第33話 one's memoirs
「はい、アン、ドゥ、トロア、カート!」
少女や青年が、フロアで舞う。みな簡素な服を着て、化粧も薄い。
ここは、ミセス・ファンヌが立ち上げた俳優養成所だ。彼らは今、
不意に、舞いが止んだ。フロアの隅に、踊っていた生徒たちが寄る。そして、中心に一人の女性――タミアがゆっくりと進み出た。
「〈ああ、どうしてあなたは……あなたは、アンデミオなの? あなたと結ばれる方法は、この世界のどこにもないっていうの?〉」
養成所の星、タミアが物語の重要な台詞を言う。酷く悲愴な表情は、まるで本当に貧しい町娘が身分違いの恋をして、それが破られそうという場面そのものだ。
「〈ジュリー、きみと結ばれるのであれば、この命を奪われても構わない……おお! 君よ! 星の子、ジュリーよ!〉」
盛大な音楽が鳴り、二人はそれぞれ踊りだす。同じ音楽だが、全く違った振り付けで。それが段々と近づいていき、最後には見事なユニゾンを紡ぐ。
最後まで踊り切ると、生徒たちから、わっ、と拍手が巻き起こった。
少女たちを中心に、タミアへ向かって駆け出す。表情はとても嬉しそうで、タミアのことを歓迎していることがありありと解る。
タミアを取り囲んだ少女たちは、タミアへ感動の言葉を口々にかける。
「タミア、あなた本当に素敵になったわね!」
「本当、今までどうしてたのよ。全く別人みたいじゃない」
受けたタミアの方は、とても嬉しそうだ。照れながらも、喜びの表情を崩さない。
「えへへ……ありがとうございます。ちょっと、いいことがあったので」
ミシェルがくれた、リシアンサスをメインにした舞台女優の花束。あれが、勇気をくれたのだ。ミシェルの心がタミアに自信をつけ、今では表情を隠す伊達眼鏡すら着けていない。
あのときの花束があまりにも美しく、タミアは同じようなオーダーでもう一度、花を束ねてもらい、時折、部屋に飾っているのだった。
「もう〈こりす〉なんかじゃないわね。まあ、まだまだみんな
「あなたに負けてられないわ! ミセス、もう一度、お願いします」
生徒たちに声をかけられたミセス・ファンヌは妙齢の美しさを持つ顔に、活発な笑顔を浮かべ声を出す。
「いいでしょう、それじゃあ指定の位置へ!」
再びカウントがなされ、音楽が始まる。
何度かそれらを繰り返した。音楽がちょうど止まったときに、
からぁん――……
と、遠くで教会の鐘の音が鳴った。
「はい、それじゃあ今日はここまで。みんなよく頑張ったわね。とっても良くなったわ。また明日、お会いしましょう。バーイ!」
生徒たちもファンヌや生徒同士で「バーイ」と声をかけ合う。それから、各々の鞄や荷物をまとめ、フロアから出ていった。
「あっ、ミシェルさん!」
出ていった生徒のうち、一人の少女が黄色い声を上げた。それに続き、ミシェルを呼び止め、会えた喜びを口々に表す生徒たち。ミシェルの銀の髪に紅い瞳という異色な外見は、それだけで魅力的に見えるらしく、この教室でも人気がある。
「あら、ミシェルが来てるのね」
「どうも、ミセス」
女の子たちから解放されたミシェルは、ファンヌの残る広いフロアに入った。まだ生徒たちが発した熱気で、外以上に暑さを感じる。
「あらあら、それにマルスまでいるのね」
「こんちは、ミセス・ファンヌ。いやね、今度の舞台で誰を使うのかなって気になってさ。写真屋から頼まれて、偵察だ」
「ふふっ、フォートも自分でくればいいのに」
「忙しいんだとよ、ほら。〈星巡りの日〉が近いだろう」
「そうだったわね! それなら忙しいのも納得だわ」
「ミセス、そんなことよりもちょっと茶でもどうだい。ガトー・オペラの気分なんだ。【カフェ・ヴィエルジュ】あたりがいいかね」
「いいわよ。今日はもう、教室はないから。いきましょう」
ファンヌは二人を少しばかり待たせ、指導に使う簡素な服から、赤を基調とした上下へと着替える。普段着でこそあるものの、ファンヌの気品を引き立てるフレアスカートとブラウスだ。
先にカフェに訪れていたミシェルとマルスのもとへ来ると、ファンヌ自身もアイスティーを注文した。
「さあ、マルス。あなたの今日の目的は何かしら」
注文が揃い、三人も揃う。夕焼けの明かりが灯るテラス席に、三人が円形のテーブルを囲んで座る。
まるで子供のようにわくわくした様子で、ファンヌがマルスに用事を訊ねる。
「そりゃあ当然!」
ファンヌの問いを受けたマルスも、待ってましたとばかりに声を大きくして言う。
「珠玉の名作『アンデミオ・アンド・ジュリー』の主演だよ。どの子が選ばれたんだ?」
期待を込めて、マルスは恰幅のよい身体を前のめりにして、ファンヌに問いかける。ファンヌの方は、「それはね……」とたっぷり間を置いてから、楽しそうに語る。
「タミア・シルワよ」
ミシェルは納得し、マルスの方は意外そうな顔をした。
「はぁ~、あの子がねえ。なんだかイメージ無いが、大丈夫かい、ミセス」
「ええ、もちろん。あの子、とっても良い演技するようになったの。ほんの数日のことなのにね。何があったのかしら。ミシェル、知らない?」
「俺は何も」
ミシェルは、静かに首を横に振る。言葉を飲み込むように、ひとつ、カフェ・マキアートに口をつけた。
「タミアさんが頑張っていることしか、俺は知りませんよ」
「もう、ミシェルったら。そんなことを言って、タミアに花を包んであげたりしたんじゃないの?」
「おっと、バレてましたか」
ファンヌはくすくすと笑い、隣で聞いていたマルスも大きく笑った。
「はっはっは! ミシェルさんも悪い人だ」
和やかに、会話は進む。ファンヌの誘いで、今回もミシェルとマルスにチケットが用意されるということが確約され、お礼としてスナップ写真や花束を約束することになった。
「そういえば、ミシェル。あなた、今日はどうしてここに?」
「いや、大したことではなくて……単にマルスさんにお誘いを受けただけなんです。今日の午後は休みだろう、って」
「なるほど。確かに今日は水曜日だわ」
「俺にもお断りする理由はなかったので、お付き合いしたってことです」
「ミシェルさんは優しいからねえ! はは、こういうときに人付き合いがよくて嬉しいよ」
ゆっくりと、夕焼けは夜に変わっていく。じっくりと時間をかけて、オペラハウスの影に太陽が隠れていった。それを見計らって、街灯に明かりがつく。
夏のシカトリスの夜は短い。カフェにいた人々も、少しずつ席を立って、パブやトラットリア、あるいはレストランなどに移動していく。
しかしファンヌたち三人は、夕日を名残惜しそうに見送ったあとも、その場に留まった。
「ねえ、ミシェル。あなたはこの街に、来てよかったと思う?」
「……突然ですね、ミセス。どうなさったんで?」
「いいえ、特別なことはないのよ。だけれどね、あなたはこの街に育って、よかったのかな、って」
「若い頃に育ての親を亡くしてるんだもんなあ。ヴァレリアンもあんなに早く逝っちまうことなかろうよ」
二人の言葉に、ミシェルは言葉につまる。
確かに、ヴァレリアンを亡くすという辛い目にあった。キャリエールでの職人学校生活も、決して楽しいことばかりじゃなかった。
この世界はときに残酷で、愛するものを見送らねばならないときも多々あった。
ミシェルは、二人の言葉になんと返せばいいのかわからない。言葉に詰まり、下を向く。ミシェルの視界に、自身の水仕事で荒れた手が入った。
「俺は……」
ミシェルの様子を見て、ファンヌは会話を切り替えるように、明るく言った。
「ねえ、ヴァレリアンの思い出といえば何があるかしら?」
「おっ、突然だけど良い話だね、ミセス。あいつの話ならたっぷりあるよ。なんたって、芝居のチケットと花束は切って切れない関係だからなあ」
乗ってきたマルスに、ファンヌは「そうでしょう」と相づちを打って話題を続ける。
「あの子ってばね、あたしに花束だよってたくさん花を持ってきてくれるでしょう。でも、その度に若い女の子たちによってたかられて約束を取り付けられて。お酒に弱いのに、しょっちゅうパブなんかに連れていかれてたわ」
その様子が、ミシェルの心に浮かぶ。よく、ヴァレリアンは「美味しいものを食べさせてあげる!」と言ってミシェルのことを連れ出していた。ヴァレリアンの隣で見る街はきらきらしていて、とても嬉しかった。
何故か、美しい女性とともにいることも多かったが、やはりそういうことだったのか。
「それで言うなら、こっちのエピソードも負けていないぞ。ミセスのすぐ傍に顔の良い男がいるって、他の街から取材がきたことがあったんだ! けれどな、それはヴァレリアンのことだったし、ただの花屋だってわかると、がくっと熱が下がっちまった」
「そうそう、そんなこともあったわね」
ヴァレリアンの花屋以外の側面を、ミシェルは言うほど知っている訳ではない。もちろん、とても良い人だった、いい花屋だった、顔も人柄もよかった……そのくらいは、知っているのだが。
「綺麗な娘さんたちみーんなことごとくフッちまうんだもんなあ。それでも言い寄る子が絶えないのは、見てるだけで羨ましかったよ」
「ヴァレリアンは、女性に興味なかったんですか?」
「そうなの! あの子ってば舞台俳優も顔負けな容姿に上背なのに、『女の子には興味ないんです。それよりも、愛さなくちゃいけない存在がいるので』って」
「愛さなきゃいけない、存在……?」
恐る恐るミシェルが訊くと、ファンヌは優しく微笑んだ。
「あなたのことよ、ミシェル」
ミシェルは、ファンヌの言葉に顔を上げる。
そのミシェルの顔を、ふわり、と。涼やかな風が優しく撫でた。やわらかく甘い感触は、ミシェルが世界で一番、愛していた人の手に似ていた。
泣くわけにはいかない。そう思い、ミシェルは再び下を向く。
「あの子ってば、もともとあんまり誰か一人のことを意中に留めるっていうタイプじゃあなかったけれど、それでもね、ミシェルが来てから拍車がかかったわ。まったく女の子に見向きもしなくなった」
「格好いいお兄ちゃんが見向きもしてくれないってのは、娘さんたちにとっちゃあ辛いものがあったかもなあ。でも、ミシェルさん、あんたがいたからヴァレリアンは楽しそうだったよ。愛するものができたんだ、っていつも自慢していた」
うつむいたミシェルが、小さく、愛する人の名前を呼んだ。涙こそこらえているものの、ミシェルの表情は愛と悲しみに満ちている。
「ねえ、ミシェル。よかったら今日は、ヴァレリアンのことを思う日にしない?」
「え……」
もう一度、ミシェルは顔を上げる。潤んだ瞳が、ファンヌの顔をとらえた。ファンヌの方は、遠い場所にある美しいものを愛でようという表情をしていた。
ファンヌだけではなく、マルスも同じく美しい思い出に心を馳せていた。三人が抱いているのは、同じ一人の人物だ。
ヴァレリアンは、この街のみなに愛されていた。
マルスは、くい、とグラスを傾ける仕草をし、このあとの予定を示唆する。
ファンヌはそれに頷き、テーブルに置かれたミシェルの右手を取った。
「……そうですね。俺から話せることは、ほんの少しですが」
「よっし、そうこなくちゃ! なら、ミス・タミアとヴァレリアンのために、この先は奢ってやろうじゃないか!」
「あらやだ、マルスってば男前ね。じゃあご相伴に預かろうかしら」
マルスは右手を軽く振り、ボーイを呼んで会計を済ませた。
このあとどこに行こうか、あちらか、こちらか、とマルスは陽気に道を探す。
ファンヌは嬉しそうに、マルスのことを見ながらフレアスカートを翻しながら歩く。
二人の間で、ミシェルも楽しそうに笑顔を浮かべる。
夜が、更けていく。
愛する人との思い出が、空の星に輝きながら。
【思い出の人――Fin.】
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