第23話 Circus
初夏のキャリエールは爽やかで、人々が街中を賑やかに往来する。
ニコラとミシェルはバスを降りて職人通りを過ぎ、学校前広場へと向かう。噴水の前には人だかりができていて、その中心には夜に開催されるサーカスの初公演の宣伝と称し、ちょっとした出し物が行われていた。
「わぁ、すごいよミシェル! こんなのシカトリスじゃ見れない」
「あんまりはしゃぐなよ。転ぶぞ」
「だって楽しいじゃないか、ほら」
ニコラはミシェルから離れ人だかりの中に身を埋める。あちこちから集まる人々に囲まれて、すぐにニコラが見えなくなった。
「おい、ニコラ」
「だいじょーぶー! 少し見たら行くよー!」
「そういう問題じゃ……ったく。あの調子なのは変わらないな」
ミシェルは大きなため息をついて、ニコラが消えていった人だかりから少し離れたところにある木陰に入り、サマージャケットの襟を直した。
「今日は暑くなりそうだな」
木陰越しに空を見ながら、ミシェルはひとりごちた。騒がしいとも違う、楽しさや驚きに満ちた声。見えないと騒ぐ子供を肩に乗せる父親や、見たいと駄々をこねられて根負けする母親など、人間模様も見受けられる。
シカトリスにはなかった光景を楽しみながら、ミシェルはニコラの帰りを待っていた。
時計の分針が四分の一周ほど動いたときだろうか。
「おにいさん」
突如として、ミシェルの後ろから幼い声がした。
何か、と振り向くと――そこには、褐色の肌をして、紅い瞳に銀色の髪を持った痩せ細った少年が立っていた。
「なにか、たべもの、ください」
きっと幼年学校どころか、まともに学んだことがないのだろう。片言の、国語として受け取るにはあまりにも幼稚な発音で、少年は言う。
「……お前、母親は?」
少年は、ミシェルの問いかけに黙ったまま横に首を振る。伸びきった銀の髪が揺れる。
「そう、か」
「たべもの、ください」
ミシェルと同じ紅い瞳で、少年は世界を見る。その世界が、酷く辛辣な世界だということを、ミシェルは知っている。
「――、これ」
精一杯のできること。ミシェルが今できる最大のことは、ポケットに入れていたキャンディと数枚の硬貨を手渡すことだけだった。
「本当は、お前を救いたい。でも、俺にはまだできない。ごめんよ、ごめん」
「?」
少年は、苦い顔をするミシェルを眺めて首をかしげる。ミシェルは押し黙って、少年の手に乗せたキャンディと硬貨を、ぐっと押し付けた。
ミシェルの行動に少年は少し戸惑った様子を見せたが、何か、動物的な本能で察したのだろう。少年は、ひとつ頭を下げてミシェルのもとを去った。
木陰の中が、いやに静かで涼しかった。それなのに、ミシェルの額には、薄っすらと汗がにじんでいた。それは良いものでない、と、ミシェルは自分でわかっていた。
(どうして、俺は、救えないんだ。俺には、まだ救えない――救っても、中途半端だ。どうして)
「ミシェル……、ミシェル!」
はっとしてミシェルが顔を上げると、目の前には心配そうにしているニコラの顔があった。
「大丈夫? なんだか顔色が悪いけれど」
「あ、ああ」
白く骨ばった自身の手で、ミシェルは額の汗を拭う。末端が冷えていて、少しだけ気分が落ち着いた。
「ちょっと、な」
「何か嫌なことでもあったの?」
「……俺の、髪と目が同じ色をしている子に会った」
「へえ、綺麗な子なのかな」
「いいや。物乞いをしていたみたいでな。俺から少し小遣いをやった。それしか、できなかったけど」
「ははぁ、それでそんなに沈んだ顔をしていたんだね、ミシェル」
「悪いかよ」
「悪くないけどさ。ミシェルは自分のことで手一杯なんだから、他の人に構っている場合じゃないでしょ。少なくとも、今は〈レーグルの主〉のことを探さないと」
「〈レーグルの主〉……」
ミシェルの脳内に、こびりつくベルナールの言葉。〈レーグルの主〉とは、何なのか。そしてミシェルを愛しているというのは、どういう意味なのか。
「本当だな。俺は、それを探さなくちゃいけない。誰かがそれを望んでいる気がするんだ」
「だったらなおさらだよ。ま、その前にカトリーヌ先生に会いに行かないといけないんだけど。ってことで、ほら!」
「ん? 何だ、この妙なもんは」
「異国で流行っているお守りのぬいぐるみなんだって! なかなかかわいいだろ、ミシェル」
ニコラが持っているその人形は、少し不気味だ。手縫いで作られているようだが、服も肌も継ぎ接ぎだらけでところどころ色が違い、毛糸の髪の毛も手入れがされていないようで、ぼさぼさだった。
「こんなの、カトリーヌ先生が喜んでくれるのか?」
「わからないだろ。意外と好きって言うかもしれないじゃないか」
「……ニコラ、お前が彼女と喧嘩する理由、俺にもなんとなくわかったかもしれない」
「ええ!? 何だよ、ミシェルまで。僕はこれでも、きちんとジェントルマンを通しているつもりなんだけれどなぁ」
「まあいいさ。行こう。資料を持って行かなくちゃなんだろ。忘れていないよな」
「うん、ちゃーんとここに……って、あれ? あれ?」
「おいおい、ホテルに戻るにはここからじゃ少し遠いぞ」
「えーっとえーっと、あ、あった!」
「心配させるな。お前、そういうとこだぞ」
「ごめんごめん。じゃ、行こうか」
そしてミシェルとニコラは、学校前広場の噴水を右手に見ながら大回りして、正門へと向かった。
正門に限らず、校内に入るには身分証明書が必要だ。それには主に有資格者免許証が使われる。
二人もまた同じように免許証で校内立ち入り許可をもらい、証明として「見学人」と書かれた腕章が貸し出された。
「わ、変わってないね」
「そうか? 少し庭師の腕が変わってる。生徒がやっているんだろうが……講師が変わったのかな」
「違うよ、あのときはミシェルがほとんど取り仕切ってやってたんじゃないか。講師なんていていないようなものだったよ。本当、きみってばワーカホリックにもほどがあるよ。この間も仕事が半休だっていうのに〈ここまで終わらせれば都合がいいから〉なんて言ってずーっと水仕事をしてたじゃないか」
「ん、あのときは仕方なかったんだよ。花が思ったよりも多く売れて、次の日のために動かす花を準備しなくちゃならなかったから」
「だからって、客人を置いてまでやることじゃないだろ。僕とかリュシオルのいる前でまでやらなくともさ。たまのお茶の時間なんだから、それくらい付き合ってくれたっていいでしょ」
「いや……うん……」
「あらあら? なんだか懐かしい顔ねえ」
ミシェルが説教を始めたニコラのことをどうしようか、と言葉を濁していると、明るく澄んだ声が二人の前から飛んできた。
「ミシェルくんにニコラくんじゃないの。懐かしいわねぇ。いったいどうしたの?」
「わぁ、カトリーヌ先生! お久しぶりです!」
「久しぶりです、先生」
「まあ、二人ともすっかり大きくなったわね。あなたたちの故郷はシカトリスだったわよね、キャリエールは遠かったでしょう」
「いえ、でも必要なことがあったので」
「必要なこと?」
「ええ、実は」
ミシェルが静かに、これまでの経緯を話す。カトリーヌは、ミシェルたちが知っているよりもほんの少しだけ顔にしわを刻んだ顔で、こくこくと小さく頷きながらしっかりと聞いた。
「そうだったのね、〈レーグルの主〉……聞いたことがないわ。誰か、先生を訪ねましょうか?」
「いえ、それは大丈夫です。一番、詳しそうな先生にもう聞きましたから」
「あらあら、じゃあジークフリートせんせのところに?」
「そうなんですよ! ジークフリート先生ってば、ミシェルのことをいつもいつも簡単に引っ張って行っちゃって。昨日もそうだったんですよ。〈この馬鹿弟子〉って言いながら、にこにこして連れて行って」
「うふふ、変わらないわね、あの人も」
突然、横から入ってきたニコラのことを意ともせず、カトリーヌは笑う。むしろ、こうして子供のようにはしゃいでいる二人を見て楽しんでいるようだ。
「ジークフリートせんせは、非常勤になったから……今は、楽しく過ごされているって聞いたけれど、本当だったのね」
「そうみたいです。俺のことを、昔と変わらない態度でもてなしてくれました」
「そうなのね、うん、うん。よかったわ。二人とも元気みたいだし。でも、こんなに背が伸びちゃ、簡単に撫でてあげられないわ」
言って、カトリーヌは手の平をひらひらと振って見せた。生徒だったときの当時、このあたたかい手の平に何回、救われただろう。ミシェルはそれを思い出すと、どこか目頭が熱くなるような感覚を覚えた。
「はは、もう子供じゃないんですよ、先生」
「うーん、どうにかして私もおっきくなれないかしら?」
「む、無理じゃないですか? 僕たちだってそんなに大きくなったってわけじゃないですよ。それにカトリーヌ先生が縮んじゃったわけでもないし。って、あー!」
ニコラの突然の叫びに、校庭にいた数人の生徒が振り返る。見たことのない人とカトリーヌが話している、と少し興味を持たれたが、カトリーヌが手を振ることで再び、もとの生活に戻っていった。
「うわ、何だよ。急に大きな声、出すな」
「ああ、ごめんごめん。これ、カトリーヌ先生とデュルケム先生に。バズ博士からです」
ニコラは、片手に持っていたアタッシュケースを掲げた。
「あらまあ! ありがとう、嬉しいわ。こういうの、やっぱり郵便じゃ味気ないものねえ」
「そうなんですよ、それに今回は量も多いし、僕がいた方がいいかもしれないってことで、直に届けに来たんです。で、ちょうどよくミシェルも帝都に行きたいっていう用事があったので、そのまま連れてきたんです」
「そうだったのねえ。キャリエールはどう? ミシェルくん」
「楽しいです。シカトリスでは見られない景色がたくさんあって」
「うふふ、ミシェルくんらしいわ、そのクールな感じ。今も同じなのね」
「そんなにクールですかね、俺」
「そうよ。感情をあんまり面に出さないんだもの。いい? ミシェルくん。感情はたくさん、外に出さないといけないの。感情を出すことで、人は生きていることを思い出すんだから」
その言葉は、ミシェルが学生の頃から何度も、聞かされた言葉だ。カトリーヌがする講和のレパートリーのひとつで、よく教科の前に話していた。
「感情を捨てるのは、生きるのをやめるのに等しいの。でも、そこに救いはないわ。たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん怒って、楽しんで、悲しんで、そしてまた笑いなさい」
そして、カトリーヌはミシェルが何度も見た、柔らかく朗らかな笑顔を浮かべた。
「――はい、カトリーヌ先生」
「ふふっ、懐かしいわねぇ。あなたたちにも、よくこの話、したわよね」
「そうですね。俺は、その言葉に生かされた気がします」
「ほんとかい、ミシェル? それにしては毎日ぶっきらぼうな返事ばっかりしていたような気がするけれど」
「む、ニコラが言えることかよ。俺と喧嘩した朝はふくれっ面してたくせに」
「なんだとー!」
「こらこら、やめなさい二人とも」
カトリーヌがその場を収める。
「まったく。わたしもだけど、あなたたちも変わってないのね。くすっ」
そうしてまた、カトリーヌは笑った。つられて、ミシェルたちの顔もほころぶ。
とりあえず、書類を渡すという使命を果たした二人はカトリーヌに別れを告げ、学校を去ることにした。
「もう行っちゃうの? 寂しいわ。ブランチでも一緒にと思ったのに」
そうカトリーヌは言ったが、ミシェルは行きたい場所があるから、と断った。
「この後、帝都図書館に行こうと思っているんです」
「ああ、調べものをするのね。それならあそこはもってつけだわ。気を付けてね」
「はーい! あ、デュルケム先生に、僕たちが午後五時まで図書館にいることを伝えてもらってもいいですか?」
「はいはい。わかったわよ。じゃあいってらっしゃいね」
ミシェルとニコラはカトリーヌに礼を言って、職人学校を去った。
続き向かうのは、帝都図書館だ。
アルティザン国内、首都キャリエールの中で一番大きな図書館。
そこに、何か手がかりがあると考えたのだ。
「さ、行こう」
ミシェルはニコラのことを軽く促し、正門をくぐった。
【物乞い――fin.】
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