第8話 Deep Blue
湿っていて、ほんの少し黴臭い。
光源はなく、暗闇がその空間を支配する。
そこに、かつん、と硬い靴底の音が響いた。
部屋に光源が現れ――【葬儀屋 Ung-rose】の店主、ミシェル・アンダーグラウンドが顔を出した。
布がかけられたふたつの台と、空っぽのひとつの台。そしてその奥にある、事務机代わりに使っている大理石の台がひとつ。
ミシェルは大理石の台に手に持っていた電池式のランプを置いて、部屋を見渡して入り口側にある台――その台には、布がかけれられている――それに近づき、大きく息を吐いた。
ばさり
そこには、暗い部屋の中でもありありと解るほどの赤と、紅と、黒と、肉の色に支配された死体があった。
布の一部には血が糸のように絡みつき、台からはこぼれかけの、指だったはずの肉片がぶらりと下がっている。
一目見ては人間だとは解らないが、端々のパーツがこの死体が人間のものであることを
語っていた。
血に混じる脂の匂いと腐敗臭が、ミシェルの肺を犯した。
それに動じることなく、ミシェルはゆっくりと死体を観察する。
髪の色、肌の色、瞳の色、壊れてしまったパーツの形……。
それぞれに特徴を見出して個々に採寸していく。
暗がりの中でボードの上の紙にペンを走らせて、ミシェルは生前そうだったことに間違いないサイズを導き出し、洋服のオーダーシートに記入した。
「これで、よし」
びり、と複写式になっている洋服のオーダーシートを一枚、はがし、大理石の机の上に置いた。
続いて、大仰な細工がなされた作業箱を机の上に出す。
ミシェルがいつものように箱の中身を覗き込むと、いくつもの注射器や糸と針、腐敗防止用の薬剤などが並んで見えた。
「……ヴァレリアン」
ひとこと、愛する故人の名を呼んだ。
そしてその箱の中に、ミシェルは手を入れて――
シカトリスの街をきらきらと朝日が照らすある日、軽快なノックの音がミシェルの店である【花屋 Michele-rose】に転がった。
いつもならばここで、眠たそうな顔に隈を作ったミシェルが出てきて、手間賃の駄菓子をくれる。そういう、決まった一日の始まり方をしていた。
しかし、今日は一向にミシェルが出てこない。
イヴェールはもう一度、ノックをして声をかけた。
「ミシェルさん、イヴェールです。今日のお手伝いにきました」
それでも、返事はない。
イヴェールがそっとドアノブに手をかけると、鍵が開いていたようで、軽い手ごたえとともに扉が開いた。
ほんの少し、冷たい空気がイヴェールの頬に触れる。その奥の事務机に、ミシェルは陽光に銀の髪を晒して突っ伏し、うたた寝をしていた。
「本当に、綺麗な髪だなぁ……」
その美しさにややためらいながらも、イヴェールはミシェルの肩を揺らした。
「ミシェルさん、もうすぐ九時ですよ。朝です」
「ん……」
その声に、ミシェルは少し身じろぎをしてから瞼(まぶた)を開く。紅(あか)い瞳が、イヴェールの姿を捉える。続いて、カレンダーの印に目をやった。
途端、がたん! とミシェルは勢いよく飛び起きた。
「まずい、仕事が!」
「わ、ちょっ、ミシェルさん落ち着いて」
「っ、イヴェール?」
「大丈夫ですよ、今日は――」
イヴェールはカレンダーの左端、日曜日であることを示す赤色の文字を指でさした。
「…………はぁ」
赤色の文字と日付を確認すると、ミシェルは力なくもといた黒い革張りの椅子に深く座り込んだ。
眠たそうに目頭をもみほぐし、二、三度頭を振る。
「ほら、ミシェルさん。今日は待っている人がいるでしょう」
「ああ、うん。そうだな。リリィのところに行かなきゃならん」
「店番は任されましたから、ふたりでゆっくりしてきてください。ね」
「そうだな。そうさせてもらうよ」
ミシェルは長身に似合う、ゆったりとした動作で椅子から立ち上がり、ポールに掛けてあった濃紺のサマージャケットを羽織り、少し袖をまくってから、共布のハットを頭に乗せた。
イヴェールはというと、せっせと店の看板を表に出し、ミシェルに習った花の世話をしていた。しかし。
「あ、あれ」
イヴェールは今日の配達分の花束の用意をしていて、リボンの結び方を誤ってしまう。絡まってしまうことを恐れ、動けなくなっていると――
「大丈夫」
イヴェールの、黒い薄手の皮手袋に包まれた大きな手が、イヴェールの両手を包んだ。
「これは、こうするんだ」
そのまま器用に、ミシェルはイヴェールの細い指を操って可憐なリボン飾りを作り上げた。
「わぁ、ありがとうございます、ミシェルさん!」
「お安い御用だ。それじゃあ、出てくる。店を頼んだ」
「はいっ」
ひらりと手を振って、ひとつ花束を持ってミシェルは店を出ていった。
コレーヌ川沿いの道を、川をさかのぼるように辿っていく。
目的地は、孤児院、教会、そしてそれらに併設された病院だ。ミシェルの待ち人は、シカトリスに唯一、入院施設があるその病院の一室に居た。
ノックをせずに、ミシェルはそっと扉を開けた。
部屋の住人はドアに背を向けて、ひとつだけある窓の外をのんびりと眺めていた。
「何、見てるんだい、リリィ」
「ミシェル。まったく、遅かったじゃない」
「悪かったよ……いい天気だなぁ。何も見ていなくても、気持ちが良い」
「ふふ、そうね」
晴天の空を、ツバメが高く駆けていき、リリィの碧い眼がそれを追う。初夏の風が、二人の頬を撫でた。
「ヴァレリアンも、ミシェルも、私のこと本当によく面倒みてくれるね」
「まぁな。俺も師匠もこの街と、その住人が好きだ。リリィ、お前に限らず、みんなが好きだよ」
「それでも、こうやって毎週、花を届けてくれる。それが、私には嬉しくてならないの」
「そうか」
「……ヴァレリアンにも、もうすぐ会えるかしら」
「さぁ、な」
それだけぶっきらぼうに言うと、ミシェルはリリィの白金の髪が飾る頭をやや乱暴に撫でた。
「きゃっ、もう、子ども扱いしないでよー!」
「ははっ、七つならまだまだ子供だろ」
二人の姿は、まるで――仲の良い、兄妹のように見えた。
ひとしきり話をしたら、いつものようにミシェルが持ってきた花束を花瓶に生ける。
今日も、蒼い薔薇の花が瓶に生けられた。
ミシェルが持ってくる花束にはいつも、この蒼い薔薇が使われていた。
青薔薇の中でも最も高価な品種『エスポワール』
だが、ミシェルの願う奇跡の対価としては安すぎるくらいだった。
ことり、と硬い音を立ててその花瓶が白いベッドの隣の棚に置かれる。
それが終わると、ミシェルはリノリウムの床をわたり、窓辺に座るリリィのもとへ向かった。
「気分はどうだ」
「んー、イマイチ」
「調子悪いのか」
「今日は、胸が痛いの。いつもみたいに踊れなくって困っちゃう」
「まったく、病人なんだから大人しくしてろってのに」
「いいの! わたしはいつか、誰もが憧れるプリマ・バレリーナになるんだもん」
「お前さんなぁ」
ミシェルが説教を始めようとすると、やや乱暴に部屋の扉がノックされ、豊満な身体の看護婦が入ってきた。
「はいはい、リリィちゃん。もう診察の時間よ。ミシェルさんもいつもありがとね」
「どうも、ミセス・セルマン。リリィのこと、よく診てやってください」
軽く挨拶を済ませると、ミシェルはベッドの傍らに置いてあった、折り畳みのイスに掛けてある自分の濃紺のサマージャケットを手に取り、リリィの方を振り返った。
「じゃあな、リリィ。また明日来るよ」
「またね、ミシェル」
名残りおしそうなリリィの顔に後ろ髪を引かれながらも、ミシェルは病院をあとにした。
「あと何回、リリィの笑顔を見られるかな――」
夕陽が、ミシェルの銀の髪を照らす。紅い双眸(そうぼう)はその色を増し、コレーヌ川からつながる港町を、さらに向こうの水平線に沈みゆく太陽を見つめていた。
ヴァレリアンが生きている頃から数えて、七年。
そのうち、ヴァレリアンを亡くしてからは三年。
その時間の歩みの速さに、喜びと不安を抱く。
「リリィ、お前は今、痛くないだろうか。辛くないだろうか。……寂しく、無いだろうか」
孤児院にリリィが捨てられていた時のことを思い出す。訳も分からず、寂しさのあまりに泣き叫ぶ赤ん坊。それだけでなく、ときおり激しく咳き込んで苦痛の表情を作っていたリリィは、すぐに病院に運ばれて、心臓に疾患があると診断が出た。
長くは生きられないだろうと、医者から宣告されている。
誰にもリリィを救えない。その悔しさを、薄い皮手袋の中にぎゅっと握って……夕闇に街が落ちる頃、ミシェルは店への帰路についた。
◆
からり。
グラスの中に入った大きな氷の端が溶けだし、グラスの中でゆったりと回転して音を立てた。
注がれた琥珀色の液体は上等なウィスキーだ。濃厚な香りが、湿っぽい空気に混じる。
ミシェルは地下の葬儀屋の仕事場でそれを傾けて、ウィスキーをそっと飲み込む。
この行為は亡き師匠、Valerian=Undergroundへの餞であり、自分の心の整理の時間でもある。
日曜の夜は、これがミシェルの日課だった。
休みであることを示すかのように、いつもの仕事着ではなく、フランクに襟元を開けた、薄青のシャツ姿だ。
「ヴァレリアン。リリィの笑顔は今日も可愛かったよ」
蒼く透けるほど白い肌を薄っすら赤く染めながら、ミシェルはヴァレリアンが眠る棺に語り掛ける。
「……美人になったよ、リリィは。若くして死んじまうなんて、まるで考えられないほどに元気だ」
ミシェルはまるでそこにヴァレリアンがいるように語る。
「どうして、人は死ぬのかな」
人の、誰もが抱く疑問。
それを素直にミシェルは口に出す。リラックスしたミシェルの緩んだ顔に、ほんの少しだけ苦渋の表情が混じる。
花屋としてのミシェルの仕事。葬儀屋としてのミシェルの仕事。それは愛する故人、ヴァレリアンの遺言で続けられている。
『亡き者に、生きる者から最高の葬送を。自身から、生きる者には最高の花束を』
その遺言がミシェルの生きる志となり、枷にもなっている。
人の死と向き合うことが、ミシェルにとっては恐怖の対象にもなり得た。それが知らない人間だったとしても、見知った顔でも、二度と覚めない眠りにつくその姿に、哀しみに、いつか耐えられなくなるのではないかと――ずっと、思っている。
そしてそれは、今日とて同じなのだった。
「はぁ……少し、飲みすぎたか」
ミシェルはラタンの椅子にもたれかかり、グラスを傍らに置いた。それと同時に、花屋に置いてある電話のベルが大きな音を立てる。
「何だ? こんな遅くに……」
時刻はすでに、午後十時半を回っていた。花屋への用事であれば、当然だがこんな時間に電話は入らない。葬儀屋への用事であっても、滅多にあることではない。
誰か、大人物が死んだのか。そう思い、酔った身体を引きずって階段を上る。
少しだけ汗をかいた額から前髪をかき上げながら、ミシェルは受話器を取った。
「はい、アンダーグラウンドですが……」
『ミシェルさん! 早く来てちょうだい、お願い早く!』
電話の主は、ミセス・セルマンのようだ。その声には恐慌に陥った、悲痛な感情が強く乗っている。
その瞬間、ミシェルは全てを悟った。
『リリィちゃんが……リリィちゃんが危篤なのよ! 早く来て!』
ミシェルはその言葉が聞こえたか否か定かではないほどに乱暴に受話器を置き、濃紺のサマージャケットをひっかけて脱兎のごとく駆けだした。
夜の、まだ冷え込む川沿いをさかのぼるように辿る。もはや酒の酔いなど覚めていた。ただひたすらに、心臓が許す限りの急ぎ足で走り、リリィの元へ行くことだけを考える。
「間に合え――間に合え!」
宵闇に、叫びは消えていく。
病院に着くと、リリィの病室の周りだけに煌々と明かりが灯されていた。しかし、部屋の中にこそ居るものの、医者も看護婦もリリィの傍には居なかった。ただ、各々部屋の隅で固まり、その瞬間が来ることを受け入れようとしていた。
「リリィ!」
ミシェルは、飛びつくようにリリィが横たわるベッドに近寄った。
その声に、リリィはぜえ、と喘鳴を上げながらもミシェルの顔を視界に入れる。
「み、しぇる」
「リリィ、大丈夫か、おい!」
「ごめん、ね、わたし……っは、もう、だめな、のかも」
「――――っ」
「ふふ……ヴァレリ、アン、に……会いに、いける」
「そんなとこ行かなくていい、師匠なんか放っておけ! お前は、お前には夢があるんだろ?!」
プリマ・バレリーナになりたい。その夢を、何度も語ってくれた。
今も、その答えを返してくれる。そう信じて、ミシェルはそう言った。
だが。
「…………そんなの、ないよ」
「え……?」
「わたし、ずっと、……苦しくて、痛くて……そんなのに、なれないなんて、わかってた……だけど、そう言うと、ミシェルも、ヴァレリア、ンも、笑うから……嬉しくて」
「そんな、リリィ」
「もう嫌だったの……胸が痛いの、も、苦しいの、も……これで、やっと」
「リ、リィ」
すぅ、と。リリィの碧い瞳から光が無くなっていく。濁り、瞳孔が開いていく。
「楽に、なれるんだね」
瞼が、リリィの視界を、世界を閉ざしていく。
「リリィ――」
ぎゅっと、崩れていく体温を離したくないと、ミシェルはリリィの小さな手を握る自身の両手に力をこめる。
しかし、それも虚しい行為に終わる。
「わたしの、遺言、きいて?」
「ああ……」
「また……毎週、日曜日に、ね。お花、ちょうだい……お願い」
「ああ、約束する」
最後の瞬間が、迫る。
リリィの華奢な身体から、肩から、肘から、力が失われていくのがありありと解った。
「ばいばい、ミシェル……向こうで、待ってる」
そして、心拍計の単調な断末魔。
リリィの瞳は完全に閉ざされて、二度と開くことが無い。
その事実を受け入れられず、呆然とした表情でミシェルは心拍計の音を聞いた。
ありえない。否定したい。だが――事実は、変えられない。
瞬間、ミシェルの表情が悲しみに歪んだ。
「う……あ、ああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
残酷な夜を、ミシェルの悲鳴が、慟哭が切り裂いていく。
花瓶に生けられた蒼い薔薇。
『エスポワール』……『希望』の名を持つ蒼い薔薇から一枚、花びらが落ちて、散った。
叶わなかった奇跡を、嘆くように。
【奇跡を願って――fin】
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