第22話 Memory
朝食を終えた人々が、テラス席から部屋へと戻っていく。
「も、もういい……」
続々と引き上げていく人々の中、ミシェルとニコラは取り残されていた。
何故ならば、ニコラがミシェルに根気よく朝食をとらせていたためである。
「まったく、ミシェルは。いつまでもそんな風じゃ、大きくなれないよ!」
「もう俺もお前もいい大人だろうが」
「そうだけどさー。ミシェルは自分が痩せすぎなんだってことをもう少し自覚してよ。よく、そんなに食べずに身長が伸びたよね。僕よりあるんだもん」
「身長なんか特別、自慢するようなもんじゃないだろ」
ミシェルは右手でフォークをもてあそぶ。皿の上にはサラダが少しとパン・オ・ショコラが半分残っているだけだったが、ミシェルはもう食べることを諦めていた。
「仕方ないなぁ。はい、それちょうだい」
「……すまない、ありがとう」
ミシェルは食べられないということに大変な悲しみと、それを救ってくれるニコラへの感謝を口にして、皿を差し出した。
「いいよ。大丈夫。無理して食べてもおなか苦しくなるだけだもんね」
「そうやって理解してくれるとありがたいよ。カトリーヌ先生は怒ってばっかりだった」
「あはは、懐かしいなぁ。ほんとにそうだったよね」
◆
かつて、まだミシェルが職人学校に通っていた頃だ。
春になって専門職ごとに詳しく学科が分かれ始め、ミシェルは〈死体解剖〉の授業などに参加した。
その際、〈葬送技術歴史〉という学科も同時に履修し、そこで――ニコラと、ミシェルは出会った。
「ねえ、どうしたの」
それは何気ない、ニコラの一言だ。
あまりにも元気がない様子で毎日、学校に通っているミシェルを見かねての一言。自然と出た一言。
ミシェルはニコラから声をかけられたときも、死人のような、濁った瞳で世界を見ていた。
「え……」
「きみ、いつも元気なさそうだからさ。気になっていたんだ。ねえ、きみは何の職業に就きたくてこの授業を取ったの?」
「え、と」
もちろんのこと、ミシェルは戸惑った。自分のことをからかわず、むしろ尊重するように話しかけてくる生徒など、初めての存在だったからだ。
「俺は」
「あー! ごめんね、僕からきちんと最初に話すべきだね。ぼくはニコラ。この先、考古学者になりたいと思って、研究のためにこの授業を履修してるんだ。父さんとおじいちゃんが同じ考古学者だから、資格試験を受けるだけの技量はある、って見なされているんだけど、僕はきちんと学んでから仕事に就きたいから学校に通っているんだ。ねえ、きみは?」
「……俺は、葬儀屋になりたくて」
「え?」
ああ、いつも通りだ。ミシェルはすぐに察した。こう答えるだけで、普通の生徒なら不気味がって近づかなくなるか、あるいは馬鹿にしてくるかのどちらかの行動に出るのだ。
だが、ニコラは違った。
「すごい、良い目標じゃないか!」
「――?」
ニコラの反応は、ミシェルが考えているものと全く違うものだった。眼鏡の奥のまだ幼さの残る緑黄の瞳に笑みを浮かべて、はしゃぐようにミシェルにどんどん話しかける。
「きみは、僕とは反対のことを考えているみたいだけど、同じ授業なんだね。なんだか不思議だなあ。でも、考えてみれば同じ
「……うるさい」
「えっ、」
思わず発した言葉は、ミシェルの心からも反した言葉だった。何故、そんなことを言ってしまったのかわからない。けれど、とにかくニコラから離れたかった。近づかれたくなかった。
だから、言ってしまった。
すぐに後悔の念がミシェルの脳内を支配する。久々の優しさに触れた恐怖と、それを拒否してしまった後悔で、どうにかなってしまいそうだった。
結局、ミシェルが取った行動は、たった一人で教科書を持って教室を飛び出すというものだった。
廊下を走り去るミシェルの姿を、茫然とニコラは見て、少しだけ落ち込む。
「ニコラ」
「ジークフリート先生」
「大丈夫だよ。あの馬鹿弟子は適当に戻ってくるさ。それよりも、授業を始めようじゃないかい」
「でも」
「いいんだよ、馬鹿弟子は過去に囚われているだけだからね。向き合うのはそう簡単じゃない。だがね、ニコラ」
「はい、先生」
「お前さんみたいのがいれば、きっとあの馬鹿弟子は心を開く。どうか、世話を見てやってくれないかい」
「――! もちろんです、僕、頑張ります!」
「ありがとう。じゃあ、今日の授業はね」
ジークフリートは、切れ長の、女性にしては鋭すぎるような瞳でウインクをして言った。
「自習だ。好きなことして過ごしな」
その言葉を聞くなり、ニコラは笑顔を取り戻し、ミシェルの後を追った。
*****
「最低だ、俺」
校舎裏の隅。広い職人学校の敷地内でも、全くと言っていいほど人気が無く、かつ、ざわめきすらも届かない静かな場所だ。
ミシェルはそこで、ひとりうずくまり悲しみに暮れていた。
「俺は、あんなこと言いたいわけじゃなかったのに」
しとり、とミシェルの紅い瞳から雫が落ちる。春先の冷たい空気に触れてすぐに氷のような温度になって、ミシェルの制服の袖を濡らす。染みこんで、蒼い制服に深い藍色の模様を作る。
いくつか模様が重なったが、ミシェルの感情は変わらない。
太陽が指一本分、傾いた。曇っていた空がにわかに晴れ、校舎の影をくっきりとミシェルの頭の上に落とす。
暗い影の中に落ちて、ミシェルの姿はますます見えづらくなった。
――なのに。
「おおーい! ミシェル!」
「……さっきの」
ミシェルは聞き覚えのある声に、下に向けていた目線を上げた。
目線の先には、先ほどミシェルに声をかけてきた生徒。ニコラがいた。
「ミシェル? きみだよね、ミシェルだよね。よかった、見つけられて。はぁ、はぁ。思いっきり走り回ったから疲れちゃったよ。隣、いい?」
「あ、ああ」
「はぁ、よっこいしょっと。あーあー、疲れちゃった」
まるで年寄りのようなニコラの言いぐさに、ミシェルはくす、と少しだけ笑った。
「あ。あー! 今、笑ったでしょ!? 酷いなあ、きみのせいなんだよ。まあ確かにきみを追いかけたのは僕の勝手だけれど。でも、笑うことはないじゃない」
「だって。よっこいしょって、俺たちの歳で使うもんじゃないだろ」
「いいじゃない。大人の気持ちを理解するのも、ときには必要なことだ」
「大人の気持ち、ね……俺はあんまりわかりたくないや」
「どうして?」
「大人たちはみんな、ヴァレリアンの死を『仕方がないこと』で済ませようとするんだ。ヴァレリアンの身体が弱かったことも、流行病の強い症状でヴァレリアンを苦しめたことも。みんなみんな、俺のこともヴァレリアンのことも、嫌いなんだ」
「……ミシェル」
「だからな、俺はもう、誰かに心を開くってことはしないかもしれない。ヴァレリアンの稼業を継ぐなら、心を開かなくちゃダメなのはわかっている。だけど、でも……」
そこまで言って、ミシェルの瞳から再び涙が溢れた。
子供心ながらにわかっているのだ。自分が抱えている葛藤は二律背反であり、片方を諦めなければ何も解決しないのだと。そして、諦めるべきは心を閉ざすことだと。
「俺、俺……ヴァレリアンのこと、全然、知らないのに。たくさん優しくしてくれて、たくさん教えてくれて。足りないんだ。足りないんだよ。もっと知りたかった、死んでほしくなかった、もう、会えないなんて嫌だ」
「ミシェル、あのね」
「何だ?」
「まだ、会えるじゃないか」
「――遺体には、会える。ヴァレリアンの遺体は、ジークフリート先生がしっかりエンバーミングを施してくれた。だから、半永久的にあのまま――綺麗な、ままだ」
「だったらさ、もう会えないなんて言わないでよ」
「どうして」
「きっと見てくれているよ。それが
「見ていて、くれるのかな」
「そうだよ」
ミシェルの隣に座ったニコラは、俯いたミシェルの顔を覗き込むようにして目を合わせる。
「ねえ、ミシェルは将来、どんな仕事に就きたいの?」
「俺は」
やっと、そこで答えが出た。
ヴァレリアンは、ミシェルへ、最後にこう言い遺した。
『亡き者に、生きる者から最高の葬送を。自身から、生きる者には最高の花束を』
それが、ヴァレリアンからミシェルへの最後の
「俺は、え、と」
その遺言をどうニコラに伝えたものか、と思案しているときだった。
「あら、ふたりともどうしたのかしら、こんなところで」
ふわりとした髪に淡黄色のロングスカートワンピースを着た、カトリーヌが通りがかった。
「カトリーヌ先生こそ。もしかして、僕たちを探しに?」
「いいえ、そこに花壇があったはずだから、たまには様子を見に来なきゃって思って。って、あら?」
カトリーヌの目線の先には、季節の可憐な花々の薫る、煉瓦で囲まれた花壇があった。
「これ、誰が面倒を見てくれていたのかしら。勝手にこんなふうになる訳ないわ。いったい、どうしたのかしら」
「あの、俺が」
おずおずと、ミシェルが口を開く。あまり気にかけられていないこの花壇をミシェルはたまに面倒を見に来ていたのだ。
季節に合わせて剪定・植え替えをし、朝夕に囚われず水をやり、日当たりの良くない場所であるけれど、それを加味して花を選んで、植えていた。
「すごいわ、こんな技術、なかなか他の人は持っていないんじゃないかしら。少なくとも、わたしが見ているお花の授業の子たちよりも全然、技術が高い」
「ほんとだよ、ミシェル! どこでこんなこと覚えたのさ? 僕、こんなに綺麗な花壇、初めて見たかもしれない。ねえ、カトリーヌ先生」
「そうね、そうよね。ミシェルくん、自信を持っていいのよ。こんなに素晴らしい技術を持っているんだから、きっと素敵な花屋さんになれるわ」
「花屋、か」
ミシェルは、思う。ヴァレリアンがミシェルに決して見せなかった横顔を。見えていた横顔は、ヴァレリアンのほんの片面でしかない。もう一面を知るには、ヴァレリアンのもう一つの稼業に――
「俺、葬儀屋になりたいんだ」
なるしか、ない。そう思った。
「え? 葬儀屋って……死人の、葬送をする、あの葬儀屋?」
「大変よ、とっても。アルティザンでも十数人くらいしか資格を持っていないんじゃないかしら」
「それでも、俺は目指す。だって、ヴァレリアンが遺してくれた遺言があるから」
ぎゅ、と。制服の中に隠した、ミシェルの矮躯には似合わないほどに大きな黒いロザリオを握りしめた。服の上からでも、感触はよくわかる。
「絶対、絶対になってみせる。そして、ヴァレリアンの願いを叶えるんだ」
そう言ったミシェルの瞳には、もう、涙は無かった。代わりに、静かに、紅い瞳の奥にひそりと炎が灯った。
「うん――うん! ミシェル! いいことじゃないか! 僕も応援するよ。ちょっと、僕たちの間には仕事柄、相対する部分があるけれど、それでも仲良くしよう!」
「ああ。さっきは悪かったな。えっと……」
「ニコラウス。ニコラウス=アルベルシュタイン。僕の名前だ。ニコラって呼んでよ」
「わかったよ、ニコラ。俺の名前は――」
「ミシェル=アンダーグラウンドだろう。さっきちゃんと自己紹介してくれたじゃないか」
「そうだったか? もう、授業前のことなんか覚えていない」
「もう、そういうところだよ。もっとちゃんと人の言葉に耳を傾けなくちゃ。そうじゃないと、遺された人たちの言うことをしっかりと汲み取れないんだからね。僕とかミシェルはそのために死体系の研究技術授業を受けるわけで」
りぃん、ごぉん――……
ニコラが、大変、饒舌にミシェルに説教を垂れていると、遠くで予鈴が鳴った。
「あ、あーっ! どうしよう、早く教室に戻らなくっちゃ。次の時間は自習になんてしてもらえないよ。何せ、あの頑固なデュルケム先生だ。行こうミシェル」
「ああ!」
そして二人は、にこにこと微笑むカトリーヌを残し、本校舎へと走っていった。
二人はこの先、何年もに渡って付き合っていく、深い深い友情を築くことになる。
*****
市街を走るバスの車窓の外を見ながら、すっかり大人になったミシェルはぼんやりと思い出す。
カトリーヌに会ったら、あの花壇がどうなったか聞いてみよう。
そう、心に決めたのだった。
【思い出――fin.】
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