第19話 In the Night -inn-

 ヴァレリアンはその日、病床に臥せっていた。

 長引く高熱。顔が赤く火照り、毎時のように変えるタオルはいつもぬるくなってしまっている。

 世話をしているミシェルは不安そうに、ヴァレリアンの顔を覗き込む。

「ヴァレリアン。大丈夫なんだよね、元気になってくれるんだよね」

 そうミシェルが訊くと、決まってこう応えるのだ。


 大丈夫、すぐに良くなるよ。早く、店を開けよう。


 その度にミシェルはヴァレリアンの無事と回復を祈り、ヴァレリアンのあたたかな手を握る。ヴァレリアンは、ミシェルのまだ幼い手を握り返す。力は弱いものの、そこには確かな絆があった。


 ミシェル、あのね。


 ヴァレリアンは唐突に、ミシェルの方をはっきりと見て語りだす。それまで、熱に浮かされて朧気だった表情が、急に穏やかな泉のように微笑みを湛えた。


 ぼくはね。きみに会えてとても幸せだ。


「……? どうしたの、ヴァレリアン」


 伝えておかなくちゃ、ならないと思ってね。


「伝えるって、何を」


 ぼくが、君のことをどう思っているのかを。

 ぼくはね、ミシェル。ぼくは、君と出会ったことは運命だと思っている。これ以上ない、幸福に満ちた運命だと思っている。

 ミシェルと出会って、たくさん笑って、色んな経験をして――ぼく自身も、成長できたと思う。


「どうしたのさ、急に。そんなの、いつも思っていることじゃないか」


 言葉にするっていうことが、大事なんだよ。

 そうじゃないと、誰も覚えていてくれないから。記憶の中に消えていってしまうから。


「っ、故人ひとびとの、遺言ことば……」


 あはは、そう捉えられても仕方ないね。でも、そんなことにするつもりはないから安心して、ミシェル。

 いいかい。ぼくは君に出会えて幸せだ。とっても、とっても幸せだった。きっとこれからも変わらず、〈向こう〉で幸せを噛み締めながら過ごすんだと思う。


 そこまで言ったところで、ヴァレリアンは喉をひきつらせ、咳をした。痰の絡んだ、湿った咳だ。そんな咳が、もう一月以上も続いていた。

 ミシェルは心配のあまり、ヴァレリアンの手を包んでいた手に力を込める。

 切なさに似た焦燥感が、ミシェルの胸を焼いた。ヴァレリアンがいなくなってしまうかもしれない。その考えに至るのはもう数度目だ。

 ヴァレリアンは、ミシェルの不安を払拭するように手に力を入れて、言葉の続きを語る。


 ミシェル。どうか君も、幸せでいてほしい。どうか、どうかぼくのことを忘れて、愛する人を作って、ひとつの家庭を築いて……そんな風に、幸せな暮らしをしてほしい。

 ぼくが残せるものは、決して多くはないけれど、それでも役に立ててくれ。


「い、嫌だなぁ。ヴァレリアン。そんなの、本当に遺言みたいじゃないか。どうしてそんなことを言うんだよ」


 いつか、花は枯れるものだ。撒いた種は芽を出して蕾をつけ、花開いてやがて枯れる。

 その瞬間が来るまで、最後まで、愛でる。それがひとつの幸せだと、昔に教えたよね、ミシェル。


「うん。ヴァレリアンの、教えの一つだ」


 枯れた花さえも美しく飾り、一つの〈作品〉にしてくれる人が、いる。

 ぼくに何かがあったら、その人を頼りにして。

 ミシェル――愛する、ミシェル。愛おしいミシェル。どうか、どうか幸せで。


 言って、ヴァレリアンは幾度か咳をすると、再びぼんやりとした表情に戻った。黄金の瞳がやや濁ってしまったかのような、白い肌が蝋のように透けてしまうような、そんな儚げな姿。

「ヴァレリアン……」

 力の抜けた手。ぜえぜえと苦しそうな呼吸の音。

 もう、助からないのかもしれない。覚悟を決めようと、何度もしたけれど、どうしても揺らいでしまう。

 自分はどうなってもいい。ヴァレリアンが助かればいい。

 ああ、だがそんなことを考えてはヴァレリアンが悲しんでしまう。

 ジレンマの中にいるミシェルのもとに、ジークフリートは訪れる。

 それは――ヴァレリアンが――



******



 悪夢に、ミシェルは起こされる。ほのかに火照った身体が、貸寝間着をぐっしょりと濡らしていた。

「はぁ……やっぱり、あの人は苦手だ」

 となりのベッドを伺うと、ニコラが呑気に、そして高らかにいびきをかいている。

 ミシェルは身なりを整え、少し散歩をすることにした。

 部屋にこもっていると、どうしても考え事をしてしまうからだ。

 ミシェルはシャツとチノパンに着替え、サマージャケットに袖を通す。ニコラに散歩へ行くことをしたためたメモをテーブルに置いて、ドアを開けた。

 これから、人通りが多くなるのだろう。自分も、雑踏のひとつになるのだろう。

 今は、それでいい。

「愛する人は――いなくたって、いい」

 それもまた、人生なのだから。



【宿屋にて――fin.】


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