりで"

という言葉が、奈緒の脳裏に焼き付き、記憶に永久保存され、奈緒が抱えていた、今まで卯之助と付き合う事に対する不安と恐怖は、奈緒のこころの堤防の決壊と共に綺麗に流されていった。奈緒は、目の前にいる卯之助に首を大きく何度も縦に振ることしか出来なかったが、卯之助の優しさであふれた目をしっかりと見つめ、精一杯の感謝と愛を込めて返事を返した。


『卯之助......だいすき。これからよろしくお願いします。』



この瞬間、ふたりの長くじれったい、友達生活はようやく......でも、いちばんベストな形で終止符が打たれた。

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