第4話 Red,Red,Red,Red……Black
「おーい、ミシェル!」
元気そうな少年の声が、ミシェルの耳に届く。
店の上手側から走ってきたその少年は、息を切らせながらも一直線にミシェルの元までやってきて、硬貨を差し出してこう言った。
「いつもの、たのむよ!」
少年はキャスケットを脱いで汗をぬぐい、再びかぶり直した。
「今日もお前さんは元気だな、ミディ」
「へへ、それだけがおれの『とりえ』だからな」
ミシェルはミディが差し出した二枚の銅貨を受け取ると、店の中に用意しておいた、薄紅色の包装紙に一本だけ包まれた深紅の薔薇を手にして、ミディへ手渡した。
「ほらよ。またあの子か?」
「とうぜん! あの子はいつか、おれの『こいびと』になるんだ。ぜったい、ぜったいだ」
「そうかそうか。おし、頑張れよ」
「おうっ」
言葉と共に、ミシェルはミディの背中をぱしんと軽くたたいて、応援の気持ちを伝える。するとまた、ミディはもと来た道を走って帰っていくのだった。
その光景を、少し離れたところでイヴェールの翡翠の瞳が見ていた。
「あの、ミシェルさん」
「ん、イヴェールか。どうした、依頼か?」
「いえ、今日はお花を買いに来ただけなんですけど。あのミディって子……あんまり評判良くないですよ」
「ああ、知ってる」
「知ってるなら、どうして」
「知っているけどな。それでも、可能性が無いわけじゃない。ほんの少しだけでも、心を伝えたい。その気持ちを、俺は痛いほどよく解るんだ。……はは、副業のせいかな」
そう言って、ミシェルは少しだけ苦い顔で笑った。
「あの子、まだレディ・エメロードに恋してるんですね」
「仕方ないさ、町一番の美人なご令嬢だからな」
「また、あの薔薇を渡すんでしょうね」
「……いつか、届くといいな」
◆
「レディ・エメロード!」
ミディが、おつきの者とともに、優雅な仕草で金糸の髪を揺らしながら道を歩くエメロードに声を掛ける。ミディを近づけまいと身構えた体格の良いおつきの男を、エメロードは白い手の平で制した。
「御機嫌よう、ミディ。またあたくしにお花を?」
「そうだよ、これ」
大切に抱えていた、ミシェルの店で買った紅薔薇。あまりにも大切に抱えすぎて、その花びらは少しくたびれてしまっている。
それはエメロードの金の瞳にも、その通りに映った。
だが、そんなことを気にしないエメロードは、穏やかな微笑みを浮かべ、その薔薇を受け取る。
「ありがとう、ミディ。もうこれで何本目になるかしらね」
「ふふふ、すごいぞ。きょうで『九九本目』だ!」
「まぁ、すごい」
その数に、偽りはなかった。毎日、ミシェルが数を勘定し、薄紅色の包装紙の端に何本目の薔薇になるのか書いていたからだ。
「これで、花言葉は『永遠の愛』になったわね」
「『けっこん』まであとすこしだな」
「そうね……」
エメロードは、その先の残酷な言葉を飲み込むように、静かに口をつぐんだ。
「エメロードはこれから、また教会か?」
「ええ。神父様とお兄様のところへお祈りに」
「そうか、じゃあ遊ぶのは『またこんど』だな」
「ごめんなさいね、毎回」
「いいんだ! おれも『しごと』があるからな。じゃないと、花をかえなくなっちゃう」
とん、と、ミディはかかとを鳴らして敬礼をしてみせる。
駅舎の石炭運びに唯一できる、最上のあいさつだ。
「それじゃあな、エメロード。おれも『しごと』にいってくる」
「またね、ミスター・ミディ。明日も会えることを願っているわ」
ひらり、とエメロードは白い手の平をミディに見せて振り、微笑む。ミディもエメロードに大きく手を振って、その場を後にした。
ミディの背中が曲がり角に消えるとすぐに、おつきの男がエメロードに声をかけた。
「レディ・エメロード。彼は……」
「わかっています。ほら、いつものようにしたらいいのよ」
そうして、エメロードは名残惜しそうな顔をして、それでもおざなりに花を男に手渡した。
「そうして、あたくしの運命までも奪ったらいいのだわ。この心が枯れるまで。それが、お兄様の
「それがこの街、シカトリスの掟です、レディ。亡き者の遺志に祈り、敬意を払わねば」
「わかっていると言っているでしょうっ!」
シカトリスの、ある掟。
『亡き者に敬意を払い、最後の願いである
他にも幾つか、シカトリスには亡者に関する奇妙な習慣がある。それは今まで、ある者を救いある者を絶望させてきた。
そして、レディ・エメロードにとってそれは、絶望のようなものだった。
「お兄様が言ったのだから、仕方がないわ。あたくしはサー・アメティストと結婚する。それが掟なのでしょう。わかっている、わかっているからもう責めないで頂戴」
言葉を吐き捨てると、エメロードはかつかつと革靴を鳴らし、目的の場所に歩き始めた。胸を張り、気丈に振る舞うその姿には、悲しみは欠片も見えない。だが、心には思い通りにならない悲しみと、心を裏切らざるを得ない痛みに苛まれているのだろう。
金色の大きな瞳の端には――うっすらと、涙が浮かんでいた。
何回、革靴は鳴らされただろうか。やがてエメロードはおつきの男とともに教会へたどり着く。
大きな扉は開け放たれ、祈祷台がいくつも並べられた教会内は天井の高さも相まって、エメロードにはとても巨大に思えた。
いつか、兄が死んだ年頃にでもなればこの巨大さが失われてしまうのかと思うと、残念な気持ちになる。
聖なる物語を紡ぐステンドグラスの光が照らす祈祷台のひとつにひざまずき、エメロードは神と亡者への祈りの言葉を口にする。
「『亡き者と神へ、
頭を垂れて、エメロードは静かに祈る。……恨みも込めて。
どうして自分は自由になれないのか。
どうして自分は己の心に従えないのか。
兄に、恨みを込めて祈る。
「『
祈りを受け入れてくれるならば、自由を。
命を見守ってくれるならば、自由を。
「『どうか、この祈りが届きますよう、願います』」
――届かないと解りきっている願いを、エメロードはひたすら心の内で繰り返した。
もうこの場所で何度、繰り返したことだろう。
エメロードの疲れ切った心は、枯れかけていた。
そっと立ち上がり、黙とうをしていたおつきの男と目線を合わせる。帰ろう、と祈祷台を降りようとしたところだった。
「おや……レディ・エメロード」
「……ミスター・ミシェル」
エメロードが目をやると、大きな花束を右手に、黒い帽子を左手にそれぞれ持ち、胸に抱えたミシェルが立っていた。一度、ミシェルは目礼をしてエメロードの前を過ぎ去ると、祭壇にその花束を置いてエメロードの元に返った。
白色のシャツの上に濃紺のベストを着たミシェルの姿に、エメロードからも一礼する。
「御機嫌よう、ミスター・ミシェル。いつも素敵なお花をありがとうございます」
「いいえ、レディ・エメロード。礼には及びません。……ご迷惑になっていなければ、いいのですが」
その言葉に、一瞬だけエメロードは顔を歪める。
「少し、ミディは年齢にしては幼すぎるように思いますわ。まだ、あたくしの兄の遺言を理解できないでしょう」
「そうでしょうね。できたところで、そんなものを覆そうと努力してしまうでしょう」
「それは、この街の掟に反しますわ。それではいけないのです。そんなことを、彼にさせてはいけないのです」
「ですが、レディ」
「残酷かもしれませんけれど、サー・アメティストとあたくしの婚礼が決まり、そのお式が執り行われるまでは、彼には内密にしておくのが良いと思いますの。それが一番、傷が浅いと――そう、あたくしは思いますの」
乏しい表情で、エメロードは一気に言葉を吐き出す。取り繕った仮面の言葉を、途切れさせないように、はがれかけないように、一続きのままミシェルの耳に届けた。
「……そう、レディ・エメロードがお決めになられたのならば。ですが、ミディも俺の立派な顧客です。彼が花を求め続ける限り、俺は彼に花を売り続けますよ」
「っ、そんなこと、したら」
「そう。九日後には『結婚の申し込みをしたい』になります。彼の本心が、貴女に伝わることになるのです」
「お願い、彼に花を売るのをやめてください! 彼の、彼の悲しむ顔なんか見たくない!」
「残念ですが、それは俺の意志に――そして、俺の大事な
「……嗚呼……!」
エメロードは、手の平で顔を覆い、祈祷台に崩れ落ちた。
「どうして! どうしてこんなに残酷なことばかりが待っているの!? あたくしが、何をしたっていうの……」
しとり、しとり、とエメロードの細い指から雫が落ちた。悲しみが具現化したその小さな欠片はエメロードの薄衣を重ねたスカートに落ち、静かに染みていく。
「何故あたくしの言葉は、願いは、神にも、生者にさえも届かないの? こんな、こんな悲しい思いをしなくてはならないのなら、いっそのこと、あたくしが――」
がぁああああああああああああっ、ぎ、がぁ――――!!
エメロードの言葉をかき消すように、教会の裏手から轟音《ごうおん》が鳴り響いた。
おつきの男とミシェルがエメロードを庇うように覆いかぶさる。やがて長い長い残響さえも収まって、おつきの男が口を開いた。
「な、んだ?」
続いて、ミシェルがひっそりと声を出す。
「駅舎の、車庫の方から聞こえた」
そして、エメロードの背に悪寒が走った。
嫌な予感が当たらなければいい。何もない。そう、きっと何もないのだ。無理に自分を奮い起こし、おつきの男が制止するのにも構わず、スカートを翻し走り出す。
駅舎の車庫に向かって、思い切り走る。運動が得意ではないエメロードにとって、その距離は永遠にも思えた。
それを、視るまでは。
エメロードは、視てしまった。
永遠が、刹那に変わった。
大掛かりな
がらがらと崩れ続ける瓦礫の隙間から、だらりと伸びた脚。
それが履いている靴には、見覚えがあった。
毎日、エメロードの前でとん、と鳴らされる――ミディがいつも履いている、靴。
「いやああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!」
絶叫が、集まってきた野次馬たちの耳をつんざく。
エメロードの悲痛な叫びは、
「いやっ、いやああああっ、いやああああああああああああああっ!! ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい! もう、もう思わないから、思ったりしないから、『死んでまでも幸せになりたい』なんて思わないからっ!」
「レディ・エメロード」
人ごみをかき分けエメロードの肩を支えたミシェルにも構わず、エメロードは叫び続ける。
「だからっ! だからあたくしからこれ以上の希望を奪わないで!
もはや、顔を覆い隠すことすらしない。苦痛にも似た悲しみに歪んだ表情を隠さず、ぼたぼたと涙を流して、形振り構わずただ、泣いた。
エメロードには、何もできない。細い指で瓦礫を掻きだそうとも、すぐに指のほうに限界がきてしまうだろう。エメロードはその無力を熟知していた。
野次馬は雑言を吐き出すばかりで、何をしようともしない。騒ぎをききつけた駅員がミディの脚を見て、慌てて瓦礫をどかそうと足掻くが無駄に終わる。
大柄な駅員もやってきて、焦るばかりの心で瓦礫を大きく崩す。
そうした途端、再び瓦礫がうねり、ミディの脚をも飲み込んだ。
エメロードの喉は既に枯れ、叫び声さえも上げられない。
結果、足場が組まれ瓦礫が取り除かれたのは、三日後――ミディの死体が発掘されたのも、事件から三日後のことだった。
◆
「よう、ミシェルさん。こんな立派な葬儀あげてくれてありがとさんよぉ」
「どうも、駅長さん」
ミシェルは、喪に服すために正装した駅長に挨拶をされる。
当のミシェルは、黒いロングジャケットにやや歪んだシルクハット、そして薄い皮手袋――いつもの、ミシェルの仕事着の出で立ちでいた。
「ミディ坊もなぁ。こんなところで死んじゃ残念だろうに。大好きなお嬢さんが居たんだろう? レディ……」
「レディ・エメロード。サー・エメロード・デ・アルベールのご息女です」
「そうだったそうだった。いやぁ、ミシェルさんはこのシカトリスのことを何でも知ってらっしゃる」
「そんなこと、先代に比べれば」
目を伏せて、ミシェルは礼をする。
「ヴァレリアンさんもなぁ、もう少しばかり生きてもよかったとわしゃ思うよ。この街のことを、とてもよく考えてくれていた。カミサマは良い人ばっかり連れてっちまう」
「そうですね。
「おお、もう時間か。では、着席させてもらうよ」
ミシェルももう一度、駅長に目礼をして、喪主を迎える扉の前に立った。
天井の高い街の片隅の教会、その葬儀場。
白に統一され、中心に赤い
そしてミディの横たわる棺桶の中には、多くの深紅の薔薇が納められていた。
シスターが演奏する、パイプオルガンによる葬送行進曲が流れる。参列者は皆、黙とうをささげミディの死を悼んだ。
ミディには、身よりはいない。本来であれば親類や家族が喪主となり、亡き者に石造りの位牌を捧げるのだが、今回はその代役をミシェルが務めることになっていた。
――昨日までは。
「喪主であります、レディ・エメロード様のお着きであります」
そのミシェルの声に、言葉に、参列者は皆、扉の方を驚きの表情で見やる。
凛、とした表情。
大人びたその表情を隠す黒いヴェールと、
しかしその金糸の髪と、金の瞳は、見まごうこと無くレディ・エメロードその人だった。
左手に位牌を抱いているほかに、右手に、大ぶりな花束を抱えている。
その花束は赤く、赤く、そして一点だけ黒かった。
かつん
硬い、葬儀用の履き慣れない靴の音を鳴らして、エメロードはミディの棺桶の前に立った。
別れの言葉を、ゆっくりと口に出す。
「ミスター・ミディ。貴方にあたくしから九九本の赤い薔薇を、そして貴方の棺に八九九本の赤い薔薇を。そして――」
エメロードは花束を解き、中から身に纏うドレスと同じ色、漆黒の薔薇を引き抜いた。
残りの赤薔薇が、ミディの横たわる棺桶にばらり、と舞い散る。
「この、一本の黒薔薇で――貴方に《何度生まれ変わっても貴方を愛す》ことを誓いましょう。黒薔薇の、呪いの言葉で。黒薔薇の、貴方を私のものにするという呪いで」
愛おしそうに、レディ・エメロードはミディの死体に寄り添い、語り掛ける。
「どうか、どうか叶うなら。死んでも願いが変わることが無いのなら。ミスター・ミディ、未来で待っていて。あたくしも、必ず貴方の元へ参ります」
柔らかい、口づけ。
生者にするのと変わらないその行為。だが、エメロードの唇に触れたのは、冷たくなった亡者の、ミディの唇だ。
ミディの遺した遺言はひとつ――
『なんど生まれかわっても、エメロードをあいしている』
それだけだった。
◆
「『亡き者と神へ、
ミシェルは己の店の中に、薄暗く湿った地下室の中にいた。
地下室にミシェルの紡ぐ祈りの言葉がぼんやりと響く。
今日は三つある作業台の上のどれにも、死体は乗っていない。
大理石でできた、机替わりに使っている大きな台の――そのさらに奥。
黒曜石の十字架で飾られた、木製の棺桶。
その肌触りを確かめるかのように、ミシェルは皮手袋を外した右手で撫でた。
「ヴァレリアン……」
亡き者は、二度と還らない。未来にさえ、
その不安を、ミシェルは痛いほどよく知っていた。
「今日も一人、アンタの元へ行ったよ。良い、式だった。アンタは、褒めてくれるかな」
ぎゅ、と右手を握りしめる。
ミシェルの言葉に応えるべき人間。Valerian=Undergroundはもう、この世にいない。
「いつか、アンタの
ゆっくりと瞼を閉じたミシェルの瞳には、うっすらと銀の雫が浮かんでいた。
零さないよう、ヴァレリアンが向かった先である空を天井越しに見上げながら、ミシェルは誓う。
『亡き者に、生きる者から最高の葬送を。自身から、生きる者には最高の花束を』
それが――ヴァレリアンの遺言だ。
じっくりと、噛み締めるように……ミシェルはヴァレリアンから受け継いだロザリオを、黒いロングジャケットの中で握りしめた。
【永遠を貴方に――fin】
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