第24話 I know who you are

 帝都図書館。

 背の高い本棚の中に所狭し、ずらりと規律に従って並べられている。

 その中の一角に、ミシェルはいた。

「これ、かな」

 ミシェルのいる一角は、歴史、及び神話や国の起こりなどについての本が置いてある区画だ。

 難しそうな題に、分厚い背表紙。持ってみると重く、中の紙が痛まないようにと硬い表紙で装丁されている。

 ミシェルは丁寧に本の背表紙をなぞり、選定しては手に取る。ページを捲り、しばらく読んで、目的が満たされないことを確認すると、肩を落として本棚に戻す。

 そんな作業を黙々と、数時間にわたって行っていた。

 一方、ニコラはというと、この奥の会議室で仕事である考古学研究の学会に急遽、呼ばれ、そちらに出席している。

 つまるところ、ミシェルは半分が暇な状態で、半分を本当の目的であった調べものに浸っている状態にあった。

「ふぅ……流石に目が疲れたな」

 目頭を押し、疲れを緩和しようと試みる。何度か押さえると、涙の分泌が促されて、瞳が潤う感覚がした。

 もうひとつ、ミシェルはため息をついて、本棚の上の方にあったひときわ分厚い装丁の本を手に取る。その後、つま先の方向を変え、本棚と壁の間へと進んだ。そこには小さなアームチェアがあり、座って読書をすることができる。それに腰かけたミシェルは、手に取った分厚い神話書を紐解いた。

〈第一章 レーグルの起こりとは

 アルティザン古語における意味とは〈おきて〉というものがある。しかしこれは、レーグルが〈生きるものわれわれのおきて〉としてつけられた言葉であり、三部に分かれているレーグルには昔、別の名前が付けられていた。

 現在、シカトリス地方におけるレーグルはビリーオの一部とされていながらも、レーグルを特に強いものとして存在・信仰されている。

 福音書であるエヴァンジル、古事記とされるミトロジーに続き、作者である――――、――、~~~……〉

 そのあたりまで読んだところで、ミシェルは突如、猛烈な眠気に襲われた。どうやら、ここ数日の疲れが、静かな図書館という場所で落ち着けたことで、一気に出てきてしまったらしい。

「ったく、困ったな」

 ミシェルは後頭部を軽く掻き、左右に振ってみる。しかし眠気が覚める気配はない。

「仕方ないか、少しだけ……」

 そう言って、ミシェルは本を抱くようにして両手を組み合わせ、背もたれに体重をかけて目を閉じた。

 時間が、静かに流れていく――……



*****



 荘厳な建物だった。

 夢を見ているのだと、すぐにわかるほどの荘厳な建物だった。明晰夢だ、とミシェルはすぐに気が付いたのだが、今までこんな建物が夢に出てきたことはなかった。

 もともとミシェルはよく夢を見るほうだ。それはヴァレリアンのことだったり、自分のことだったり、友人や馴染みの客のことだったりするのだが、明晰夢のときだけは、不思議と〈何もない、もやのかかったような場所〉にいるのだ。

 明晰夢の中では、誰にも会わない。誰とも出会えない。そう、今までも――

(いや)

 一度だけ。一度だけ明晰夢で、誰かと話したことがあった。

 ミネの父親だ。

 死んだはずのミネの父親が、何故かミシェルの夢に出てきて、話をしたことがある。

 彼と出会ったのも、もやのかかった明晰夢の中だった。

「じゃあ、ここでも誰かと?」

 ミシェルはあたりを見渡す。荘厳な建物は、単なる建築物ではなく大きな門のようだった。装飾の施された大きな線対称になっている中心に、溝が――おそらく、反対側まで通じるだけの溝が――あるからだ。

「こんなものがあるなんて。今までの夢とは、少し違うのか」

 怪訝そうにミシェルは門を見上げる。その気配を察知したのか、重い音を立てて少しずつ門が開いていく。ミシェルから見て向こう側へ開いていく。

「通れ、ってことなのかな」

 門の向こうからは、眩しいほどの光がさしている。目を細めながら、ミシェルはその光の中に身を投じた。


 気が付けば、そこは見知った公園だった。

 ついこの間、ミシェルが藤棚を置き、柳を植えたあの公園だ。

 しかしその公園に藤棚も柳もなく、よく見れば置いてあるモニュメントも少しずつ様相が違う。ミシェルが知っているものよりも数段、新しいものに見えるし、欠けや錆びがみられない。

「ここ、は」

 知っている場所なのに、知らない時間軸。まるで、そう、あのとき――

「紫の薔薇の、子が言っていた時間……まだ、シカトリスじゃない、プレシュール?」

 あちこち、公園の中を歩き回ってみる。どこにもシカトリスの変名記念碑はない。

「やっぱり」

 ここは、過去のシカトリス――プレシュールの街だ。

「何で、こんなところに」

 ミシェルが戸惑いを隠せずに挙動をあやふやにしていると、突然、後ろから声をかけられた。

「おや、今日も詩を詠みに来てくれたのかい?」

「え、」

「あれ? ああ! すみません、人違いでしたか。いやぁ、あの方と髪の色が同じだったもので。つい」

「俺と同じ髪の色の人が、いるんですか」

「ええ、ええ! なんでも吟遊詩人を長くやって、街をあちこち回っているってんですって。面白い人ですよ。おっと、瞳の色もちょうど、あなたと同じだ。いやぁ、こんな偶然あるんですね」

「瞳、まで」

 自然と、ミシェルは自分の瞳の入る眼窩がんかを皮膚の上からそっとなぞる。あたたかい、人間の肌の感覚がした。

 この街はかつて、異教徒としてレーグル、ひいてはビリーオそのものを信仰する者を迫害していたとバズから聞いた。

 だが今、見ている光景では、少なくとも自分ではない〈堕天使〉は、迫害されていないようだ。

 何故だ? ここはラポカリトスを信仰する街として存在するのではなかったか?

 意識がミシェル自身の内に入りかけたとき、遠くの方で心地よい、楽器の音色が聞こえた。

 音がした方向を見ると、人だかりができている。その奥で楽器が鳴らされているらしく、さらに朗々とした声で、詩を詠んでいる声もした。

「あの場所に、誰かいるのか」

 ミシェルは好奇心を持って、人だかりに近づいた。その瞬間だった。

 踏み出した脚が、再び、門を通り抜けていた。

「え、なっ」

 荘厳な門は突如としてミシェルの前に現れ、空間を切り取ってミシェルだけをもやのかかったような夢の中へと引き戻した。

「何だよ、あの先に何かあるんじゃないのかよ!」

 ミシェルが大きな声で文句を言っているにも関わらず、門は重い音を立てて閉まっていく。やがて完全に閉じられると、楽しそうな人々の声や朗々と詠みあげる声も聞こえなくなった。

「はぁ、何なんだ、この夢は」


それはね


 は、っとした。

 どこか懐かしい、それなのに特徴をつかみきれない声。

 忘れてしまった、あの人の声。

「ヴァレリアン!」

 かつての自分の師匠せんせいだった、そしてミシェルの憧れだった、育ての親だったヴァレリアンの声だ。

 間違いない、とは言い切れない。はっきりと聞き取ることができないからだ。


ミシェル。きみに、遺したいものがあるからだ。


「ヴァレリアン、どこに、どこにいるんだ。姿を見せてくれよ、なあ」


ジークフリート先生にもう一度、会ってごらん。そこで、ぼくは待っている。


「そんな――」

 ミシェルはもやを必死にかき分ける。ヴァレリアンの、姿を見るために。どこにいるのか、声のようなものはすれども、全く姿が視えない。声も、聞こえるような、頭に勝手に流れてくるような、曖昧なものだ。


さあ、ミシェル。そろそろお目覚めの時間だよ。


「嫌だ、嫌だ、ヴァレリアン!」



*****


「……う、うう……」

「おおーい、ミシェル、ミシェルってば」

「……、…………」

 ミシェルは、珍しくニコラに寝姿を見せることになってしまった。しかし、今のところまだ、ミシェルは目を覚まさない。

 むしろ、眉間にしわを寄せて眠りから覚めるのを拒んでいるかのようだ。

「ミシェルってば、ねえ、風邪ひくよ。体調悪くするよ。もう、この後、デュルケム先生と会合があるってことを伝えたいだけなのになぁ。しかたないな、メモ書きを残そうかな。でもどこに置いていたら見つけるだろう。ああ、まったく。ミシェルったらこういうときばっか」

「は、あっ!」

「うわぁっ!」

 激しく、ミシェルは体を起こした。その拍子にニコラも声を出して身を引く。

 遠くにいた読書をしていた人たちの視線を集める。ニコラとミシェルは慌てて頭を軽く下げ、大声を出したことを詫びる。

「大丈夫? ミシェル。なんだかうなされていたみたいだったけれど。熱でもあるのかい、それともさっきの物乞いの子の影響かな、どちらにしても、先にホテルに戻ってもいいよ、僕はデュルケム先生との会合に顔を出さなくちゃならなくなっちゃって」

「え、あ、ああ……」

 まだ呆然としていたミシェルは、ニコラの言葉がほとんど頭に入ってきていなかった。

 夢を、見ていたはずだ。どんな夢だったかはっきりと覚えている。最後に、最後に聞こえたあの声は。

「ヴァレリアン」

 言葉を吐くと、その拍子にミシェルの紅い瞳から涙が流れた。透明な雫はすっと頬を滑る。

「わわ、本当にどうしたんだい、ミシェル。なんだか様子がおかしいよ。やっぱり熱でもあるんじゃないの、それにいきなりヴァレリアンさんのことって。何か、不思議な夢でも見ていたの」

「そう、だな」

 それしか言えなかった。ミシェルの中に、言葉が無いのだ。あの懐かしい声をもう一度、聞きたい。その切実な思いしか、心の中になかった。

「ところで、何か本を読んでいたのかな、ミシェル。なんだか、何も持っていなかったように見えるけど」

「ん、いや、腕の中に――あれ」

 腕の中にあるはずの、分厚い本が消えていた。貴重な本を落としてしまったのかと思い、焦ってアームチェアの周りを探す。いくら探しても、その本は見つからなかった。

「何でだ。俺はちゃんと本を」

「あーあ。僕がきちんと研究会に出席している間にミシェルはちゃんと調べものをしてくれているって信じていたのになぁ。そんなに疲れているなら、先に言ってくれたらよかったのに。幻の本を抱いて寝てもいいけれど、幻は読めないんだよ、ミシェル」

「いや、俺は本当に」

「いいから、いいから。とにかくミシェルはホテルに帰っていて。夕飯に間に合うように帰ってくるから、そのときは一緒にご飯を食べよう。疲れているからって小食になっちゃだめだよ、余計、体力をもっていかれちゃうから。さ、入口までは送るよ」

「ああ……」

 ミシェルはどうにも不思議な気持ちのまま、ニコラに連れられて帝都図書館の入口まで歩かされる。

 二階から一階に降り、入口に辿りつくまでには少し時間があり、その間もニコラはいつものように小言を並べ立てていたが、ミシェルにはこれっぽっちも響かなかった。

「でね、デュルケム先生ったら僕が研究室にいるってわかったらすぐに電話をかけてよこして、今行くから待っていろ、とにかく昔話から近況まで全部、話しまくってやるからなーって言っていて、って、ミシェル?」

「え、あ、ああ」

 入口からさしこむ日光を浴びて、ミシェルはようやく目が覚めたような心地を取り戻した。ここが図書館の入口だということを理解することに、数秒を要したが、すぐにいつもの調子を取り戻した。

「すまない。ちょっと不思議な夢を見て自分を忘れていたよ」

「まったく、ミシェルったら。でも珍しいね。よく誰かのために打ち込んで自分を見失うことはあるけれど、自分のことで自分を見失うなんて」

「ちょっと、な」

「話してよ、僕と君の中じゃないか」

「……夢の中で、ヴァレリアンの声がしたんだ」

「うん、それで」

「聞こえてきたのに。でも、その響きを忘れていて。頭に流れ込んでくるのに、捉えられなくて」

「うん、うん」

「それで、ジークフリート先生にまた、会えって言われたんだ。あれは、本当に夢だったのか?」

「わからない。少なくとも僕にはわからないよ。でもね、ミシェル。ヴァレリアンさんが出てきて、そして言葉を残したんだったらきっと、何か意図があるんだよ。だから今は休んで、明日の出発を少し遅らせて先生のところに行こう。それがいいよ。ね」

「そうだな、そうしようか。先生のところに、行こう」

「あ! でも今からは駄目だよ、ミシェルってばやっぱり顔色、悪いからね。今からはホテルに行って休むこと! ちゃんと水分とって、眠いなら眠っても構わないよ。夕飯が食べられなくても、何か用意してもらうから、安心して。さ、早くバスストップに行った行った!」

「わかったよ、もう大丈夫だ」

「そう? 本当に?」

「ああ」

 そしてミシェルは、ジャケットの下に隠すように持っていた黒のロザリオを握って、言った。

「どこかで、ヴァレリアンが見ているだろうから」

 今はそれだけが、ミシェルの心の支えだった。それを支えに、ミシェルはホテルに帰る道を辿る。

 ホテルに着いた頃には、アフタヌーンティーの時刻を過ぎているくらいだったが、何かを口にしようとは思わなかった。

 ジャケットも脱がずに、ミシェルはばたりとベッドに倒れこむ。

「あの本は、どうしたんだろう」

 読んでいたはずの本に、きっと自分の求めている情報はあった。そんな確信があった。

 けれど、見つけることができなかった。

 明日にはキャリエールを発つ。もう、探すことはできないだろう。

「はぁ。なんだかなぁ」

 ミシェルはそのままぼんやりと、考え事をしたりしなかったりして、夕刻までを過ごした。


*****


「あの子は、ミシェルっていうのか」

 暗い、暗い図書館の中。

 夜中の、一種の不気味さをはらんだ帝都図書館の一角。

 そこに神々しいような、銀の髪と紅い瞳を持つ人間が――否、がいた。

「まだ、君に会うのは少し早いかな」

 くすり、とその〈何か〉は笑う。

 ゆっくりと、夜は更けていく――


【あなたが誰だか知っている――fin.】

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