第14話 Be trust

 午前九時を告げる鐘の音が、いつものようにシカトリスの街に響く。

 それを聞いて、ミシェルは店の表にかかる薄い石のプレートを【CLOSE】から【OPEN】に返し、開店の合図とする。

 ほどなくして、通りは日用品を買い求めに川沿いの商店街にやってくる人々で埋め尽くされた。

 雑踏を背にして、ミシェルは花の世話を続ける。人々の中には【Michele-rose】へ花を買いに来る者もいた。

 日常。

 平穏な日常がそこにはあった。

 朝、店の前に並べたミニブーケのいくつかが売れていき、何本かの薔薇やダリアなどの季節の花が売れていった。

 昼の休憩時になって、ミシェルはようやくひと心地ついた。

 昼食は、いつものように簡素なパンを使ったサンドイッチだ。今日、選んだ具材はスモークサーモンとクリームチーズ、それと少しの野菜だ。

「いただきます」

 祈りを捧げ、それを口にする。食べながら、午後と週末のことを考えた。

 あといくつブーケを作ろうか、明後日の日曜日にはどんな花を持っていこうか、蒼い薔薇の在庫はあっただろうか、白い菊をそろそろ取り寄せておいた方が良いだろうか……ミシェルの頭の中は、仕事のことでいっぱいだ。

「ごちそうさまでした」

 ミシェルはサンドイッチを残さず食べ、水をグラスに半分ほど飲んだ。

「さて、仕事に……ん?」

 一時の鐘が鳴るまでに、考えていたブーケを作ろうと立ち上がったミシェルの耳に、子供たちが無邪気に笑い合いながら店に近づいてくる声が届いた。

「ミシェルさーん」

「ミシェルのおっちゃん、今日もサンドイッチか?」

「こんにちは、ミシェルさん……」

「アンネ、クライヴ。それにミネも」

 三人の子供たちは、開け放たれた【Michelel-rose】の入り口から事務机のある店の奥まで入ってきて、ミシェルに青い、小さな花を見せた。

「ねえねえミシェルさん。わたしたちこんなお花みつけたんだけど、これってなんていうお花?」

「ミシェルのおっちゃんならわかるだろ?」

 アンネとクライヴが矢継ぎ早に質問を投げかける。少し控えめな性格のミネも、ミシェルの方を期待した目で見ていた。

「これは、ランゲフィールドだな」

「どんな、お花……?」

 ミネが小さな声で訊く。

「シナから渡ってきた野草だ。青い清らかな色をしているだろう、だからシナでは〈瑠璃ルリ唐草カラクサ〉って呼ばれている。瑠璃、ってのはシナの言葉でガラスとか、青い宝石って意味を表してる」

「きれいななまえだね」

「そうだな。花言葉は〈信頼〉だったかな」

「しんらい……って、どういういみ……?」

「誰かのことを信じて頼る、とか、絶対に信じるっていう意味だよ、ミネ」

「へぇ、やっぱミシェルはすげぇや。オレたちが知らないこと、いっぱい知ってるもんな」

「はは、褒めてもらって嬉しいよ」

 言いながら、アンネとクライヴは弾けるような笑顔をミシェルに見せる。その中でひとり、ミネだけが暗い顔をしていた。

「どうした?」

「あのね、おとうさんが……かえってこないの……」

「ミネのお父さん、か」

 ミシェルはその言葉に顔を曇らせた。しばらく前に、傭兵であるミネの父はティーグル国とレオバルド王国の領地争いの戦争に巻き込まれ、戦死していたからだ。【Michele-rose】に葬儀の依頼がきていて、彼の好きな花を棺に納めたことを覚えている。

 そのとき、まだミネは幼かった。物心付く前にミネの父は戦死したので、死んだということを理解していないのだろう。

「おかあさんにきいても……いつか、かえってくるよ……って、いって、わかんないの……」

 ミネの母は心の病気を患っており、ミネの父の死というものをうまく伝えられていない、とミシェルは聞いたことがあった。

 故に、ミネは今でも亡き父の帰りを待っているのだろう。

「なあ、ミシェルはなんか知らないか?」

「ミネのおとうさんのこと、なんでもいいの」

「俺の知っていることか」

 ミシェルは逡巡したが、ミネの心を痛めることに罪悪感を覚えた。今はまだ、知らせるべきじゃない。そう判断したミシェルは

「ごめんな、俺は知らない」

 と、小さな嘘をついた。

「そっかぁ……」

「でも、ひとつおまじないをかけてやることはできる」

「……なぁに?」

「ちょっと待ってな」

 ミシェルは一度、事務机の隣にある大きな本棚から、横倒しにしてある何冊かの本の一番下のものを取り出してきて、机の上に広げた。何枚かページをめくり、その中から一輪の押し花を取り出した。

 花の色止めを施し、可憐な青さを残したランゲフィールドの押し花だ。ミシェルはそれを半透明の紙の筒に入れて糊付けし、青いリボンを結んで栞を作った。

「ほら、これで〈信頼〉の気持ちをいつでも持っていられる。お父さんのこと、信じていてあげな」

「わぁ……ありがとう、ミシェルさん……」

「よかったね、ミネちゃん!」

「ミシェル、ありがとう!」

「どういたしまして。こんなことくらいしか、俺にはできないからな」

「うれしい……おとうさん、かえってくるまで、しんじてるね……」

「ああ、そうしたらいい」

 遠くから、午後一時を告げる鐘が鳴った。そろそろミシェルも休憩を終わりにして、本業に戻らなくてはならない時間だ。

「さ、俺は仕事だ。お前たちはまた公園ででも遊んでな」

「はぁい!」

「じゃあな、ミシェルのおっちゃん」

「ばいばい……」

 そうして三人は、仲良く店を出ていった。

 少女たちを見送ったミシェルは、ミネについた小さな嘘が、心に棘となって残っていることに気が付いた。

「いつか、真実を知るときがくるのに」

 ぎゅ、っと。ミシェルはシャツの中にしまった、ヴァレリアンの遺した黒いロザリオを握りしめた。

「どうしたらいいんだろう、ヴァレリアン」

 どうしてか、涙がこぼれそうになった。

 そんなミシェルを慰めるかのように、店に初夏の風が吹き込んでミシェルの頬を撫でた。



 昼が過ぎれば、夜になる。

 日常を過ごしていればそうであるように、ミシェルは当然、空腹を覚えて厨房に立った。

 夕飯は羊のナヴァランを作り、夕方に届けてもらったパンとともに食べた。夕飯には具材を多く食べ、明日の朝にはスープとして食べようと思って多めに作った。

 シャワーを浴び、寝間着に着替えると今日の疲れをベッドに沈み込ませるかのように横になった。

「――――ヴァレリアン」

 思うのは、亡き育ての父のこと。この花屋を遺し、『副業』を覚えさせ、今も地下の作業場に眠るヴァレリアンのこと。

「俺は、あのとき本当はどうするべきだったのかな」

 目に見えぬ何かに語り掛けるように、ミシェルは虚空に向かって呟く。

 小さな嘘が、嘘という棘が、ミシェルの胸を刺す。

「誰かの答えが欲しいよ」

 誰にも届かない言葉を、ミシェルは呟く。

 やがて、どこからか睡魔がやってきた。目を閉じると暗闇が広がる。ほどなくして、ミシェルは深い眠りへと落ちていった。



 ミシェルはどこか、知らない空間にいた。

 もやのかかった、穏やかな空間。夢を見ているのだということに、だんだんと気が付いた。

「明晰夢、ね」

 自分がはっきりと夢を見ているという自覚のある、夢。最近になって、ミシェルはそんな夢を見ることが多くなっていた。

「今日は何を見るのかな」

 あたりをぐるりと見渡す。すると、もやの中に人影があるのを見つけた。臆することなく、ミシェルはその人影に近づいていく。

「お久しぶりです、ミシェルさん」

「あなたは――」

 人影の正体は、ミネの父だった。

「娘が世話になったみたいで、お礼を言いたくて」

「そんな。でも、あなたは亡くなったはずじゃ」

「そうなんですよねえ。でも、何ででしょう、神様の悪戯というかなんというか、偶然こうして夢の中に出てきてしまいました」

 偶然。悪戯。

 ミシェルは口の中で言葉を繰り返す。けれど、ミシェルの夢にミネの父が出てくる意味がよくわからない。

 そんなことを考えていると、続けてミネの父は口をひらいた。

「可哀想なことをしたと思っています。娘を残して戦死してしまうだなんて。こんなことなら、きちんと職業学校に通っておけばよかった、なんて後悔をしてしまいますよ」

「ミネは……娘さんは、良い子に育っていますよ。今日も、あなたの帰りを待っていました」

「ははは、可愛いなぁ。本当に良く出来た娘だと思います」

 他愛もない雑談が、夢の中で交わされる。明晰夢だとしても、とても奇妙だ。

 死んだはずの人間と、意識を持って会話を交わす。ミシェルはこの夢がどんな意味を持つのか、まだわからない。

「実はね。神様みたいな人に会ったんですよ」

「神様、というと?」

「ほら、レーグルにはこんな伝説があるじゃないですか。すべての戒律や掟を作ったのは、一人の吟遊詩人だって。その人に出会ったんです。もちろん、死後の世界で」

 その言葉に、ミシェルは目を見開く。

「そんなこと、あるんですか」

「ええ。でも驚きましたよ。丁度、ミシェルさんみたいに銀の髪に紅い瞳の人でした。その人が、ちょっと贈り物をしてあげる、なんて言って、こうして夢に出てくることを許してくれたんですから」

 一間置いて、ミネの父は続ける。

「ミネの夢の中にも、もちろん行くつもりでいます。でも、まずはミシェルさんにお礼を言いたくて」

「どうしてですか」

「ミネに、信じさせてくれたでしょう」

「あなたが、帰ってくると」

「そうです。それにお礼を言いたくて。あの子はまだ小さい。死というものを理解するには、少し幼すぎる気がするんです。まして、戦争なんてものを知る必要は、まだありません」

「それで」

「それで、ですよ。ミシェルさん。ミネのことをいつも面倒見てくださってありがとうございます。そして、これからもよろしくお願いします」

 そう言って、ミネの父はひとつ頭を下げ、ミシェルに両手で握手を求めた。ミシェルが握り返すと、死体の温度の無い手ではなく、血の通った人間のあたたかさが伝わった。

「では、そろそろ失礼します。ミネのところにも行かなくては」

 もうひとつ、ミネの父は頭を下げる。ミシェルに背を向けると、しっかりとした足取りでもやの中に消えていった。

「こんなこと、あるんだな」

 一人になったミシェルは、もやの中に消えていくミネの父を見送る。

 ほんの少し、めまいがした。ここで明晰夢が終わるのだ、と、なんとなくミシェルは思った。そう思った通り、ミシェルの視界は暗転し、夢は終わった。



 午前九時の鐘が鳴る。

 昨日の夢のことをはっきりと覚えていたミシェルは、あるものを用意していた。日が暮れてから、そこに行こうと思って用意したものだ。

「これで弔いになればいいな」

 ミシェルは用意した花を見る。

「『故人ひとには敬いを捧げよ。さすれば、汝らに思いは還る』か」

 明晰夢の内容を思い出し、レーグルの言葉を口に出す。

 ミネの父は言った。神様はいると。もしもそんな存在がいるのであれば。

「俺の夢にも、ヴァレリアンが出てきてくれないもんかね」

 小さな望みが、ミシェルの心に生まれた。

 気を取り直し、ミシェルは仕事に戻る。夢に対してひっかかっていたため、少し作業が遅れ気味だった。

 ミニブーケがまだ店頭に並びきっていない。ミシェルは季節の花を束ね、次々と美麗な花束を作っていった。

「ミシェルさーん!」

 ミニブーケを作っていたミシェルが手を止めて、声のした方を見ると、昨日も来た三人組の子供たちが人込みをかき分けながら走ってやってきた。

「どうした、お前たち」

「あのねあのね、ミネちゃん、お父さんに会えたの!」

「!」

 ミシェルは思い出す。

〈ミネのところにも行かなければ〉

 そう、ミネの父は夢の中で言っていた。

「おとうさん……教会のうらの、石の中にいるよって……おしえてくれた……」

「ミシェルのおっちゃん、だからミネのとうちゃんにあげる花、くれよ!」

「そうか……」

 ミネは、父に会えたのだ。

 もしも神様が本当に叶えた願いなら、なんと幸せなものなのだろうか。そう考えると、ミシェルの顔には自然と笑顔が浮かんだ。

「ふふ、よかったな。ちょっと待ってろ」

 今日の日付は六月の五日。ミネの父の誕生日であり――ダリアの誕生花の日でもある。

 ミシェルは店を閉めたあとに、ミネの父の墓に供えに行こうと思っていた、オレンジ色のダリアをメインに使った小さな花束を店の奥から出してきた。

「ほら、これでいいか」

「わぁ……きれい……おとうさん、よろこぶよ……」

「お代は銅貨三枚ってとこかな。それならお前さんたちでも出せるだろ」

「うん!」

 三人は、一枚ずつ銅貨を出し合って花束を受け取った。

「それじゃあ、お父さんによろしくね、ミネ」

「わかった……ありがとう、ミシェルさん……」

「行こうぜ、ミネ」

「ミシェルさん、ばいばーい」

 ミシェルに別れを告げると、三人ははしゃぎ声をあげながら、また雑踏の中を駆けていった。

 三人の声が聞こえなくなったところで、ミシェルは手元に目を落とす。ミニブーケに使おうと思っていた赤いダリアが、作業台の上に並んでいた。

 赤いダリアには、思い出がある。ヴァレリアンに種をもらって、初めて咲かせた花なのだ。

「ヴァレリアン。俺も、いつかあんたに会えるかな」

 浮かんだ涙を濡れた手でぬぐって、ミシェルは前を向く。

「ミシェルさんや、花を包んでくれるかい」

「はい、今すぐ」

 店の外から聞こえる声に応える。

 この店を守っていれば、いつかヴァレリアンに会える。そんな気がする。

 そう信じて、ミシェルは今日も店に立つ。


【信頼――fin.】

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