第2話 絵理子と源蔵
海外から取り寄せ、しっかりとした作りで、座る者に一切の不安を与えず、ちょうど良い尻の沈み具合で、食事をする時もくつろぐ時も、座っているものを優しく受け入れる上品な椅子が向き合う形で二脚置かれ、その椅子の間には、照明の照り返しのない、落ち着いた、しっかりとした生地で作られた白いテーブルクロスに包まれた、大きめの四角いテーブルがあり、そのテーブルに両肘をつき手を組み、その上品な椅子に腰かけ、ゆっくりとくつろぎの時間を過ごす絵里子と源蔵。
二人が向き合って座るその間には、鮮やかなオレンジ色の炎が、激しくもなく、弱々しくもなく、まるで、二人の心を表現しているかのような、暖かな灯火で絵里子と源蔵をやさしく包み込むように照らし続けていた。
けっして派手な装飾や高級なシャンデリアなどは無かったが、教育の行きとどいた品のある接客と、この場所を選択したことを後悔させない上品で品のある、そして作り手の心が入り込んだ、文句のつけようのない料理。すべての演出を壊すことなく、むしろさらに、来た者の気持ちを癒し、満足感を与え、自然と店の雰囲気に溶け込んでしまうような、心地のいいピアノの音色。
絵里子と源蔵が二人で一緒に探し、三か月前から予約をいれていた、普段よりもというよりは、普段は滅多に行かないようなレストランに二人は来ていた。
今日は記念日だったからだ。
記念日と言っても、プロポーズや結婚記念日、どちらかの誕生日と言う訳ではない。普段は行くことのない洒落たレストランで何の祝いをしていたかといえば。
一年前の今日は、二人が"遠距離恋愛"を卒業した日だった。絵里子と源蔵の二人にとっては大きな節目であり、一年前に遠距離恋愛に終止符が打たれたときに、一年後にお祝いしようと約束していたのだ。
全てのコースがおわり、デザートも食べ終え、二人はコーヒーを嗜み、ゆっくりと心地のいいピアノの音色に寄りかかるように、背もたれに寄りかかった。
「おいしかったね。ここで正解だったね。」
絵里子は乾杯のシャンパンと、料理と一緒に嗜んだワインの幸せな三重奏の影響でほろ酔い加減になり、すこし赤らんだ頬で満足げに源蔵に話しかけた。
「旨かった!選んでよかった。」源蔵も満足げだった。
「もう、一年なんだね。遠距離してたころより早く感じる。」絵里子が当時を振り返るように語った。
「もう、二度と遠距離はしたくない。」源蔵も当時の気持ちを思い出しながら言った。
「何回泣いたっけ?」
「俺は、遠距離になって初めてのバイバイの時だけだけど、絵里子は、何度か泣いてたな。」
遠距離恋愛だった二人は『別れる』という言葉を極端に嫌っていた。
ただでさえ、近場で付き合うカップルより別れるリスクが高い遠距離恋愛。いくら、決別を意味する事ではなく、単に自宅に帰るためなどの意味合いで『別れる』と使われたとしても、二人にとってはすごく嫌な言葉だった。だから、二人のお別れのあいさつは『バイバイ』で統一されていた。それは、遠距離が終了して一年経った今でも続いていた。
近くでコミュニケーションが取りづらい環境の中で、二人が大事にしてきたことは、"言葉の選択"だった。会いたくてもすぐには会えず、いくら一昔前よりコミュニケーションツールが発達して、以前よりも遠距離恋愛が距離を感じにくくなってきたとはいえ、やはり大事な話や、LINEや電話じゃ伝えきれない話は、タイムリーに会って話さないと真意が伝わらず、"思い込み"がひとり歩きして、二人の間に要らぬ溝が出来ることは絶対に避けたかった。
だから、言葉の選択は二人にとってはとても大事な事だった。
「いつか慣れると思ってたけど、慣れる事なんかなかったね。」絵里子が呟いた。
「そうだな。ほんと、毎月幸せで、毎月辛かった。」苦笑いで源蔵は答えた。
「楽しいのは、会う直前から初日の夜までで......あとは"あと何日・何時間で帰ってしまう"ということが、頭から離れなくなるもんな。」
実感を込め、源蔵が呟くように言った。
「うん。」絵里子も当時の心境を振り返り、すこし切ない気持ちにもなっていた。
「本当に乗り越えて良かった。乗り越えたから、今の幸せな時間があるんだよな。」
源蔵が、絵里子の目を見つめながらしみじみと語った。
遠距離恋愛を経験した者にしか分からない、二人の時間軸。一分たりとも無駄にできない、ケンカなんかしている場合じゃない。一分でも長く楽しい時間を共有したい。
いつでも好きな時に会える訳ではないから、二人には時間の大切さが身に染みていた。
「周りから、"遠距離は続かない"って言われ、悔やしかった。でも、その言葉のおかげで、乗りきれた。」
「そうだね。」
「ねえ、覚えてる?ふたりの"キャッチフレーズ"。」
絵里子が、微笑みながら源蔵の目を見て問いかけた。
「もちろん。どんだけ、その言葉に励まされたと思ってるんだ。」
源蔵も笑顔で即答した。
そのキャッチフレーズは、もう20年以上前、JRの新幹線のキャッチコピーとして使われていたものを、遠距離恋愛をしていた当時、たまたま絵里子がネットで見つけて、二人の心に水が砂にしみ込むように浸透し、二人に勇気を与えたものだった。
すぐにそのキャッチコピーは二人を繋ぐ大切な"キャッチフレーズ"となった。
二人は見つめあい、同時にそのキャッチフレーズを口にした。
『距離に試されて二人は強くなる』
「この言葉にどんだけ励まされた事か。」
「ねえ~。」絵理子は相づちを打った。
二人はしみじみと、その当時の想いにひたりながら、少しの沈黙があった。
信頼しあっている二人に、沈黙などよくある何ともない日常で、気まずい空気とは無縁の沈黙だった。
五秒から十秒くらの沈黙が続いたあと、想いに浸り、少しうつむき加減だった絵理子の視界に、唐突にそれは、すっと入り込んできた。
「生きていくのを一緒に共有してほしい。」
源蔵は、しっかりと絵里子の目をみて、はっきりと言った。
絵里子の視界に入り込んだものとは、小さくも、しかし溢れるくらいの、大きな大きな源蔵の想いが詰まった、二人をしっかりと強固に、なおかつ、優しく結びつける、ひときわ眩い輝きを放つ『リング』だった。
絵里子はうつむき、大粒の涙をぽろぽろ落とした。
そして、顔をあげ、源蔵の純粋でまっすぐな瞳をしっかりと、笑顔で見つめ返事を返した。
『はい。』
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