第21話 School

 その日、ミシェルの姿はジークフリートの家になかった。

 門限である夕刻を過ぎてもミシェルは職人学校から帰ってきていない。学校の寮に住む友人のところにでも遊びに行っているのかとも考えたが、その可能性は真っ先に消した。

「どうしたんだい、あの馬鹿弟子め」

 歯痒く、ジークフリートは親指の爪を噛む。痛むが、痛みを自身に与えることくらいでしか心を落ち着けることができなかった。

「仕方ない。探しに行こうかね」

 キャリエールの春先はまだ寒い。ジークフリートは厚手の黒いコートをひっかけて、夜の街へミシェルを探しに沈んでいった。



*****



 夜の街。夜の、倉庫街。

 職人学校から逃げるように出て行ったミシェルは、キャリエールの南を流れる大きな運河に接する倉庫街に身を置いていた。

 誰にも、会いたくなかった。否、ただ一人にしか、会いたくなかった。

「ヴァレリアン……」

 愛する、師匠せんせいの名前。そっと呼んだ、その名前。もう〈向こう〉にしかいない、二度と会えない師匠の名前。

「どうして……どうして……」

 ぼろぼろと、ミシェルの瞳から涙が零れる。体温に等しい温度の滴は、寒さに当たりすぐに熱を奪われ、冷たくなった。

 すっかり暗くなった倉庫街の片隅、倉庫の壁にもたれかかるようにして座り込む。膝を抱え、寒さをしのいだ。

 その間も、泣き続けていた。胸が痛み、悲しく、辛かった。何度も、どうして、どうして、と言葉を吐いた。

 返ってくるのは、風が吹きすさび鳴るもがり笛の音だけだ。

 一時間ほどだろうか。ミシェルは流石に泣き疲れ、顔を膝にうずめ、夜の闇の中に身を溶け込ませていた。

 制服の上に指定のコートを着ているが、ミシェルの身体はどんどんと冷えていく。命を削られる感覚。

「寒い……」

 どこかで、この感覚を持ったことがあった。どこだったか。いつだったか。ゆっくりと、思い出す。

「ああ、なんか――あの街にいたときみたいなんだ」

 エクリプセ。

 ミシェルの生まれ故郷であり、忌まわしき街。

 エクリプセの街に産まれ、物心つく前に顔も知らない親に見捨てられ、残飯と汚水を口にしながら辛うじて生きていた。冬は寒さに凍え、夏は酷暑に焼かれる。身に纏う襤褸ぼろれなど、役に立たない。本能的に死から逃げていたが、いつ死んでもおかしくなかった。

 良くない思い出しかない故郷のことを思うと、反吐が出そうだった。ヴァレリアンに出合った奇跡を思うと、苦しくなった。

 自分の人生は、果たしてこれで良かったのだろうか? ミシェルは何度も問いを反芻はんすうする。良かったという答えと、良くなかったという答えが幾度も頭の中を巡った。

 ヴァレリアンに遭うという、あの奇跡さえも――あってはならないことだったのではないか、とすら、思えた。

「そんなことない!」

 大きな声で、ミシェルは自分の嫌な感情を掻き消す。ヴァレリアンとの思い出まで否定するのは、ミシェルのことをずっと気にかけてくれたヴァレリアンへの冒涜だ。

「俺は、ヴァレリアンに会って幸せだった。ヴァレリアンと一緒にいて幸せだった。幸せ、だったんだ。今も――」

 ヴァレリアンに救われたこの命があることが、幸せなはずなのだ。それなのに、何故。

「なんで、こんなに、苦しいんだよ」

 またミシェルの真紅の瞳から涙が溢れる。痛みに支配されたミシェルの頭の中身を、心のあたたかさで必死に振り払う。それを、繰り返していたときだった。

「おぉい、なんか子供の声がしなかったか」

「おう。したなァ」

「…………?」

 誰かの低い声がした。男性二人組のようだ。足音が、少しずつミシェルの方へと近づいてくる。

 逃げようとしたが、冷え切ったミシェルの身体はうまく動かない。凍えた足を滑らせ、石造りの道へ身を転がす。

 凍った体のせいで逃げることのできないミシェルの前に、下卑た顔の男が二人、顔を出す。

「おおう、なんだかいい恰好のお坊ちゃんじゃねえの」

「お坊ちゃん? この髪の長さでか? まさかァ」

「うぅん? なんなら賭けるか? 俺は男だってのに賭けるね」

「じゃあ俺はお嬢ちゃんだってェのに……ん?」

 男のうち片方が、ミシェルの顔にランプを掲げた。あたたかいはずの光が、今のミシェルにとっては恐ろしいことこの上なかった。

「ひ、や、」

「おいおいおぉい、まさかだろぉ! まさか〈堕天使〉サマがこんなところにいるとはぁ!」

「ひェ、ほんとに紅い目だぜ、気味悪ィ……」

 男たちは、ミシェルの外見について散々に言う。その言葉はほとんど、ミシェルの耳に入ってこなかった。

 ミシェルが考えていることはひとつだけ。逃げること。

(にげなくちゃ、にげなくちゃ、にげなくちゃ――)

 思うほどに、足が冷えた石造りの道を滑って立ち上がることができない。奥歯が噛み合わない。がちがちと頭蓋に臼歯が打ち鳴らされる音が響く。幸い、その音が邪魔をして男たちの声が耳にあまり届かない。

「あぁあ、ちくしょう! こうなりゃ穴なら何でもいいんだよ!」

「え、あっ」

 細いミシェルの腕を男の一人が引っ掴んで、無理に吊り上げる。ミシェルの真紅の瞳が痛みに歪んだ。

「そうだなァ、その通りだ」

「だろぉ? だから、とっとと……って、脱がせにくいな、このっ」

「や、嫌だっ!」

 職人学校の冬季制服は、しっかりとした作りと生地で出来ている。そのため、脱がすのも破るのも至難の業のはずだ。

 しかし男は容易く制服と、その下のシャツまで破り捨て、ミシェルの肌を露わにした。嫌悪感に火照ったミシェルの肌に、空気が容赦なく刺さる。

「おっほ、きれいな肌してんじゃねえの」

「いいねェ。このまま犯して、あとはエクリプセの物好きどもに売りつけようぜ」

「当然よ。おっし、じゃあ、まずは……」

 ミシェルの腰のベルトに、手がかけられる。

 嫌なことをされる。何年もされてこなかった、あの、嫌なことを。そう、ミシェルが覚悟したところだった。


「ちょいと待ってくれないかい」


 冷えた空気に凛と響く、老齢の女性の声。

「せん、せい」

 街灯の下に立ち、顔の影を不気味に浮き上がらせた老人。――ジークフリートだった。

「よう馬鹿弟子。あんまりな恰好じゃないかい」

「あぁんだ、このババア」

「こっちはイイコトするとこなんだよォ、ちょっと眠ってなァ!」

 言いながら、男が拳を繰り出す。それを、ぱし、と軽い音を立ててジークフリートが手の平でいなす。

「悪いね。私の方こそこの馬鹿と話をしたいんだ。ちょいと黙っていておくれでないかい」

「お、おお」

 もう一人の男は、ジークフリートの威圧感に完全に気圧されている。そのため、ついミシェルのことを取り落とした。

「なあ、馬鹿弟子。あんたはヴァルと出会って何も感じることは無かったのかい」

「……そんなわけ、ない。だって、ヴァレリアンは」

「そう。あんたはきちんとヴァルの愛情を受けて育った」

「でも、ヴァレリアンと出会わなければ、俺は」

「そう。幸せを感じることが無かった代わりに、ヴァルの死に苛まれることもなかった」

「そうだ……苦しいも、悲しいも、辛いも……感じることは、なかったんだ」

「なら、拾われないほうがよかったかい」

「…………」

「だんまり決め込んでわからない振りかい。あんたはしっかりわかってんだろう」

「だけど、なら、どうしたらいいんだよ……こんなに辛くて、悲しいのは、どうしたらいいんだよ!」

「そんなの知らないね」

「なっ」

「知らないさ。あんたの心はあんたのものだ。だったら、私の出る幕はない。あんたが自分で結末を見つけるんだ」

「だって……」

「だがね」

「?」

「ヴァルは、あんたのことを大好きだった」

「……っ」

「ヴァルはあんたのことを愛していたし、同時に、あんたとともに苦しんでいた。苦しみもしたし、悲しみもした。あんたと同じ苦しみと悲しみを味わった。まるで、ひとつの宝石をふたつに割った、欠片どうしみたいにね」

「ヴァレリアン、が」

「決めな、馬鹿弟子。ヴァルとの幸せな思い出とともにこれから先も生きるのか、それとも――」


かちゃり、


 と。黒々とした深淵が、ミシェルに向けられた。それが銃口と呼ばれるものだということに、ミシェルはすぐに気が付いた。向けたのは、もちろんジークフリートだ。

「今ここで、全てを終わりにしてのか」

 視界が、歪んだ。ジークフリートが飾り付けるのは、死体だ。つまり今、ミシェルは死か生かを問われているのだ。

「勘違いするんじゃないよ、馬鹿弟子。あくまでも私はあんたが死にたいなら手伝ってやろうっていうんだ。あんたには選ぶ権利がある。この先、ヴァルの思い出を抱えて、苦しくても悲しくても生きるのか、それとも今、楽なになるのか」

「先生」


「選びな、ミシェル=アンダーグラウンド」


「あ……、」

 その姓は、ヴァレリアンにもらったもの。ただのミシェルだった汚らしい子供に与えられた、愛情のひとつ。

 ひとつだけではない。もっと、もっと、たくさんある。ミシェルには、ヴァレリアンにもらったものがたくさんある。

「あ――あ――あ……」

 巡る思いに、ミシェルの瞳から熱いものが溢れ、次々に地面を濡らした。肌にも滴が当たり、熱を感じた。

「俺……俺。ヴァレリアンのこと、裏切るところだった」

「ああ」

「俺。ヴァレリアンと出会えて幸せだった。あの幸せな時間を知っているのは、俺しかないのに、それを捨てようとしてた」

「ああ」

「俺――ヴァレリアンのことが、まだ、まだまだ、好きだ」

「ああ」

「先生。俺、まだ生きていたいよ」

「……ああ」

「俺、まだ生きてヴァレリアンのことを覚えていたいよ。ヴァレリアンのことをずっとずっと好きでいたいよ」

「ああ。それでいい」

「う、あ、うああああああ!!」

 思い切り、ミシェルは泣き出す。もう、思いを留めることができなかった。感情が、壊れてしまうほどに濁流となって頭の中を駆け巡っていた。愛おしい、という、たったひとつの感情が。

「いいよ。泣きな。よく頑張ったね」

 ジークフリートは銃を下ろし、自分のコートを脱いでミシェルの肩にかけた。

「寒かっただろう。家に帰ろう」

「うん。うん」

 そっと、ミシェルの身体をあたためるように抱きしめる。ジークフリートの腕は、どこかヴァレリアンに似ていた。

 ヴァレリアンにも、こんな頃があったのだろうか。寒さと感情の波で意識が薄れゆく中、ミシェルはそんな仄暗い思考をした。



*****



「そんなことも、あったっけな」

「何考えているんだ、ミシェル」

「ん、いや、何も」

「そう? ミシェルって何を考えているか、いっつもわからないや。まるでトカゲとかヘビみたい」

「殴るぞ」

「きゃー、やめてー」

「はぁ、ったく。ていうかニコラ、本当にこれ以上は喰えない。腹がいっぱいだ」

 ミシェルの前の皿には、まだオムレツが半分とサラダが少し、ベーコンが丸々残っていた。クロワッサンだけは食べたようで、千切ったときに出るパンくずがテーブルクロスの上にぽつぽつと落ちていた。

「もう、本当、そんなに食べないと早死にするよ。僕は友人を失うのは嫌なんだけどな」

「はは、そんなに心配しなくとも、仕事なり運動なりしてる分には食べているよ。安心しろ。むしろ、お前はよくそんなに朝から喰えるな」

「まあね。僕たち考古学者は身体が資本だから」

「そうかい。ま、しっかり喰ってくれ」

 ミシェルは、腹を落ち着けようとそっと、水滴のついたグラスを手に取る。中に入っている水はひんやりとしていて、口から喉に落とすととても心地良かった。

「そういや、お前とも長い付き合いだな」

「そうだね。職人学校以来かな。懐かしいねえ」

「そのあたりも、少し思い出しておきたいな」

「お? 珍しいこと言うじゃない。ミシェルは過去を振り返らない人なのかと思ってたよ、ヴァレリアンさんのことを除いてね」

「うるさい。俺が昔を懐かしんじゃ悪いかよ」

「いやいや、単に珍しいってだけだって。かりかりしないでよ、ね?」

 そう言って、ニコラはオレンジジュースを一口飲んで息を吐いた。その表情は若く、ミシェルと同じ年齢だとはとても思えない。

ミシェルと、ニコラの出会い。

 これもまた、深く、遠い思い出になる。



【学校――fin.】


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