第32話 Numerous blessings

 その日、ニコラウスはトラットリア【グラティチュード】に足を運んでいた。

 席について、食前酒に小さなグラスでキールを提供されてから少しの間、何を注文したものかと悩んでいた。

「うーん……美味しいものばっかりあるんだよなあ。ユリナさんの料理はどれも絶品だもんね。ああ、まずは腸詰め肉にしようか、それともステーキにしようか、ハンバーグもいいな。豪勢にローストビーフなんかも……うーん……」

「何、ひとりごと言ってるんだ、ニコラ」

「ミシェル!」

 独りメニューに悩み、ぶつくさと感情を洩らしていたニコラの後ろに幼馴染のミシェルが立っていた。

 ミシェルがこの店に来ることは珍しくない。むしろ、ニコラが店にいることの方が珍しいのだ。思わぬ再会に、ニコラは破顔して、にこにことミシェルがカウンター席の隣に座ることを歓迎する。

「ミシェル、会えて嬉しいよ。元気だったかい? 僕はね、この間からずっと遺跡にこもっていてさ。すごく暑いときもあればひんやりしているときもあって、気温差で風邪をひくかと思ったよ! ああ、ミシェルと会えて嬉しいなあ。今、何を食べようか悩んでいたところだったんだよ。ミシェルは何が食べたい? 僕はね……」

「待て、待て。俺は今来たばかりなんだぞ。とりあえず、食前に何かもらおう。ユリナさん、白と、ナッツがいいかな」

 ニコラの勢いに耐えきれず、ミシェルは慌てて注文を済ませる。その間も、ニコラは何かを言いたそうに、笑顔を崩さないままそわそわとしていた。

 ミシェルとニコラが会う機会は少ない。お互いの仕事の具合や、日々のことを加味すると、【グラティチュード】に来るタイミングがずれるということも大いにある。だからこそ、ニコラはミシェルと邂逅できたことを大変、喜んでいるのだ。

「ほら、お前も今来たところなんだろう、ニコラ。それならひとつ乾杯でもしよう」

「そうだね。ああ、ミシェル、ナッツだけじゃあなくてサラミなんかも食べなさいっていつも言っているでしょ。人間はタンパク質でできているんだから」

「わかったわかった。ほら」

 乾杯、と、ミシェルは出されたグラスをすぐさま手に取ってニコラの前に掲げる。「おっと、ごめんごめん」といいながら、ニコラもすぐにグラスを掲げた。

 ミシェルはユリナが選んだ銘柄のワインを、テイスティングもせずに傾けた。しかし、流石ユリナというところか、ミシェルの好みにぴたりとあったワインを出してきた。ミシェルは頷きながらユリナの方を見る。するとユリナは、ぱちりとふくよかな目蓋を片方つむり、ウィンクをしてみせた。もう一度、ミシェルは頷いて礼とした。

「ねえねえミシェル。今日は何を食べにきたんだい。僕はね、何か美味しいお肉を食べようと思ってきたんだ。だけど、やっぱりユリナさんのお店ってだけあってどれも美味しそうでさ。いつものように腸詰め肉でもいいし、ステーキやハンバーグもいいよね。もっと何か豪勢に食べてもいいもんねえ。あれ、これさっきも考えてたな……まあいいや。ね、ミシェルはどうするの」

「お前のその早口はいつものことだな。そんなに口が軽々と動くの、羨ましいよ」

「ええ、そんなこと言わないでよ。僕はね、ミシェル。僕はいつも遺跡の中で一人か、せいぜい二人くらいで無口に仕事をしてるんだよ? それだから、口が寂しくってさあ。あ、ありがとうユリナさん。ぼくのチーズと、ミシェルのナッツ、と。わあ、ミシェルの皿にサラミも盛り付けてくれたんだ。これでミシェルもタンパク質をとれるね。ほら」

 言いながら、ニコラはミシェルとの間にチーズの乗った皿を置いた。ミシェルも、ナッツが入った小皿を二人の間に置く。

「ニコラ、お前は本当によく喋るな……感心するよ。さて、俺の話でも少し聞くか?」

「うん、もちろん!」

 元気よく頷いたニコラは、にこにことしたままミシェルの話を聞く姿勢に入る。

 ニコラは、喋ることも大好きなのだが、聞き上手でもある。相づちのタイミングやリアクションが実に上手で、ミシェルもつい話しすぎてしまうところがある。

「そうだな。じゃあまずはタミアさんのことでも」

 ミシェルは、ついこの間にあったタミアとの一幕のことを話した。

 タミア自身、自己肯定感が酷く低かったこと。それをミシェルは悲しく思ったため、どうにかして打開できないか花束に託そうと思ったこと。それから、彼女に似合った花束、リシアンサスをメインにして渡したということ。それをタミアはとても気に入り、自分はやはり女優になりたいのだという夢をもう一度、抱いてくれたということ。

「そして、今タミアさんはミセス・ファンヌの立ち上げた俳優養成所で、頑張っているそうだ」

「いいねえ! そんな風に夢を追いかけるひと、僕は好きだな。なんだかキャリエールで学校に通っていたときの僕たちみたいじゃないか」

「ああ、だな。あのときは本当に楽しかった。見るもの全てが、不思議に見えて、楽しく思えて、美しく感じて――お前のおかげだよ、ニコラ」

「えー、そんなことないよ。ミシェルが自分で頑張ったんじゃないか」

「はは、そうだったかな。けれど、ニコラに救われたってことは本当のことだ。もっと誇っていいんだぞ」

「へへへ。それなら自慢しようかなあ。ミシェルがそう言ってくれるんだもん。思い出は美しいものだよね……あっ、ミシェル! またサラミ食べてないよ。ナッツばっかり減ってるじゃない」

「おっと、ばれちまったか」

「こら!」

 仲良く、二人は酒の席を楽しむ。しばらくの間、他愛ない話を続けた。

 ニコラが遺跡でひとり、遺体を見つけたこと。その遺体のおかげで文化がひとつわかったこと。

 遺体があるならば、少ししたらミシェルの花を求め、バズが店に来るだろう、ということ。

 花の文化について、ニコラも興味があるということ。

 いつか、その国で育まれている文化に二人で触れてみたい、ということ……。

 何気ない会話が鎖になって、つまみと酒を進めながら二人の仲を深めていく。これ以上ないほど深いかと、いつも考えるのだが、ミシェルもニコラも、互いの新しい価値観などを逐一、見つけては、感心と納得を繰り返して、次の話題に移る。

 そうして、二時間ほどが経っただろうか。結局、簡単な料理で二人は酒を進めてきた。そろそろ本格的に注文をしようか、と考えたときだった。

「あーら。ニコラじゃない!」

 ニコラの背後から、威勢のいい元気な声がかかった。

 そこにいたのは、可愛らしい、どこか幼さを感じる顔を素朴なそばかすで飾り、淡い檸檬色のワンピースをざっくりと着こなした女性だった。エプロンのポケットにメモ帳をぎっしりと詰めていて、ポケットの回りにだけ少しばかり、インクの汚れがついていた。

「おっと。ダンテじゃないか。嬉しい、君とも会えるなんて」

「あたしだって嬉しいわよ、ニコラ」

 ニコラは、酒でうっすらと赤くした頬をゆるめ、女性、ダンテの方を向いた。二人とも、楽しそうに笑って再会を喜んでいる。

 店に来たばかりのダンテだが、腹が減っているようで、ユリナに腸詰め肉とポテトのプレート、それに麦酒の注文を通す。「あいよ」とユリナが返事をしたのを見送って、ニコラの顔を見た。

「ニコラったら全然、連絡も何も寄越さないんだもの。どうなの、遺跡の発掘や解析なんかは」

「楽しいよ! ダンテが思っているよりもずっと楽しいかもしれない。僕、この間、また新しい発見をしたんだよ。ほら、今、ミシェルにそういうことを話していたところなんだ」

「あらあら。そうだったんだ。ミシェル、どう? 元気にしてる?」

 楽しそうに、ダンテはミシェルの顔を覗き込む。そばかすが素朴に飾る顔に、ニコラにそっくりな笑顔を浮かべて、ダンテはミシェルの言葉を待った。

「結構にやってるよ」

 ミシェルは、その笑顔に答えるように笑って言う。

 この店に来ると、こうしてよく知り合いと顔を合わせる。そのときはこうして会話に花を咲かせ、相手のことや自分のことを思いやるのが楽しみのひとつなのだ。

「ダンテの方こそ、最近見なかったぞ」

「あたしもね。医者やってると残念なことに、中々、時間がとれないもんなのよ。この間、やっとキャリエールから帰ってきた新米をがっつり指導してやったとこ」

「おーこわ。ダンテに指導されたんじゃ、思いっきり怒鳴られまくったな」

「なんてこと言うのよ、ミシェル。あたしはね、ちゃーんとあの子たちのことを思ってしっかり指導していてね、体温の測り方から外科手術の方法まで、色々いっぱい教えてあげることばっかりだったんだから」

「いつも通りに、ニコラに似てよく喋るな……ダンテ、ニコラ、お前たちは静かにするってことを知らないのか?」

「「いいじゃない、それくらい」」

 ニコラとダンテの声が、ぴたり、と揃った。

 二人の声に、ミシェルは苦笑いを浮かべながら感心する。これだから、ニコラとダンテは巧くやれるのだろうなあ、と。

「でも残念ねえ。今度、ニコラと指輪を見に行こうって言ってた日なんだけど、急に手術の予定が入っちゃったのよ。なんとか他の日にできないかって調整はしてみたの。でも、できなくて。ああもう、悲しいったらないわ!」

「そんなに怒らないで、ダンテ。僕はいつでも大丈夫だよ。君と一緒になれるのなら、指輪なんかどうでもいいんだ。僕は、この街のみんなに夫婦になったんだよって認めてもらえるなら、それで十分なんだから」

「まったくニコラったら嬉しいこと言ってくれるじゃない。ああ、あなたの恋人でよかったわ。だって、こうやって穴蔵から出てきて優しい言葉をかけてくれるんだもの」

「ダンテ! ああ、嬉しい、ダンテ!」

「ニコラ!」

 ミシェルが見ている目の前で、ニコラとダンテは夫婦劇を繰り広げる。まだ教会で式を挙げていないものの、シカトリスに住む面々にはもう二人の関係はわかっている。だから、店にいる客の多くは二人が抱き合っている方を向いて、楽しそうに囃し立てているのだった。

「おい、ニコラ、やっぱりおまえとダンテは良い仲だなあ。感動しちまったよ。ユリナ、こいつらに何か酒を出してやってくれ!」

「おっと、フレッドばかりずるいぞ、こっちからも!」

「なんだと、じゃあこっちもだ!」

 やいやい、と店は盛り上がる。今更ながら、ニコラとダンテは少しばかり照れていた。

 フレッドが「真ん中に来いよ、ニコラ」と声をかけた。ニコラとダンテはミシェルがいる手前、どうしようかと顔を見合わせる。

「いって来いよ、ニコラ」

「ありがとう……ありがとう、ミシェル」

 フレッドに連れられて店の真ん中に出ると、もう照れ隠しはせずに麦酒の入った木製のジョッキを掲げ、乾杯をしたのだった。

 それからもう、店は大騒ぎだった。

 レコードからは陽気な音楽が流れ、客たちは躍り、笑い、楽しんだ。

 夜が更けていく。楽しい、楽しい夜が更けていく。

 ミシェルはそんな店の片隅で、ゆっくりとワイングラスを傾ける。ニコラが寄せたサラミをつまんだりしながら。

「俺にも、あんな人ができて、祝われて、礼を言う日がくるのかな」

 ぽつり、と言葉が洩れる。悲しいような、寂しいような響きだ。

「ミシェル。あんたにもね、いつかできるんじゃない」

「ユリナさん」

「そんときは、この店で大いに騒いでちょうだいよ。歓迎だから」

 その言葉を受けても、ミシェルはどこか寂しそうな顔をしていて。

 こくり、と頷いて、店の真ん中へ顔を向けた。

 店の中は、まだ楽しいどんちゃん騒ぎが続いていた。

 夜が、ゆっくり、ゆっくり、更けていく――――



【数多の祝福――Fin.】


 

 


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