第18話 Have a reason
「はぁ……」
悲嘆がこもった大きなため息を吐いた。
ミシェルは大きなトランクを地面に置き、駅舎の壁にもたれかかっていた。そこで待ち合わせているのは、親友であるニコラだ。ニコラの遅刻癖はいつものことだったが、今日はことさらに遅い。暇を持て余していたミシェルは、これからの旅路を思ってため息を吐いたのだ。
「ジークフリートさんか。元気だろうな、あの人は」
だんだんと、日が昇る。薄暗く人通りが無かった街が、明かりと活気を取り戻して動き始める。その姿を見ながら、ミシェルは思案する。
(あの人に、レーグルのことを聞くのは間違っているだろうか)
思うのはジークフリートのことだ。ミシェルは正直なことを言ってジークフリートのことがあまり好きではなかった。恩師でこそあるものの、気性の荒いジークフリートに会うのはどうも、気が乗らないのだった。
「ごめんよ、ミシェル!」
革靴を鳴らして、ニコラがミシェルの待つ駅舎の一角に駆け込んできた。大きなリュックのせいもあってか、かなり息があがっている。
「はぁ、はぁ、はぁ……僕の心配性はどうにかしたいよ。鍵をかけたかとか財布を持ったかとか、気になることを何度も確かめるこの癖をね」
「無駄口はいいから、急ぐぞニコラ。もうすぐ汽車が出る」
「えっ、そんな。少し休ませて」
「そんな暇はお前が潰し切った。ほら、行くぞ」
そう言うとミシェルは地面に置いておいたトランクをひっつかみ、少し苛立った風に駅舎の奥、乗車場へと向かった。
「待ってよ、ミシェル!」
ニコラはまた息を荒くして、ミシェルのあとを追った。
*****
動き出した汽車の中で、ニコラとミシェルは箱席にそれぞれ向かい合って座り、自身の隣の席や足元に荷を置いた。ニコラはやっと一息つけるといった風に、さっそく水筒の水を飲んでいる。
「お前は能天気でいいな、ニコラ」
ミシェルの言葉に少しむっとしながら、ニコラは応える。
「何だよ、それ。ミシェルが苛立っているからって、僕に当たらないでほしいな」
「……悪い。そうは思っていなかった」
「まあ、いいけど。帝都は久しぶりだな。早く学会の聴講に行きたいよ」
「俺はやっぱり憂鬱だよ」
「そんなにかい?」
「ちょっとばかしな」
そこで言葉を切ると、ミシェルは窓枠に肘を置き、車窓から外を眺めた。
シカトリスから帝都キャリエールまでは遠い。その間、ミシェルはずっと憂鬱と戦うことになる。覚悟はしていたつもりだが、実際に戦ってみると精神的にかなり負担がかかることがわかった。
無言でいるミシェルを気遣ってか、ニコラは時々、菓子を差し出したり飲み物を分けたりなど、細かにミシェルの世話を見ていた。だが、ニコラも疲れていたのだろう。帝都までの道程を半分ほど過ぎたところで、ニコラはうとうとと船を漕ぎ始めた。
「いいよ、眠っておけ」
ミシェルがそう言うと、ニコラは眠たそうな目で頷き、ことりと眠り込んだ。
いよいよ一人になったミシェルは、己もまた日ごろの疲れが溜まっていることに気が付く。自分では疲れていない、無理もしていない、と思っていたのだが自分の意思とは反し、身体が濡れた布のように重い。
「俺も少し眠るか」
ミシェルは再び窓枠に肘を預け、目をつぶる。汽車の揺れが心地よい。数分と経たずに、ミシェルもまた眠りに誘われた。
*****
ミシェル。きみはどうして花屋になろうと思ったんだい。
燃えるような赤い髪をした青年が、ミシェルに問いかける。問われたミシェルは少しの間、照れるように黙り込んだが、意を決して言った。
「俺は、ヴァレリアンみたいに、人を笑顔にさせる仕事がしたいんだ」
それを聞いた赤い髪の青年、ヴァレリアンはにっこりと笑った。
とても良いことだね。ぼくも、この街の人が笑顔になるのが好きだ。
ヴァレリアンと同じ思いをしていると知り、ミシェルもまた笑顔になる。
花屋の仕事というものに、ミシェルは誇りを持っていた。花屋の見習いであるというだけで、そうヴァレリアンに紹介されるだけで、ミシェルの心は凛と前を向くのだ。
……でも、もうひとつの仕事をさせる訳には、いかないな。
それはヴァレリアンの口癖だった。ミシェルには理解の出来ない、隠された仕事。ヴァレリアンがその断片を見せるたびに、ミシェルはどこか寂しい気持ちになる。
「ヴァレリアンは、どうしてその仕事をしているの」
ミシェルは、純粋な気持ちで問いかける。ヴァレリアンの気持ちを知りたかったからだ。
その問いにヴァレリアンは少し寂し気な笑顔を浮かべて、答えるのだ。
誰かの涙を、拭いたいからだよ。
結局、ミシェルはヴァレリアンがどんな仕事をしているのか、何を隠しているのか、ほとんど知らないままだった。知らされないまま、ヴァレリアンは亡くなった。
そしてミシェルは、ジークフリートと出会うことになる――
*****
「キャリエール、キャリエール。終点です。お荷物をお忘れにならないよう、お気をつけください。ここは……」
車内放送で、ミシェルは目を覚ます。目の前にはよだれを垂らして眠りこけているニコラがいた。
「おい、ニコラ。下りるぞ」
「むにゃ……んん……この奥には何が……」
「こら、置いていくぞ。夢から覚めろ。この寝坊助」
ミシェルはニコラの肩をゆする。数十秒ゆらすとやっと目を覚ました。車掌に急かされて、汽車を飛び降りる。
「はあ。お前との旅が大変だったってことを今の今まで忘れていたよ、ニコラ」
「あはは、ごめんねミシェル」
二人は大通りを進む。シカトリスとは全く違う、大きく豪奢な造りの建物や様々な菓子が並んだ店、普段では目にしないような文具や道具が展示されている店、最先端の服が並んだ店などがいくつもひしめき合っている。
それらにニコラは一々目をとられ、その度に脚を止める。ミシェルはそんなニコラを急かすことはしなかった。自分もまた、久しく見るそれらに感動していたからだ。
午後になる前にミシェルとニコラは、手近に昼食が食べれるカフェに入った。時刻はまだ昼前だったが、カフェの中はそれなりに込み合っている。大きな荷物を持っている二人はテラス席を選んで座った。
「ミシェル、何を食べる?」
「そうだな……サンドイッチでも喰おうかな」
「またそんなもの食べて。好きだなぁ」
「いいだろ。手軽で美味くて」
「こういう洒落たところに来たんだから、もう少し良いもの食べればいいのに」
「はは、いいんだよ。喰いなれてるものの方が、今は胃に入れやすい」
程なくして料理が運ばれてくる。ミシェルにはローストビーフとクレソンのサンドイッチが、ニコラにはチーズとクリームソースがたっぷりとかかったクロックムシューとサラダが給仕された。
「うん、美味しい! いやぁ、さすが帝都のカフェなだけあるなぁ。これは今夜の食事にも期待が持てるね、ミシェル」
「ああ、まあな」
ミシェルはサンドイッチを前にしているにも関わらず、どこか上の空でアイスコーヒーの氷が溶けるのを見つめている。ニコラはミシェルの様子を見て、レモンスカッシュで口をすっきりさせてから話しかけた。
「ミシェル。そんなにジークフリートさんに会うのが嫌なのかい?」
「あまり気が乗らない。正直、あの人のことを頼るのは自分の力不足を認めるようなものだし、何よりもあの人が怖い」
「怖いって。良い人だと思うんだけどなぁ」
「あれは猫、被ってるんだよ。本当の姿は――」
「本当の姿は何だってんだい、ミシェル」
ミシェルは聞き覚えのある――否、聞き慣れてすぎて耳から離れなくなっている声が、した。
「その、声……まさか」
「そーだよ、私だ。ジークフリートだよミシェル。あんた、私のことなんて紹介の仕方しようってんだい、ええ?」
「ご、ごめんなさい先生!」
「ああ、ジークフリートさん。お久しぶりです」
「おや、ニコラの坊ちゃんじゃないか。久しぶりだねぇ。元気にやってるかい」
「はい。相変わらず」
「そうかそうか。それは良かった。それで、この馬鹿弟子はどうしてキャリエールに居るのか教えてくれないかい」
「ジークフリートさんに会いたくて、って言ってましたよ」
「おやそうなのかい。そいつぁ、嬉しいねぇ。ねえミシェル」
「う、うう……」
ミシェルは渋い顔をすると、ジークフリートの方を向いた。
年齢相応のしわが刻まれているものの、矍鑠とした面立ちと身の振る舞い。シックな意匠に身を包んで、凛と立っていた。
「久しぶり、先生」
「ああ、久しぶりだねぇ馬鹿弟子。一体、何しに来たんだい」
「ちょっと、まあ、あの」
「ニコラの坊ちゃん。ちょいとミシェルと二人になりたいから、食事を一緒にしたらこいつを攫ってもいいかい」
「ええ、もちろんですよ。それが目的でミシェルはキャリエールまで来たんですから」
「おい、ニコラ!」
「大丈夫、ミシェルの荷物なら僕が預かって、宿まで運んでおくからさ」
「おやおや、気が利く坊ちゃんだねぇ。ありがとう。さて、じゃあ礼にここは奢らせてもらおうかね」
そう言うと、ジークフリートは隣のテーブルから椅子を一脚、借りてきてどかりと座った。
「何だいミシェル。またそんな粗末なものを食べて。もっと喰いなと何度も教えたじゃないか」
「すみません、先生……」
「まあまあ、夕飯はしっかりと食べさせますから。ね、ミシェル」
結局その食事の間、ミシェルは小さくなってもそもそとサンドイッチを齧ることしかできなかった。
*****
「それで? 何しに来たって言うんだいミシェル」
「先生に、訊きたいことがあるんだ」
「私に応えられることなんて少ないよ。私ゃ、死体を綺麗に飾ることしか能がないんだからね」「それでも。あんたなら何か知ってると思って」
「そうかい。まあ馬鹿弟子なりに考えてこんなとこまで来たんだろう。座りな。茶のひとつも淹れてやる」
ミシェルは、ジークフリートの家の中に入る。あちこちに薬品棚が並び、その中には標本や何かに満たされた瓶が並ぶ。その雰囲気に懐かしさを覚えながら、ミシェルはジークフリートと共に居住空間である二階に上がりテーブルについた。
茶の入ったマグカップをミシェルの前に置くと、ジークフリートもまたテーブルにつく。
「で、何が訊きたいってんだ、この馬鹿弟子」
ミシェルは、押し黙る。
本当にこの人に訊いていいのか、と何度も逡巡する。
「口をぱくぱくさせて。あんたは魚なのかい。ちゃんと言いたいこと言いな。それが生きてる人間ってもんだろう」
そうまで言われても、ミシェルは沈んだ顔をしていた。だが、意を決して口を開く。
「レーグルの主を、知らないか」
ジークフリートは、その言葉に応える。
「知らん」
「え、先生も知らないのか?」
「そりゃそうだ。あんた、私が何を学んできたのか知らないのかい? 私が学んだことはレーグルだなんてもんじゃない。死体を綺麗にする方法だけさ」
「はぁ、そうだったな先生は」
「そうだったとは何だい。私はもともとそれしか知らないんだよ。レーグルだかなんだか知らんが、そんなもんは教養の足し程度にしか知らん」
「てことは、俺、無駄足なんじゃ」
ミシェルはあからさまに落胆する。今にも泣きだしてしまいそうな、幼い表情をしていた。
その表情を見て、ジークフリートはミシェルを自分のもとで世話を見ていた頃を思い出させた。
ひとつ、大きくため息をついてジークフリートは言う。
「そうかもしれんね。とにかく、それでも飲んで落ち着きな」
示したポットの中にはふわりと花が咲いたジャスミンが浮かんでいる。花の香りを閉じ込めたお茶を、ジークフリートがミシェルのカップに注いだ。
「菓子でも喰うかい。あんた、碌なもん喰ってないだろ」
「……ううん」
悲しそうな顔でミシェルは首を振る。
「なあ、先生」
「何だい」
「ヴァレリアンなら、もしかし――」
「やめな!」
突然の大声に、ミシェルはひるむ。
「死人の話なんかしたって埒が明かんよ。ヴァルはもういないんだ。あいつに何か教えてもらおうなんて、今更考えても無駄なんだよ」
「そ、っか」
とうとう、ミシェルは瞳から一筋、雫を落とした。泣き声を飲み込むかのように、ジャスミンのお茶を喉に流し込む。
「……先生」
「わかってるよ。どうせ諦めないとか言い出すんだろう」
「うん。俺、ヴァレリアンやレーグルのこと、もっと調べる。調べて、自分なりに考える。俺がレーグルの主に愛されている、って意味を」
「そう言うと思ったよ。ほれ」
ジークフリートは投げやりに言うと、財布の中から一切れの紙片を出して言った。
「これは?」
「私の信頼証書さ。私があんたを信用したという証拠さね。これを帝都図書館に持っていきな」
「…………! ありがとう、先生!」
紙片を受け取って、ミシェルはやっと笑顔を取り戻す。やはり、その表情に幼い頃の面影が残っている。ジークフリートは、ミシェルの笑顔を見てやっとうなずいた。
「そうだね。お前はそうやって笑ってる方がいい。その方が、ヴァルだって喜ぶだろうしね」
「うん、うん。本当にありがとう、先生」
「いいってことよ。さ、クッキーのひとつもつまみな。あれからお前がどんな花屋になって――どんな葬儀屋になったのか、聞かせておくれ」
*****
ミシェルが帰ったあと、テーブルを片付けたジークフリートは椅子に座り考え事をしていた。
「ヴァル……あの子は、あんたが寄越した手紙の通りかもしれないねえ」
月明かりが、窓から差し込んで床を照らす。そこには、ミシェルの白銀の髪が一筋、煌めいていた。
「白銀の髪に深紅の瞳、か」
ジークフリートは、考える。何をもって、ミシェルの幸せと成すのかを。
理由はある。それは。
「本当に、あの子は主ってのに愛されてるんだねえ」
月明かりが陰る。ジークフリートのつぶやきが闇に消える。
ミシェルは、まだ主に愛される理由を――知らないのだった。
【理由がある――fin.】
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます