第20話 Maestro
朝食はミシェルが普段、食べているものより何倍も豪華なものだった。
クロワッサンにパン・オ・ショコラ。それにショコラ・ショーとオレンジのジャム。塩気と甘みのバランスの良いポタージュスープ。黄金色のオムレツの隣には、かりりと焼かれたベーコンが脂を光らせている。スクエアディッシュの隅には、そっとサラダも添えてあった。
「……こんなに喰えない」
「またミシェルはそんなこと言うんだから。頼むからもっと食べて。朝はたくさん食べた方が、身体が目覚めていいんだよ?」
「そういってもな。クロワッサンとスープだけでいい。他は食えよ、ニコラ」
「だめ。オムレツとベーコンも食べなさい」
「はぁ。はいはいっと」
銀食器を動かし、ミシェルは少しずつ食事を口に運ぶ。
「ああそうだ」
唐突に、ニコラが口を開く。ミシェルは何事かと顔をあげた。
「カトリーヌ先生に会いに行こうよ。今日は丁度、土曜日だ。午後からなら、先生たちも暇だろうからさ」
「ええ!? 俺は先生に会っただけでもしんどいってのに、これ以上、古傷を抉られなきゃならないってのか」
「古傷なんて言うなよ。良い思い出じゃないか」
「俺にとっては古傷だよ。はーぁ」
深いため息を吐くと、ミシェルはショコラ・ショーの代わりに注文したコーヒーを一口、すすった。
思い返せば、職人学校に通い終わってからもう数年以上たっている。十数年かもしれない。
思い出話くらいなら……と、ミシェルが考えていると。
「あーっ!!」
ニコラが、大声を出した。
「どうしたんだよ、突然」
「忘れてた、バズ先輩の資料を職人学校に届けてって言われてたんだった!」
「おいおい、何でカトリーヌ先生のことは覚えていて仕事のことは忘れてるんだよ。俺たち、もう学生じゃないんだぜ?」
「あはは……本当にね。じゃ、今日の行先は決まりだね」
「職人学校、か。懐かしいな」
ミシェルはもう一口、コーヒーを飲む。
アルティザン国帝都の朝が終わっていく。
午後になる前に、と、ミシェルとニコラは職人学校に足を運んだ。
*****
ミシェルは、ほんの一時、帝都で暮らしていた頃があった。ヴァレリアンが亡くなって帝都キャリエールにあるジークフリートの家に引き取られたためだ。
ジークフリートはヴァレリアンの遺言通りに葬儀を行うと、ミシェルに仕度させて自宅へと連れ帰った。
ヴァレリアンがいなくなってすぐ、見知らぬ街に連れられてきたミシェルには不安しかなかった。
見たことのない景色。
情報過多の街並み。
冷たく硬い石畳しかない地面。
どこか狭苦しく感じる空。
それら全てが、まだ十五歳にも満たないミシェルの心を蝕んだ。やがて、ミシェルの顔からは自然と笑みが消えていった。
「どうしたもんかねえ、あんたは」
ジークフリートはミシェルのことを見て、毎日のようにそうこぼした。
「私ゃ、死体を美しく飾ることしかできやしないんだよ、ミシェル。なのにお前。職人学校にすら行きたがらないってどういうことだい」
「だって……俺には、ヴァレリアンの遺してくれた【Val-rose】があればいいもん」
「だからってねえ。ヴァルの跡を継ぐなら、どうしても職人学校に行かなくちゃならない理由があるんだよ。あの街、シカトリスでヴァルと同じ仕事をしようってんならね」
「どういうこと」
ミシェルは、そのとき初めてジークフリートの話に興味を持った。それまでは、ヴァレリアンの死を悼むことしかできなかったが、ヴァレリアンの名が出たことでやっと話に耳を貸すことができるようになった。
「そりゃあ、あんた。本当にあの馬鹿弟子から何も聞いていないんだねえ。こりゃ親子揃って馬鹿者だ」
「いいから、ヴァレリアンのこと教えてくれよ!」
「口を慎みな、小僧。死人に接する仕事に就く者として恥ずかしいよ」
「しびと、って、死んだ人のことだよな」
「そうさ。ヴァルはね、あんたの見せている【Val-rose】の裏稼業として、葬儀屋【Ung-rose】をやっていたんだ」
「アング、ロゼ」
思い返せば覚えがあった。毎日の依頼の手紙に紛れ込む、黒い封筒で届く依頼。それが、葬儀屋の依頼だったのだ。今、やっと合点がいった。
「あれは、葬儀屋の依頼だったのか」
「そういうこった。ヴァルは私のところで死体を飾る方法を身に着けて、何を思ったのかあんな辺境の街で暮らしたのさ」
「……婆さん。俺、ヴァレリアンみたいに暮らしたい」
「ふん。それで?」
「ヴァレリアンが、生まれた命から亡くなる命まで見守っていたんなら、俺も同じように暮らしたい」
ミシェルの瞳に、ゆっくりと静かな光が灯る。やっと見つけた、希望の光だ。
「だから、教えてくれ。ヴァレリアンに教えたみたいに、死人を送る方法を」
「はぁ。全く、仕方ないねえ」
ジークフリートはがしがし、と白髪を蓄えた後頭部を掻いて言った。
「私ゃ、厳しいよ。ヴァルだって音を上げかけたんだ。それでもやるってんのかい」
「ああ。俺は――ヴァレリアンの、遺志を継ぐ」
決意だった。確かなる心だった。ミシェルの中で、強く思うことだった。
数日後には、職人学校の中にミシェルの姿があった。
職人学校。
職人の国であるアルティザンにおいて、全ての始まりであると言って過言でない場所。
アルティザン国民は大方、それこそ貧困や特別な事情を除き多くの人間がここにあつまることとなる。
目的はいくつかある。大きなもののうち、ひとつは名前の通り〈職人〉として一人前になれるよう学問にはげみ、職人試験に合格することだこの試験に合格することで、やっと一人前の〈職人〉として職業に従事することができる。
特別な事情のうちひとつに、職人資格を持った人間の傍で、数年間の〈修行〉を積んだものは入学せずとも職人試験を受けられるというものがある。そのため、ミシェルは〈花屋〉としての職人試験は学科を取らずとも受験資格を有していた。
しかし、葬儀屋となると話が違う。
数ある職種の中でも特殊なものである葬儀屋は、まず志願者が少ない。ミシェルのほかに、数人しかその資格を志望する生徒はいなかった。
ジークフリートは葬儀屋を行う一方で、職人学校で講師としても働いていた。学校内でミシェルのことをよく見ていたが、やはりあまり外交的な性格ではない。
「どうも、ジークフリートせんせ」
「カトリーヌ先生。どうも」
「ミシェルくん、どうしましょうねえ。あの子、ホームルームも総合学習もあの調子なんですよ」
「さてね。私ゃ死体を飾ることしかできないんで、よくわかりませんよ」
「もう、いっつもそれなんですから」
「はっはは、仕方がないでしょう。事実なんですから」
二人は何気ない雑談を交える。だが、カトリーヌもジークフリートも内心、ミシェルのことが心配でならなかった。
ジークフリートにとっては二人目の弟子だとしても、ヴァレリアンとミシェルではだいぶ、タイプが違う。友好的で内外に朗らかな関係を持つヴァレリアンのことは、叱ることはあっても心配するようなことはほとんどなかった。
ミシェルは、真反対だ。
陰鬱な表情と、一部の地域で嫌われる銀髪に紅い瞳という容姿。悪魔とも堕天使とも言われるその容姿と表情で、友人たちからは遠く離れてしまっていた。
カトリーヌも同じ心配をしている。どうにかしてミシェルを、交友に加えたいと願うのだが、うまくいかない。状況は悪くなるばかりだ。
「どうしたらいいんでしょうねえ、エクリプセから来ている生徒も少なからずいますし、確か葬儀の授業を行うクラスにもエクリプセ出身の子がいたような……わたし、困っちゃいます」
「私もですよ。まあ、なんとかなるでしょう。いえ、なんとかできないと死人とは向き合えませんさ」
「そういうものなのでしょうか……」
「ええ」
そう言って、ジークフリートは遠く、校庭の隅で本を読むミシェルの姿を捉えた。
ミシェルはその会話を知らないが、否、知っていても、誰かと交友関係を持つことを考えていなかった。
勉学のために勉学に励み、職に就くために職業訓練をし、生きるために食事をして睡眠をとる。
まるで、生ける屍のようだった。
(別に、いい。俺はヴァレリアンの命だけが大事だったんだ。それなのに)
なくなってしまった命。
ミシェルの両手の隙間から零れ落ちていってしまった大事なものは、かき集めても、もう二度と同じ形に戻らない。
独り、感傷に耽る。二度と癒えることがないであろう傷に、塩がかかる。それを舐めとろうと必死になって、なお、染みる。ミシェルはこの数日、そんなことばかり繰り返していた。
「おい、見ろよ。あいつだぜ」
ミシェルが顔を上げると、ミシェルよりも年齢が上だろうと思われる、背の高い少年がミシェルを見下ろしていた。その周りには二人、取り巻きがいる。
「お前、何でこんなところにいるんだよ」
にやにやと笑う少年は、ミシェルのことを煽り立てるように言葉を連ねる。
「どーして〈堕天使〉サマがこんなところにいるんだ、おい。お前みたいな奴は穢れてるんだ、大人しく配管工にでもなったらどうだよ」
配管工、掃除屋、傭兵。この三つは、資格を取得しなくても従事できる仕事の代表格だ。中でも資格なしの配管工は、下水のような汚らしい場所を担当させられるため、仕事ができない人間の代表、侮蔑の言葉として使われることが多かった。
「なァ? そうだよなァ?」
背の高い少年は周りの少年たちに投げかけ、半笑いで周囲も同意する。
「お前みたいなのがいると、こっちまで穢れちまうんだ。地獄へ還れ、この堕天使!」
「わっ」
少年は叫ぶと同時にミシェルに向かって砂を蹴り上げた。ミシェルは思わず読んでいた本を取り落とし、目をふさぐ。
本は、図案が載っているページが開いた状態で砂の上に落ちた。それをみた背の高い少年はなお、声を張り上げる。
「うぇえ、気持ち悪い! こいつ、死体の本なんか読んでるぜ!」
ミシェルが読んでいた本は、エンバーミング――死体の保存処理についての本だ。内臓の処理、および処置に関してのページが開かれているため、図案はかなりショッキングなものである。
「やめろ、それは」
「こんなもんこうして――」
「やめなさーいっ!」
「うわ、カトリーヌだ」
「カトリーヌ〈先生〉でしょっ! 本やおともだちのことを悪く扱わないって約束したばっかりでしょー!」
「逃げろ逃げろー、うるせぇカトリーヌがきたぞー」
「行き遅れのカトリーヌ、あたまでっかちのカトリーヌ~」
「こらっ!」
「わー!」
カトリーヌの剣幕に少年たちは逃げていった。残されたのは、踏みつぶされかけて砂がページに乗った本と、顔に砂がかかって嫌そうな顔をしているミシェルだった。
「大丈夫、ミシェルくん」
「……平気」
「まったく、あの子たち。何でミシェルくんのことをあんなに構うのかしら」
「俺が、堕天使だから」
「ミシェルくん、それは」
「俺が穢れたものだから、本当はここにいちゃいけないんだ。ヴァレリアンがいたから、俺はこの世界にいられたのかもしれないけど、ヴァレリアンっていう神様みたいな人が許してくれたから、生きてこれたのかもしれないけど……でも、俺は。本当はここに」
「ミシェルくん!」
思わず、カトリーヌは大声を出した。ミシェルの独白に、耐えられなくなったのだ。
カトリーヌはハンカチを取り出して、ミシェルの顔を拭く。その間も、ミシェルの顔には一切の感情がない。
「俺はね、カトリーヌ先生。ヴァレリアンがいなくなったときが、俺がいなくなるときなんだって思ってた」
「うん、うん」
カトリーヌは、ミシェルの顔を丁寧に拭う。砂が落ち、青く透き通るような肌がはっきりと見えるようになる。その顔色に、生気は無い。
「でも、そうじゃなかった。俺は独りに戻るだけだった。家も、食べ物も、着る物もあるけど、また独りぼっちになっちゃった」
「うん」
「ヴァレリアンのところに逝きたい」
「ミシェル、くん」
「俺、ヴァレリアンのところに逝きたい」
「だめよ、それは、だめ」
「独りで生きるのも、穢れた存在でいるのもうんざりだ。俺は、もう」
「こら、この馬鹿弟子」
「……先生」
カトリーヌが飛び出していったのを見ていたジークフリートは、少し遅れてミシェルのもとへたどり着いた。
「お前。ヴァルのもとへ逝きたいなんてのがどんな意味を持ってるのか、わかってんのかい」
「ヴァレリアンのところに逝ったら、きっと、救われる。そんな気がする」
「ほう、そう思うのか」
「違うのか?」
「違うね。死人は飾られてなんぼだが憧れるもんじゃない。ましてなりたがるもんでもない」
「じゃあどうしろっていうんだよ! 俺は、何を糧に生きればいいんだよ!」
「それを考えるのが、今っていう時間だろう」
「――、もう、いい!」
「あっ、ミシェルくん!」
ミシェルは、その場から脱兎の如く逃げ出した。とにかく、逃げたかった。
目の前のものからも、この先に降りかかるであろう不幸からも、過去に幸せだった思い出からも。
その日の門限までに、ミシェルはジークフリートの家に帰ってこなかった。
ミシェルのほんの少しの心が、悪戯に人生を動かした。
【職人――fin.】
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